★『宮城谷三国志』総合スレッド★
243:左平(仮名)2009/10/25(日) 22:42:15 ID:5TLCoJWz0AAS
三国志(2009年10月)

今回のタイトルは「陳倉」。曹操等には及ばぬまでも、諸葛亮の軍事手腕に一定の成長が見られます。

まずは前回の続きから。曹休の敗退を知った賈逵は、彼が向かうであろう夾石に軍を進めることにします。そこ
には、撤退する曹休を待ち構える呉軍がいましたが、賈逵はこれを難なく蹴散らし、無事、曹休と合流すること
ができました。
全体的には魏の敗戦とはいえ、主だった将帥の戦死もなく済んだのは、ひとえに賈逵の功です。しかし…

なぜか、賈逵は曹休には嫌われていました。ともに戦場においては勇将でしたが、二人の勇気の質が違っていた
ため、とのことですが…自分の窮地を救ってくれた賈逵に当たり散らすあたり、第三者からみると、どちらの勇
気が優っているか、は言うまでもないような…。
その後、ともに経過報告を奏上しますが、曹休のそれには、敗戦の責を賈逵に押しつけようとするところがあり
ました。
どちらが正しいかは分かっている曹叡でしたが、皇帝である彼も、帝室の一員たる曹休には強く出られないため、
この件はうやむやのうちに終わります。
曹休はかくも大事にされていたわけですが、彼のプライドは深く傷つき、憤りの余り、間もなく没します。
初めての敗北が、結果として彼を死に追いやったわけです。敗北から学べなかった武将の悲劇、でしょうか。

…曹操が薨じてから十年足らず。しかし、彼とともに戦ってきた曹氏の多くが既に没し、世代交代しています
(曹洪はまだ生きているはずですが、曹丕の時代に一度失脚したためか触れられていません)。
そのため、曹真が一族をとりまとめる立場に立ちます。…ん?この流れは…?

長くなるので続きます。
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