★『宮城谷三国志』総合スレッド★
258:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:15:08 ID:???0 [sage ]
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「遼東」。以前に、「後漢のあとは、三国時代というより四国時代というほうが正しいかもしれない」。
と書かれていましたが、今回は、主に遼東の公孫氏について語られています。

さて、魏には多くの名臣がいたわけですが、今回最初に語られたのは、その一人、陳羣。前回見せ場のあった田豫と同様、
省20
259:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:16:10 ID:???0 [sage ]
続き。

陳羣は少なからぬ諫言を行いました。それはしばしば曹叡の心を打ち、受け入れられてきました。ただ、即位から数年が
経ち、その治世に自信がついてくると、ときに聞き入れられなかった事例も出てきます。
ここでは、二件(曹叡の愛娘の葬礼、宮殿造営)挙げられています。
宮殿造営については、秦の滅亡の一因とみる陳羣と国威発揚とみる曹叡との考え方のずれというものがあり、陳羣の真摯
省23
260:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:16:55 ID:???0 [sage ]
続き。

とはいえ、曹叡は決して凡君・暗君の類ではありません。前述の、愛娘への過剰な哀惜も、国政の運営が大きな過失なく
行われているがゆえの余裕ともいえるわけです。

一方、魏人の目の届かない海上では…密かに、南に向かう船団の姿が。それは、呉に向かう、遼東の使節。彼らは、主・
省22
261:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:18:12 ID:???0 [sage ]
続き。

ともあれ、呉の使節団は出港しました。時は春。孫権は上機嫌で送り出しました。その末路がいかなるものになるかも
知らずに。
往路は、まずは無難に進み、無事、遼東に到着しました。しかし、どこか様子が変です。呉に臣従するという割には、
遼東側に謙譲の姿勢が見られないのです。
省14
262:左平(仮名)2010/04/25(日) 21:44:15 ID:???0 [sage ]
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「張昭」。呉の重鎮・張昭の最後の見せ場(?)があります。

まずは、前回の続きから。正使・張弥の命をうけ、津に残る軍勢への連絡を託された健脚の二人。普通なら、何とか目的を
果たすところですが…ここでは、あっけなく討たれました。
省21
263:左平(仮名)2010/04/25(日) 21:46:21 ID:???0 [sage ]
おっと…今回は4月です。コピペの修正を忘れてました。

続き。

宮城谷作品のファンであれば、「薛」という字に覚えがあるはずです。そう、孟嘗君・田文の領地です。田文の死後、後継者
争いがあり国は滅ぼされましたが、その一族まで消滅したわけではありません。
省19
264:左平(仮名)2010/04/25(日) 21:47:14 ID:???0 [sage ]
続き。

諫言自体は、薛綜以外にも、陸遜等、数え切れないほど為されましたが、ひとり、肝心な人物の名がありません、張昭です。
自己嫌悪に陥っている孫権、これにかっときたのか、張昭の屋敷の門外に土を盛ります。「出てくるな」というわけです。
これをみた張昭も負けてはいません。「あの愚かな天子は、このように正言を吐く臣下の口を閉じさせたのだ」と、こちら
は門内に土を盛ります。絶対に自らは出ないという意思表示です。
省14
265:左平(仮名)2010/04/25(日) 21:47:45 ID:???0 [sage ]
続き。

ここで、曹丕の名が。父・曹操に「武」という諡号を付けたわけですが、事績を、そして、生前の曹操の言動を鑑みれば、
「文」と付けるべきではなかったか。この点からも、徳が薄いと言われています。

さて、呉の使節団を殲滅し、正使・副使らの首を魏に差し出した公孫淵ですが、使者の復命に疑心暗鬼を生じ、魏の使者に
省8
266:左平(仮名)2010/05/31(月) 00:52:17 ID:???0 [sage ]
三国志(2010年05月)

今回のタイトルは「流馬」。いよいよ西暦234年。魏と蜀漢との一大決戦の時が近づきつつあります。

…とその前に。この年、山陽公、すなわち後漢最後の皇帝であった献帝・劉協が逝去しました。既に、曹丕の時に、どの
ような礼をもってするか決められていたようで、粛々と葬礼が執り行われました。後嗣は嫡孫。劉協の享年が五十四です
省19
267:左平(仮名)2010/05/31(月) 00:53:32 ID:???0 [sage ]
続き。
馬忠が中央に知られたのは、上司の閻芝の命を受け、兵五千を率いて劉備の救援に赴いた時のこと。この時劉備は、黄
権を失ってしまったが狐篤を得たと喜んだといいます(ところで、閻芝はどうだったんでしょう)。
行政官としては叛乱が鎮定されてほどない郡をみごとに治め、将としてもそつのない馬忠は、まさに文武兼備。諸葛亮
にも気に入られ、文武の職を歴任します。

省15
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