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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
295:左平(仮名) 2011/01/06(木) 01:12:51 ID:???0 [sage ] 続き。 これ以外にも、遼東国の高官達も殺されています。しかし、それ以外については、概ね寛容をもって対応。年内にかたが つきました。 その知らせは、洛陽にもたらされ、曹叡は絶賛します。たとえ小国とはいえ一国の併呑に成功した(これにより、少なく とも父・曹丕の業績を超えた)わけですから、感慨もひとしおだったことでしょう。 前線に立った経験もないのに、優れた戦略眼を持つ曹叡(具体例として、西方の叛乱における郭淮の対応のまずさを的確 に指摘したことが挙げられています)。前回語られたようなマイナス面もあるとはいえ、間違いなく英邁な帝王である彼 であれば、天下統一もあながち夢ではなかったでしょう。しかし…。 十二月。曹叡は病の床に臥しました。月初めに床に臥し、月末には危篤状態に。諸葛亮もそうですが、一月足らずでこれ ほど病状が悪化するとは、どのような病なのか。 ともかく、自身の死期を悟った曹叡は、後継体制の整備を急ぎます。 帝位は、養子の曹芳に。諸葛亮の如き者がいれば、その者に全権を委ねることもできますが、魏にはいません。さてどう したものか。…曹叡は、信頼できると判断した者達による集団指導体制(叔父である燕王・曹宇が筆頭)を考えます。 夏候献(不明)、秦朗(曹操の側室・杜氏の連れ子)、曹爽(曹真の子)、曹肇(曹休の子)。いずれも、帝室に近い者 達です。王朝に対する忠誠心はあるとしても、果たして能力的にはどうか(特に秦朗)。それより… 続きます。
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