★『宮城谷三国志』総合スレッド★
296:左平(仮名)2011/01/07(金) 01:00:05 ID:???0 [sage ]
続き。

この人事によって発生する、宮廷内の権力構造の大変動が問題です。事実、この人事に危機感を持った者がいました。
長く皇帝の秘書官的な役割を果たしてきた、劉放・孫資です。
秦朗、曹肇の放言から、自分達を排除しようとする意図をかぎつけた二人は、曹叡に直訴し、詔勅を変更させることに
成功します。それに気付いた曹肇が再度詔勅を変更させますが、ここが勝負どころ、と見極めた劉放・孫資がふたたび
省21
297:左平(仮名)2011/01/29(土) 09:54:30 ID:???0 [sage ]
三国志(2011年01月)

今回のタイトルは「浮華」。三国鼎立となってから十年余り。そろそろ、緩みが出てきたということでしょうか…。

曹叡は、司馬懿を待っていましたかのように崩じました。司馬懿が到着し、彼に後事を託したその日のことです。
「死さえ忍べは引きのばすことができる。朕は君を待っていた」。帝王からこのように言われて感動しない臣下は
省21
298:左平(仮名)2011/01/29(土) 09:55:28 ID:???0 [sage ]
続き。

そう思った丁謐は、曹爽に、その意見を開陳します。彼は、かつての曹操の幸臣・丁斐の子。物怖じしない態度と
読書で培った知識の故、沈毅とみられていた彼の意見には、なるほど一理あります。責任の所在が曖昧なままだと、
大事の際に、迅速な対応ができないということはあります。
もちろん、単に道理だけでなく、帝室たる曹氏一門の利害ということも考慮されています。いずれ、権力は一元化
省18
299:左平(仮名)2011/01/29(土) 09:56:28 ID:???0 [sage ]
続き。

一方、実権を握った曹爽は、自らの体制作りに取りかかります。弟達を諸候にし、発言力を強化するとともに、賢
人と見込んだ者達を集めたのです。
彼らは、なるほど、なかなかの才覚の持ち主です。しかし、文帝・明帝からは「浮華」であるとして遠ざけられて
いたということを、曹爽は、どう思ったのでしょうか。
省19
300:左平(仮名)2011/01/29(土) 09:57:28 ID:???0 [sage ]
続き。

膂力に富み、謙虚な人となりを評価されて貴臣となった朱拠にもその毒牙は及びました。無実の罪で、彼の部下を
獄死させたのみならず、その部下を憐れんで手厚く葬ったことを、悪意を持って讒言したのです。

このままではいけない。都を離れ、任地にあって軍を統率する陸遜・潘濬は、強い危機感を抱きます。特に潘濬の
省25
301:左平(仮名)2011/02/27(日) 01:30:30 ID:???0 [sage ]
三国志(2011年02月)

今回のタイトルは「赤烏」。今回は殆どが呉の話ですが、何かもどかしいというか、すっきりしないものがあります。

呂壱の跋扈と失脚。これは、単に呂壱一人の問題なのでしょうか。呉の人々は、そうは思いませんでした。彼が台頭
し得たのは、不完全とはいえ、皇帝・孫権の本音を代弁していたからです。人々は、そこに、孫権の本性を垣間見て、
省19
302:左平(仮名)2011/02/27(日) 01:31:51 ID:???0 [sage ]
続き。

このような履歴を持つ彼のことですから、当然、呂壱の重用について、しばしば諫言を行いました。呂壱を信任して
いた孫権は、当初、「あの歩騭まで讒をなすか…」と思うのですが、徐々に、呂壱への過度の信任に疑問を抱くよう
になります(決め手となったのは、前回書かれたとおり潘濬の諫言ですが、歩騭の諫言もなかなかに堪えたと思われ
ます)。
省22
303:左平(仮名)2011/02/27(日) 01:33:17 ID:???0 [sage ]
続き。

さて、そんな中、麒麟が見つかったという知らせがもたらされました。先に、「嘉禾」の発見をもって「嘉禾」と改
元したわけですが、今回は「麒麟」とはせず、自らも目撃した「赤烏」を元号としました。
麒麟が出るような太平の世でもないのに…ということのようですが、臣下の言葉に不信感を持っているような…。

省17
304:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:21:21 ID:???0 [sage ]
三国志(2011年03月)

今回のタイトルは「蔣琬」。蜀漢の話が出てくるのは、久しぶりですね。

タイトルは「蔣琬」ですが、まずは、前回の続きから。朱然を迎え撃つは、胡質と、蒲忠という将。まず、蒲忠が
突出したことから、戦況が動きます。
省22
305:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:22:42 ID:???0 [sage ]
続き。

「あれは、しくじった」

それは、明帝が崩じてから間もなくのこと。遺詔により、宮殿の造営は「休止」されましたが…一応は再開の可能
性がある以上、動員された人夫は帰るに帰れない状態に陥っていました。これを、明確に取り止めさせたのは、何
省22
1-AA