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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
363:左平(仮名)@投稿 ★2012/02/04(土) 02:26:02 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2012年01月)
今回のタイトルは「太傅」。久しぶりに三国の情勢が語られます。大物達が相次いで亡くなったことで、時代が再び大きく
動こうとしています。
まずは、孫権が崩じた呉から。新帝・孫亮が幼少であることもあり、諸葛恪が巨大な権限を握ったわけですが、冗官を廃し
たり税の減免をする等の施策もあって、上々の滑り出しをみせます。
さて、国外に目を転ずると…。魏との戦いは膠着状態とはいえ、やや劣勢。ただ、呉にとって脅威であり続けた王淩は既に
亡く、司馬懿も亡くなりました。この頃、魏の脅威は、やや弱まっていると言えます。
性急なところのある諸葛恪は、魏への牽制とするべく、新たな城を築かせました。
これにいち早く反応したのが、王淩に代わって対呉戦線を所掌することとなった諸葛誕でした。呉に動きありとみた彼は、
すぐさま呉を攻めるべきであると上奏します。
司馬懿亡き後、服喪中ということもあり沈黙を保っていた司馬師は、このことをさほど重視してはいませんでしたが、呉も
また服喪中であろうはずのこの時期に動いたことを訝しく思い、彼の意見を採用することとしました。
諸葛誕の他にも、先の戦いで戦果を挙げた王昶達も呉を攻めるべきであると上奏していたこともあり、呉を攻めることに
ついては、すんなりと決定しました。わずかに傅嘏が異見を述べましたが、余りにも少数意見。
魏は、この戦いに、十分すぎるほどの大軍を動員しました(諸葛誕・胡遵、毌丘倹、これに王昶)。胡遵は、かつて司馬懿
のもとで堅実な戦いぶりを見せた良将。毌丘倹は、公孫淵を攻めきれなかったとはいえ、その後の高句麗との戦いにおいて
目覚ましい戦果を挙げています。王昶は、数回前に触れられたように諸事にそつのない人物です。万全の体制と言ってよい
でしょう。諸葛恪は、いきなり大きすぎるほどの試練に見舞われます。
続きます。
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