下
★『宮城谷三国志』総合スレッド★
392:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:07:17 ID:???0 [sage ] 続き。 文俶の戦いぶりは凄まじいものでした。圧倒的な大軍が相手とはいえ、夜が明けきらぬうちの急襲だったことが功を奏し、 司馬師の陣営は大混乱に陥ります。 それだけではありません。この混乱のため、司馬師の体調が一気に悪化したのです。 とはいえ、文俶の手勢は僅かです。夜が明けてケ艾達も合流すれば包囲殲滅される恐れがあります。文俶は、未練を残し つつも、撤退します。 撤退の途中、文欽の軍勢と合流しますが、(司馬師の叱咤で)混乱から立ち直った大軍が迫ります。報告を聞いた文欽は、 迷うことなく撤退しました。 文俶は、自らが殿を引き受け父を逃がします。この戦いぶりがまた凄まじく、その武威に恐れをなしたか、以降、追撃は ありませんでした。 物語では、文俶は趙雲に比せられていましたが、そう言われるのも無理からぬ戦いぶりです。人並外れた武勇に加えて 冷静な判断力。この二つを兼備した勇者は、なかなか得難い人材です。 また、文欽の逃げ足の速さもなかなかのものです。猛将とはいえ退くべき時が分かっているあたり、ただの猪武者では ありません。 文欽達は無事に撤退しました(そのまま呉に亡命)。しかし、その一部始終を聞いた毌丘倹は愕然とします。ただでさえ 兵力が漸減しているというのに、大将軍自らが率いる大軍が迫っているとなると、こちらの劣勢は明らかなのです。 毌丘倹は、体勢を立て直すべく、いったん本拠地の寿春まで退くこととしました。 続きます。
393:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:13:48 ID:???0 [sage ] 続き。 一刻も早く寿春に…と思ったのでしょうが、毌丘倹は、なぜか側近のみを従えて項城を後にしました。いかに漸減していた とはいえ、まだ相応の軍勢がいたはずなのに、です。 側近のみ、とはいっても、城を出た時点では多数いたのですが、櫛の歯が抜けるように欠けていき、ついには、弟と孫のみ になりました。いくら勇将とはいえ、これでは、追っ手に捕捉されたらひとたまりもありません。 項城の異変に気付いたのかどうかは分かりませんが、寿春への途上には、既に(近隣住民も駆り出した)捜索網が敷かれて いました。 捜索を避けるべく、毌丘倹は草むらに身を潜めます。そこに、捜索に当たっていた張属が矢を放ちます。矢は毌丘倹の首を 貫きました。…数万の大軍を率い、少なからぬ功業を挙げた勇将としては、あまりに呆気ない最期でした。首をみた司馬師 が慨嘆したのも無理からぬところです。 かくして、毌丘倹の決起は失敗に終わりました。しかし、ここで新たな問題が発生しました。司馬師の容態が悪化し、ついに 亡くなったのです。享年四十八。 死期を察した傅嘏・鍾会が、司馬昭を呼び、軍の引き継ぎを行ったため、ひとまず混乱は回避できました。とはいえ、これは あくまでも私的な引き継ぎ。皇帝・曹髦の承認を得たものではありません。 当然、洛陽からは、「司馬昭は引き続き本務にあたれ(毌丘倹討伐のために動員された軍は傅嘏が率いて洛陽に帰参せよ)」 という命令が届きます。兄の後を継いだばかりの司馬昭、いきなりの重大局面です。 続きます。
394:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:18:02 ID:???0 [sage ] 続き。 このとき、傅嘏は、自分が司馬師に出師を強いたばかりに…と自責の念に駆られていました。また、前回も書かれていたよう に、曹髦の器量に不信感を抱いていました。 それゆえ、彼自身は司馬氏の家臣ではありませんでしたが、司馬昭のために何をすべきか…と思っていました。そんな彼の判 断は、皇帝の命令を無視し、司馬昭が軍を率いたまま洛陽に向かう(洛陽近郊で停止し威圧する)、というものでした。 いかに少年とはいえ、相手は皇帝。正面から命令を無視するのですから、大変な判断です。が、司馬昭も、ここが勝負どころ と分かっていましたから、この判断を善しとし、実行に移します。 既に皇帝を凌駕する実力の持ち主が、大軍を率いたまま、洛陽近郊で停止し沈黙したのですから、大変な威圧です。ついに、 この件は皇帝側が折れる(司馬昭を大将軍に任命し、公私ともに司馬師の後を継がせた)という形で決着しました。 この重い判断が心身に堪えたのか、ほどなく傅嘏は世を去ります。彼の最後の心配は、ともに司馬師を補佐した鍾会に驕りの 色が見えてきたことでした。もちろん、鍾会を戒めてはいますが、彼がそれをどう聞いたかは…。 追記。 毌丘倹も、傅嘏も、国を想う人物であったことは間違いないでしょう。しかし、毌丘倹にとっては国=曹氏(特に曹叡)なの に対し、傅嘏にとっては国≠曹氏であった点が異なります。 外伝でもあったように、いわゆる名士にとっては、曹操の出自(宦官の養孫)はどこまでいっても汚点扱いなのでしょうか。
395:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/09/04(火) 03:19:50 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年08月) 今回のタイトルは「蛇足」。前回、呉・蜀漢に動きあり、というように書かれていました。このタイトルとの関連は…? まずは、呉から。孫権には七人の男子がいたわけですが、特にできのよかった上の二人(誠実な努力の人であった孫登、 才徳共に秀でた孫慮)が若くして薨去したのが呉にとって大きな不幸となったことは、既に書かれているとおりです。 二十歳で薨去した孫慮には子はいませんでしたが、三十三歳で薨去した孫登には三人の男子がおり、孫英がぶじに成人 していました。 本来であれば孫権の嫡孫であるわけですが、この時点で帝位にあるのは、孫権の末子・孫亮でした。孫英自身には野心は なかったようですし、太子となるまでの経緯はともかく、孫亮は正当に即位したわけですから、本来なら何の問題もない はずなのですが…孫亮が(結果的に)信任している孫峻が、問題でした。 信望を失った諸葛恪を倒した孫峻には、少なからぬ期待が寄せられていました。才智では及ばぬまでも、誠実かつ慎重に 振る舞えば、無難に国政を運営することができたでしょう。しかし、孫峻がしたことは、その逆でした。人々の期待は、 瞬く間に失望に変わりました。 孫峻を打倒せねば。そう思う人々は、自分達の行為を正当なものとするため、旗印となる人物の擁立を考えます。孫権の 嫡孫たる孫英は、うってつけの存在でした。 しかし計画は露見。孫英は、関与を疑われ自害しました。享年は不明ですが、恐らく二十歳程度とのこと。 続きます。
396:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/09/04(火) 03:21:38 ID:???0 [sage ] 続き。 孫峻打倒計画は、これだけではありませんでした。蜀漢の使者が来訪する折を狙って…というものでしたが、これも失敗。 才智においては諸葛恪に劣る孫峻ですが、身の危険を察知することには長けていたようです。 これらの計画は、特に関連はなかったようですが、孫峻は、皇帝・孫亮を疑うようになっていきます(賢さを顕示しない という賢さがある、とみて警戒したのです)。 そんな中、敵地に城を築くと宣言。わずかに滕胤が諫言したものの、孫峻は聞く耳を持ちません。今回の時点においては 大きな動きはないようですが、孫峻に、いわゆる死亡フラグが…? 一方、蜀漢の方は、というと…。費禕の死後、毎年のように兵を動かしていた姜維が、またしても動こうとしていました。 毌丘倹の決起をみて、魏の西方の備えが手薄になっているのではないか、と判断したのです。さすがに国力の疲弊を危惧 した張翼が諫めたのですが、姜維はこれを無視。強引に出兵を決めます。 ただし、この出師には張翼も同行しています。劉備の時代から仕えてきた老将の存在は、なかなか大きいのです。 また、夏侯覇の名もあります。 これを迎え撃つのは、雍州刺史であった王経。教養も気骨もある好人物ですが、軍事的手腕については、ちょっと…という ところ。西方の軍事を統括する陳泰に急報を送ったのはいいとして、情報が整理されていませんでした。 陳泰は、情報が錯綜していることを見抜き、速やかに指示を下します。その指示は的確なものだったのですが、通信手段が 限られている時代です。王経は、その指示に従わず(指示が届く前に)動いていました。 続きます。
397:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/09/04(火) 03:23:35 ID:???0 [sage ] 続き。 魏にとっては最悪の展開です。王経は、迎え撃つ側であるにもかかわらず、不利な地に布陣してしまったのです。速戦を 好む姜維にとっては、願ってもない状況。あっさりと打ち破りました。魏軍は川に追い落とされ、甚大な損害を蒙ります。 辛うじて狄道に逃げ込んだ王経。なお一万の兵を擁するとはいえ、城は包囲され、兵糧は僅か。絶体絶命と思われました。 姜維がさらに攻勢に出ようとするのも無理からぬところ。張翼が「蛇足である」と諌めますが、聞くはずもありません。 しかし、陳泰は慌てません。援軍は、いずれもケ艾等の良将の率いる精鋭。都の司馬昭からも十分な後援が期待できます。 陳泰が行軍の速度を落とすまでもなく、援軍が追い付いてきました。ここで、軍議です。 軍議において、ケ艾は、要地に拠って敵の鋭鋒を避けては…と進言しますが、陳泰はこれを退けました。姜維の動きは、 魏にとっては最悪のものではない(狄道の攻略に固執したことで、西方諸郡を抑えられる危険がなくなった)。それゆえ、 速やかに狄道に向かい、王経を救うべきである、というのです。 ここは、陳泰の言うことに理がありました。ケ艾は良将ですが、ここは慎重に過ぎたようです。 ともあれ、魏軍は狄道に向けて進軍します。狄道に向かうルートは二つありますが、陳泰はあえて迂路とみえるルートを 進みました。それでも十分な速さで進み、蜀漢軍に気付かれることなく、狄道の近くまで進出することに成功しました。 そのまま奇襲することも可能でしたが、援軍の到着を知らせるべく、狼煙をあげました。陳泰にしてみれば、この戦いの 目的はあくまで王経の救援であって、蜀漢軍の撃滅ではないからです(城内が援軍の到着に気付かないと、動揺した将兵 によって王経が殺害される恐れがあった)。 続きます。
398:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/09/04(火) 03:26:23 ID:???0 [sage ] 続き。 奇襲ではなくなりましたが、蜀漢軍からすれば、いつの間に、という状況には違いありません。城を包囲する兵を残しつつ、 新たな敵軍を迎え撃つというのは、相当な余裕がなければ不可能です。陳泰は、負けるはずがない、と余裕綽々で臨みます。 蜀漢軍は精強ですが、状況が状況ですし、魏軍も十分に精強です。しばらく一進一退の状態が続きましたが、やがて、蜀漢 軍の方が引いていきました。 こうして、魏軍は、狄道の救援に成功したのですが…ここでも、王経は陳泰の指示に従っていませんでした。必要ない、と 言われていたにもかかわらず、涼州に援軍を要請していたのです。戦後、王経が罷免されたのも、無理からぬところです。 一方、陳泰は昇進し、中央に戻ることになりました。 陳泰のあと、西方を任されたのは、ケ艾でした。先の戦いでは慎重に過ぎたケ艾ですが、西方の疲弊と、姜維の過剰なまでの 戦意に気付いていました(陳泰をはじめ、魏の誰もが、補給が続かないから姜維はしばらく動かないと思っていたが、ひとり ケ艾は、遠からず、姜維が攻めてくると予期していた)。 そしてその予想は当たりました。陳泰に敗れたとはいえ、その前の大勝の功績をもって大将軍に昇進していた姜維は、また しても兵を出してきたのです。 初めはケ艾を軽く見ていた姜維ですが、なかなかの難敵と分かると、胡済の軍と合流し、膠着状態の打開を図ります。さて、 これがどう出るか。 追記。 陳泰の活躍が目立ちましたが、一方で、魏と蜀漢の国力の差というものを見せつけた戦い、という感じがします。 先の曹真のときもそうでしたが、蜀漢は「勝たねばならない」のに対し、魏は「負けなければよい」わけですから。 また、呉の迷走ぶりもひどくなっています。政治的正統性(魏→漢から禅譲を受けた 蜀漢→漢の血胤)を持たない だけに、これを何とかしないといけないわけですが…。
399:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/10/08(月) 06:31:34 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年09月) 今回のタイトルは「緩急」。ちょっとした差が運命を分かつ…といったところでしょうか。 胡済の軍を待った姜維でしたが、なかなか来ません。この時、姜維が率いていたのは「軽兵」。普通は軽装の兵、という ことなのですが、先に狄道を包囲した際に攻城兵器がなかったと思われるため、「大型兵器を持たない兵」という含みも あったのではないか、とのこと(となれば、それを補うことを期待された胡済の軍には大型兵器があった→当然ながら行 軍は遅くなる)。 結局、胡済の軍との合流がならないままにケ艾と正面から戦うはめになり、大敗を喫しました。段谷の戦いです。 相手方に地の利があり、かつ、名将のケ艾が相手となれば、仮に合流が成ったとしても難しかったかも知れませんが…。 この敗戦は、単なる負け戦に留まりませんでした。せっかく服属させた西方諸族が、蜀漢から離反してしまったのです。 精兵も多く失ったため、蜀漢の軍事力は、大幅に低下することに。さすがに堪えたのか、姜維は、かつての諸葛亮に倣い 自ら降格を申し出ました(といっても実務上の権限はほぼそのままですが)。 もっとも、そういうことがあっても、姜維の戦好きは収まりません。これには、張翼も苦言を呈しますが、相変わらず、 聞く耳を持ちません(それでもなお、不思議と張翼を遠ざけなかったのですが)。 蜀漢は、こんな具合。直ちに滅亡には至らないにしてもジリ貧といった感じがあります。相変わらず劉禅の影が薄いです。 では、幼帝・孫亮を戴く呉は、どうなのでしょうか。 この頃、孫峻は、魏から亡命した文欽の言うことに耳を傾けていました。魏に付け入る隙あらば、というわけですが…。 続きます。
400:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/10/08(月) 06:33:14 ID:???0 [sage ] 続き。 魏は、既に司馬昭が実権を掌握しており(特に軍事面においては、独断で兵を動かすことさえ可能)、高官達も、その ことを概ねよしとしていました。孟子の教えによれば、曹氏<司馬氏なのであれば司馬氏の世になってもよい、という わけですから、高官達が司馬昭に媚びへつらっているわけではないのです。 事実、当時の高官の多くは、人格識見とも世に優れた人達が任じられていました。しかし、それが全てではありません。 司馬氏の方が良い政治を行うとしても、いまだ帝王ではないのです。臣下が帝王を脅かすのはどうか。そう思う人達も います。文欽も、その一人でした。 傲慢な文欽は、呉では嫌われていました。しかし孫峻は、彼の意気をみて、魏に隙ありと判断しました。蜀漢が段谷で 大敗したことを知ってか知らずか、魏への出師を決めたのです。 当然、呉内部では猛烈な反対にあいます。その一人が(孫権に後事を託されたうちの一人である)滕胤なのですが、孫 峻は、彼も連れて軍勢を見送ろうとしました。 その時、各将の陣を見て回ったのですが、その一人、呂拠の陣をみた際に、ただならぬものを感じます。…といっても、 異変があったわけではありません。将の威令がよく行きわたった、粛然とした陣があっただけです。 しかし、呂拠は、孫峻とともに孫権から後事を託された者の一人。もし、呂拠と滕胤が手を組んで自分に敵対したら…。 不意に胸騒ぎを覚えた孫峻は、送別の宴に出ることもなく、引き返しました。 続きます。
401:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/10/08(月) 06:35:33 ID:???0 [sage ] 続き。 時宜に適ったとはいえない出師です。滕胤の助言もあり、呂拠は行軍を急ぎません。そんな中、急を告げる使者が訪れます。 孫峻が、亡くなったとの知らせでした。 やがて続報が入り、急な胸の病による死であったことが判明します。さて、そうなると、たれが後任になるのか。 さらなる続報は、驚くべきものでした。孫峻のいとこ、とはいえ、これまで何ら目立った実績のない孫綝が実権を掌握した というのです。 このことに対し、呂拠は激しく憤ります。孫権に後事を託された滕胤と自分がいるのに、何ゆえ孫綝が、と。呂拠は、滕胤を 孫峻の後任とするよう上奏し、兵を引き返そうとします。 これに対する孫綝の動きは、存外素早いものでした。自身に正当性がないことが分かっているからか、政敵と妥協するという 選択肢は、端からなかったのです。 まず、滕胤を遠ざける命令を出させると、一族の孫憲(孫慮)を遣わし、滕胤を討とうとします。 呂拠に対しては、兵を引き返したことをもって謀叛の疑いありとし、呂拠の属将達に、呂拠を討つよう命じます。これにより、 呂拠の軍勢の動きは遅くなりました。 滕胤は、呂拠の軍勢と合流できれば、十分に勝機はありました。しかし、わずかに、間に合いませんでした。滕胤は討たれ、 呂拠は、呂範の子としての矜持をもって、自害して果てました。 相前後して清廉の人・呂岱も世を去り、呉において、孫綝を制する者がいなくなったのです。孫綝としては、これはもっけの 幸いでした。しかし、彼に国政を牛耳られた呉にとっては、どうなのでしょうか。
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
★『宮城谷三国志』総合スレッド★ http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1035648209/l50