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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
109:★ぐっこ 2004/02/14(土) 00:13 読みますた! うーん、今回は何というか、堅パパファンデーの如く! 侵攻ルートの実力者を次ぎ次ぎと殺しながら北上する男っぽさ、 徐栄はともかくとして、胡軫、華雄、呂布を連戦でうち破る 戦上手さ! このへん董卓と轡を並べた頃のすごみがあってよい! 所詮その董卓の部下には負けっこないわけですな… 袁術は、このあたりまではまだ兄よりまともだったのにね…
110:左平(仮名) 2004/03/10(水) 23:12 妻を人質にとられた孫堅は、あっさりと玉璽を差し出しました。演義とはちょっと違います。 袁術も、これには上機嫌。孫堅は豫州刺史に任ぜられます。 当時、豫州刺史は孔チュウ【イ+由】でしたが、辞任し、その印綬を袁紹に預けていました。 後任として任ぜられたのは、周昂(周ウの弟)。 印綬を持つという点では周昂、朝廷に対する忠勤という点では孫堅。ともに、十全の正当性を 持たないだけに、決め手を欠き、激烈な争いとなります。 その一方、北では公孫サン【王+賛】と劉虞の争いが。結果は、公孫サン【王+賛】が劉虞を 殺害するというものでしたが、今回、それについてあまり詳しくは語られませんでした。 一方で、劉虞の依頼を受けた田疇が、使者として長安に赴き賞賛された事、そして、それに答 えるべく劉虞の子・劉和が派遣された事(そして、この劉和は孫堅と周昂の争いに少なからず 関与した)事が語られます。 まだ一族の仇・董卓が健在だというのに、袁紹と袁術が相争っています。 安定した勢力圏を渇望した袁紹は、逢紀の進言を容れ、韓馥から冀州を強奪します(その後韓 馥は自殺しますが、袁紹側が相当圧力をかけ、追い込んでいた様です。全く、悪どい事をする ものです。韓馥には恤民の心がありました。そんな人物を死に追いやるとは。やれやれ。これ では、荀揩ネらずとも見限りたくもなるか)。 官渡にはまだ数年ありますが、これでは曹操との戦いの結末も、おのずと見えてくる。そんな 感じさえしてきます。 董卓が長安にいた頃、関東の情勢はこんな感じでした。…こうしてみると、三国志に至る全体 像って、案外見えてないものですね。
111:左平(仮名) 2004/03/11(木) 21:23 今回書かれた袁紹と袁術の争い、もう少し詳しく書くと…。 反董卓連合が為すべき事も為さずにいる様をみた劉虞は、朝廷(≠董卓)に対する忠勤を示すべく田疇を派遣。 ↓ 田疇は、「状のル−トをとり、長安へ(幽州から西に向かい、そこから一気に南下。争乱の中にある中原を避けた)。 ↓ 皇帝は、劉虞に対し、自分を救い出す様依頼すべく、劉和を使者にたてる。 ↓ 劉和はV状のル−トをとり、幽州へ向かおうとする(長安から南下し、中原を避ける)。 ↓ 袁術が劉和を引き留め、別に使者を幽州へ派遣。劉和は留めおかれる。 ↓ 劉虞、袁術と連携して皇帝を救わんとし、軍勢を派遣。公孫サン【王+賛】は、一族の 公孫越をつけ、隙あらば…と指示 ↓ 孫堅と周昂の戦いに、幽州軍参戦。公孫越は討死し、孫堅を援護するはずの幽州軍は崩れるも、 孫堅が、優勢になった事で気を緩めた周昂を攻め立て、勝利。 ↓ 公孫越の討死に怒った公孫サン【王+賛】、袁紹と対立 ↓ 公孫サン【王+賛】が冀州を攻めるのをみて、袁紹は、逢紀の進言を容れ、韓馥から 冀州を強奪。 ↓ 韓馥、自殺。 その一方、曹操は、鮑信とともに自らの勢力を徐々に固めつつあります。
112:★ぐっこ 2004/03/12(金) 00:46 文春も読みこぼしたか…早く読まなきゃ…
113: 左平(仮名) 2004/04/10(土) 14:07 気がつくと、もう連載開始から三年。それで、今回のタイトルは『界橋』。皆さんなら、このタイトルでどのあたりの時期か見当がつくでしょう。先はまだまだ長い…。 遷都した長安において、董卓は思うがままに振る舞います。名将・皇甫嵩と和解(史書の記述を見る限りでは、不思議なほどこの経緯が穏やかなんですよね。皇甫嵩からすると、董卓は叔父の妻の仇のはずなんですけど…)した事と反董卓連合の分裂もあり、もはや恐れるものはなし。親族を次々と高位につけ、爵位を乱発し、自らを「尚父(太公望)」にしようと画策…。誰も止められないのか、と思いきや、蔡ヨウ【巛+邑】が懸命に諌言し、幾許かでもその暴走を留めております。彼の覚悟のほどについて言及したのって、宮城谷三国志が初めてでは? 正面から董卓を匡すことが出来るのは彼一人ですが、董卓を害せんとする毒は別に…。 一方、北に目を転じると、袁紹と公孫サン【王+贊】とが争っております(きっかけは、前回語られた、公孫越の戦死)。そんな折、異相の男が公孫サン【王+贊】のもとを訪れます。そう、劉備玄徳(←公孫サン【王+贊】のせりふの中で、一回こういう言い方をしてます)の登場です。黄巾との相次ぐ戦いに疲弊した感のある彼でしたが、ここで、名将の器との出会い、華々しい勝利があります。曹操と同様、着実に成長しつつあります。 タイトル通り、今回の山場は袁紹と公孫サン【王+贊】との大会戦です。公孫サン【王+贊】率いる白馬義従VS麹義率いる彊弩部隊との激突! ビジュアル的にも絵になる戦の結末は…!
114:★ぐっこ 2004/04/15(木) 00:23 見た( ゚Д゚)! 今回は、いよいよ本格的に三国志っ! サリゲに趙雲出てるのも いいですが、やはり公孫瓉の格好良さが!田楷の地味さが! 宮城谷袁紹は、どうにも救いようのない狭量・狷介な小人ですが、 それでも界橋では漢を見せてたなあ… 麹義と公孫瓉と鄒靖って、多少任官時期は外れますが、度遼将軍 の指揮下で対異民族の校尉をやってたんですねえ。界橋はいわば 僚将どうしの争いでもあったわけで。
115:左平(仮名) 2004/05/10(月) 23:53 今回のタイトルは「兗州」なのですが…実際には、孫氏を襲った悲劇と、その後の試練が主題といった感じです(勿論、兗州の 事もきちんと書かれてますよ)。 前回の最後に記されていた「思いがけない死」とは、孫堅自身のそれでした。袁術に愛想をつかしながらも、その指令をうけて 劉表と戦っている最中の出来事でした。(見方を変えれば)思いがけない殊勲を挙げた黄祖については、「劉表の軍事がまずく ないのは黄祖の武列による」という記述があり、ん?という感じ。 そう、何だかんだ言っても、彼が孫堅を倒したのは事実。そりゃ孫堅や孫策には将器の点では及ばないにしても、もう少し評価 されてもいい人物ではあるんですよね。卑劣な事をしたわけでもないし(陳舜臣氏の「諸葛孔明」での書かれ方に近いですね)。 父を喪った孫策は、しかし喪に服してばかりはいられません。当時は在野であった張紘に教えを乞い(ここで「墨衰絰【ぼく さいてつ:喪服・帯を黒く染めること。晋の襄公の故事から】」という言葉が出てきます。そう、当時の士人にとっては春秋 は必須の教養です)、呂範や兪河といった人物の支援を受けます。 一方、叔父の呉景は袁術の配下として前述の周ウと戦いますが、彼我の器量の違いは大きく、孫策は父の手勢の返還を願います。 …しかし、兵を借りるネタの玉璽はもう袁術に渡したのでは…? 孫策の行動を語る中で、陶謙や趙Gにも触れられています。 一方、タイトルの兗州についてはというと、黄巾の蜂起によって劉岱が戦死。その空白を埋める 存在として、曹操の名が浮上します。これを画策したのは、陳宮(能吏とされていますが、その 人物についてはまだはっきりとは描かれていません。こちらは次回待ちでしょうか)。また、この 頃には荀揩熨qの幕下に加わっています。程Gも、ぼちぼちでしょうか。 数十万にも達する敵の大軍に対し、曹操は数千を以って立ち向かいます。一体、どうやって戦うの でしょうか。
116:★ぐっこ 2004/05/13(木) 00:05 うーん、孫堅死す! 劉表の軍事的な成功の影には、常に勇将・黄祖の 武勇があったわけで。それでも黄祖では孫堅に太刀打ちできなかったあたり、 格の差がありましたやね。 今回はけっこうペース早し。それだけ多くのことが短期間に集中したのかな。 孫策の挙兵もはじまってるし… それにしても注目したいのは、周ウ。彼も生きてたら、結構面白いポジションに いただろうなー。曹操にとって、揚州における鮑信になれただろうに、残念。
117:左平(仮名) 2004/06/10(木) 21:52 おっとと…結構下がってますね。 前回が孫堅の死でしたから、今回は…?と思いましたら、タイトルは「鮑信」でした。 そう、兗州における曹操対黄巾の戦いが今回の主題です。 曹操の軍勢+鮑信の軍勢は約一万。これで百万と号する黄巾とどう戦うのか…と思いましたら、 なかなかどうして。見事なものでした。 少数ゆえの機動性を生かして奇襲をかけ、大量の捕虜を得た曹操は、彼等に対し熱弁を振るいます。 「民を虐げたくはなかろう」と(王朝が民を虐げると言って叛旗を翻しても、明確なビジョンのない 黄巾もまた、結局は民を虐げる存在でしかない。また、いくら「平等」と言ったところで、やはり 上下の別はある。ならば、自分のもとで正道に立ち返らないか、とまぁこんな感じ)。 これに感じ入った兵達が曹操に仕えていき、いわゆる「青州兵」に至っていきます。 はじめは別に動いていたものの、行き詰まりを感じて曹操のもとに参じた曹仁は、そんな曹操の姿に 感化され、悍馬から駿馬への変貌を遂げつつあります。また、程G・毛玠も曹操のもとに参じ、その 勢力は確実に充実しつつあります(名前だけですが、曹純・曹休・曹真も登場します。曹休、この頃の 登場となると、蒼天での姿はちょっと若すぎる気がしないでもありません。まぁ、蒼天での登場を四十 手前くらいにみれば何とか、というところでしょうか)。 しかし、多くのものを得た一方で、喪ったものもまた、大きいものがありました。そう、鮑信の死です。 その死に様自体ははっきりしません。なにしろ、その部隊は殆ど全滅に近かったのですから。 捕虜を釈放する際にその遺骸の捜索を依頼したという一事をみても、その衝撃の深さが伺えます。 「『湯王に伊尹あり、文王に太公望あり』という如くに『曹操に鮑信あり』と言われる日を夢見ていた」 「天はわたしに丕業をさせないのか」 「独りでゆけという事か…」 曹操にとっては、恐らく生涯でただ一人の、二度とは得難い真の『友』。その死は、残された者にこそ辛い ものとなりました。 …さて、何か忘れてはいませんか?そう、董卓はあれからどうなったのか? 彼が死んだ事は、ひとまず触れられました。しかし、その経緯は、次回以降に。 (王允に、既に呂布を味方にしている様な台詞が。一体、どうやって?)
118:左平(仮名) 2004/06/13(日) 00:59 ↑鮑信の死に対し曹操が衝撃を受けるくだり、何分立ち読みでしたので、再確認してみると表現は幾分 違ってる(例:文王→正しくは武王でした)のですが…まぁ、こういうニュアンスでした。 曹操もさる事ながら、史書の記述に基づく比較的淡々とした記述なのに、鮑信の清冽さが滲み出てくる 様です。
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