★『宮城谷三国志』総合スレッド★
179:左平(仮名)2006/08/25(金) 20:50 [sage]
5 : 左平(仮名) 投稿日:2006/08/12(土) 21:41
回のタイトルは「三顧」。前回のラストで近いうちに、という感はありましたが、さっそくきました。

ただ、最初に語られるのは、孔明と並び称された士元の方。名士(隠士と言ってもいいんですかね)の司馬
徽に認められたことで世に名が現れます。
司馬徽の姿勢がまた興味深いものがあります。褒める人はことごとく激賞するのです。大いに褒めて世に名
を現すことで、事を成す助けになればいい。褒めて育てるという教育方法の実践者、というところでしょう
かね。

叔父・諸葛玄と共に荊州に来た孔明は、ここで、孟建(公威)・石韜(広元)・崔州平、そして徐庶と知り
合います。
石韜曰く、「あいつ(孔明)は斉人だから」。石韜・徐庶は潁川の人。潁川は、というと、戦国時代の韓。
韓と斉とでは、法に対する考え方が真逆というほど異なる(韓で法というと韓非子が浮かびますが、ここで
念頭にあるのは術の人・申不害。つまり、君主の立場からみている)そうで、これもあってか、元侠客とも
いうべき側面のある徐庶はともかく、孟建・石韜とはやや距離があったようです。
そういえば、孔明が自らをなぞらえたのは管仲・楽毅ですが、二人とも斉と縁のある人ですね。

徐庶の紹介により劉備は孔明のもとを訪ねますが、当初、孔明は劉備に対し、不快感さえ持っていたとさえ
いいます(妻子にも配下にも酷薄・信義も何もない・結局のところ何も為していない…なるほど美質という
べきものがありません)。
しかし、門前払いしたにも関わらず、劉備はまたやって来ます。孔子が陽虎に仕官を求められた時のエピソ
ードにならった断りの文句を徐庶を通じて伝えてもなお、劉備は怒りの色もみせず、再度来るのです。
ここで、孔明は大いに悩みます。郷里の徐州を荒らした曹操にはつきたくない、孫権はどうも癖がある(既
に兄が仕官しているのでその後塵を拝することになるのも…)、そして、劉表は老い、曹操の勢力は急激に
拡大しており、もはやのんびりと世代交代を待っている暇はない…。
そして、ついに決断を下すときがきました。

二人の出会いは互いに感動をもたらすものとなりました。ここでの劉備は、演義における大徳の人でもなけ
れば、蒼天航路における侠気の人でもありません。何というか、仏教でいう「空」の人です。
その空の人に実を植え付けたのが孔明でした。

一方、曹操はというと、玄武池を作り水軍の訓練に入っていました。南方の制圧に取り掛かろうとしていた
のです。曹操vs孔明という図式ができつつあるようです。
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