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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
189:左平(仮名)2007/04/15(日) 22:52
(2007年03月分)
個人的な話をしますと、このほど、異動になりました。とはいっても、広島通勤が続くのですが。
今回のタイトルは「合肥」。もちろん、劉馥・劉靖父子のことも書かれてます。
まずは、前回からの続き。部下の危機をみた曹仁、何と!ただ一騎で出撃しようとします。陳矯の困惑、
いかばかりか。
何とか数騎をつけたとはいえ、敵勢と比べると余りに小数。しかも、ただの示威行為などではなく、本
気で戦うというのですから、無茶にもほどがあるというもの。
陳矯、あまりの衝撃に、聴覚が失われたかの如き状態に陥りますが…
しかし…突如沸き起こる歓声。続いて、意気揚々と帰還する曹仁達。曹仁は、見事、包囲された牛金達
の救出に成功したのでした。
いかに敵勢が怯んだとはいえ、あれだけの重厚な包囲を突き破るとは、大変なもの。(実は、今回の曹
仁については、ビジュアル的には蒼天バージョンで想像したのですが…)後年の合肥の張遼に優るとも
劣らぬこの場面が蒼天で描かれなかったのが惜しまれますね。
周瑜が江陵で曹仁と戦う中、孫権は合肥を、張昭は当塗を攻めます。しかし、合肥の守りは万端。劉馥
の遺産が実によく機能したのです。
類稀なる行政手腕を持ちつつも、己の徳量を過信せず、しかと合肥の基盤作りを成し遂げていた劉馥。
そして、その父の薫陶を受けていた劉靖(三国志の時代からは少し外れるからか、孫の劉熙までは言及
されてませんけど、三代にわたる活躍ですからね)。
結局、周瑜は江陵を落とすのに一年かかり、孫権・張昭は成果なし。赤壁での鮮やかな勝利があったと
はいえ、思うような結果は得られませんでした。
一方、劉備達も、地味に動き始めます。しっかりとした領土を確保しないことには、結局孫権あたりに
吸収されかねないですからね。
劉Nとともに曹操に降ったと思しき荊州南部の太守達を口説き落とす、ってな口実をつけて、周瑜から
離れることとします。
他の事に手が回らない周瑜、これを了承したのですが…孫呉にとっては、後々悩みの種になるんですよ
ね。孫権がもう少し攻めに長けていたら…というifもありなんでしょうか。
ラスト付近は、武陵の金旋攻めです。じっくりと内通を待ち、約一月の後、趙雲。糜芳という珍しい?
コンビで攻略に挑みます。
ただ兄に従ってきたというだけで、劉備も、関羽・張飛も、さらには諸葛亮をも嫌うという糜芳。そん
なに嫌ならついて来るなよと言わずにはいられない彼も、趙雲は真の将器と認めています。
さて、武陵攻め。いかなる描かれ方をするのか。
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