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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
259:左平(仮名) 2010/04/03(土) 11:16:10 ID:???0 [sage ] 続き。 陳羣は少なからぬ諫言を行いました。それはしばしば曹叡の心を打ち、受け入れられてきました。ただ、即位から数年が 経ち、その治世に自信がついてくると、ときに聞き入れられなかった事例も出てきます。 ここでは、二件(曹叡の愛娘の葬礼、宮殿造営)挙げられています。 宮殿造営については、秦の滅亡の一因とみる陳羣と国威発揚とみる曹叡との考え方のずれというものがあり、陳羣の真摯 な諫言に打たれ、規模縮小という折衷的な結論に至りました。一方、曹叡の愛娘の葬礼については、結局諫言を聞き入れ ませんでした。 続いて、もう一人、劉曄です。この人は、皇帝には有用でも国家にとってはどうか、と、一筋縄ではいかない人物として 描かれています。 状況によって正反対の意見を言う(例:群臣の前では蜀漢を討つべきではないと言い、曹叡の前では討つべきと言う)と なれば、確かにそのようにみえます。 彼はその故に、曹叡に翻弄され、ついには精神を病んで失意のうちに没するという哀しい最期を遂げるわけですが、では なぜ、時に正反対の意見を言ったのか、となると、そこには深謀遠慮がありました。 「事は密を以って成り語は泄を以って敗る」というわけです。帝王たる者が秘密を軽々しく外に漏らすべきではない、と。 分かる人には分かったのですが、どうも劉曄、社交的な人ではなかったようで、その真意が理解されなかったようです。 曹操の時代であれば、切れ者の軍師として働けたのでしょうが…。 このあたりに、曹叡という人物の思考のあり方がうかがえるようです。聡明な曹叡ではありますが、このような癖のある 人材を生かせなかったという点はややマイナスですね。 続きます。
260:左平(仮名) 2010/04/03(土) 11:16:55 ID:???0 [sage ] 続き。 とはいえ、曹叡は決して凡君・暗君の類ではありません。前述の、愛娘への過剰な哀惜も、国政の運営が大きな過失なく 行われているがゆえの余裕ともいえるわけです。 一方、魏人の目の届かない海上では…密かに、南に向かう船団の姿が。それは、呉に向かう、遼東の使節。彼らは、主・ 公孫淵が呉へ臣従する旨を伝えに来たのです。 これを聞いた孫権の喜びようは相当なもので、直ちに大規模な使節団の派遣を決めます(先の夷州・亶州探索の時と同様、 「兵一万」。しかも今回は閣僚級の執金吾まで付きます)。 しかし、群臣達は公孫淵の真意を疑い、こぞって諫言を呈します。公孫淵が信用に値するかも分からないのに…と思えば 当然のことでしょう。それに、先の探索には「人狩り」説もあるように、呉は人口不足気味。そんな中で貴重な兵を一万 も付けるのは…。 しかし、孫権はこれを強行します。何故か。それは、呉・蜀漢・遼東の三方から魏を攻め、疲弊を誘うくらいしか、近い うちに魏に勝つ方策がないではないか、という孫権独自の考えに基づくものでした。 十九歳で兄の跡を継いだ孫権も、既に五十を過ぎました。曹操・劉備はともに六十代で世を去ったことを思えば、残され た時間は少なく、しかも彼我の力の差は縮まるどころか開く一方。何か起死回生の一手がないか、と模索する中、突如と して訪れた好機、と捉えるのも無理からぬところでしょう。 しかし、「自分の発想は(周瑜・魯粛の如き)非凡な臣下にしか分からぬし、実行し得ない」と思っているのだとしたら、 それは奢り。非凡な臣下がいないと思うのであれば、そのままの形で(自分の発想を)実現させるのは不可能だという単 純な真理が見えていないのです。 続きます。
261:左平(仮名) 2010/04/03(土) 11:18:12 ID:???0 [sage ] 続き。 ともあれ、呉の使節団は出港しました。時は春。孫権は上機嫌で送り出しました。その末路がいかなるものになるかも 知らずに。 往路は、まずは無難に進み、無事、遼東に到着しました。しかし、どこか様子が変です。呉に臣従するという割には、 遼東側に謙譲の姿勢が見られないのです。 (呉に臣従する以上、呉の使者の下に立つべき、と言われた公孫淵が)「困ったな。われは人をみあげたことがない」。 と言うあたり、使者を派遣した意図が何なのかさえ分からなくなります。 これには、呉側も疑心を抱き、兵の数を恃んで…と思っていると…「これが、彼らのさいごの夜となった」のです。 …呉も、遼東も、互いに相手を利用することしか考えていなかったということでしょうか。 劉曄の最期のところで、「巧詐は拙誠に如かず」という言葉が出てきました。劉曄については、そう言うのはいささか 酷ではないか、と書かれていましたが、彼らはどうなのでしょうか。 以前の回で、孫権は、諸葛亮の誠実さを賞賛していますが、自身はそのようにはできません。難しいものです。
262:左平(仮名) 2010/04/25(日) 21:44:15 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年03月) 今回のタイトルは「張昭」。呉の重鎮・張昭の最後の見せ場(?)があります。 まずは、前回の続きから。正使・張弥の命をうけ、津に残る軍勢への連絡を託された健脚の二人。普通なら、何とか目的を 果たすところですが…ここでは、あっけなく討たれました。 張弥達が気付いた時には、時既に遅し。自らを縛って投降した一部の兵士を除き、ことごとく倒され、首をとられます。 …公孫淵は、はなから、呉に臣従する気はありませんでした。呉が送ってきた使節団と軍勢の人数の規模はいささか想定外 だったとはいえ、その殲滅計画には抜かりはありません。 津に残る軍勢も、警戒はしていましたが、馬の買い付けという役目もある以上、馬市が立つと無視することもできません。 同行してきた商人達を下ろすと…やはり、罠でした。 商人達も飛矢に倒され、将の賀達をはじめ、その殆どが戦死します。生き残れたのは、辛くも津を脱出できたごく一部の者 のみ。 孫権のもくろみは、完全に潰えたのです。先の探索でも、一万の兵の多くは病に倒れ亡くなったといいますから、短期間に 約二万もの兵を失ってしまったのです。 孫権の怒りは凄まじく、復讐戦を行うことは確実と思われました。季節は冬。群臣の気も沈みがちです。 ここで、諫言を呈する者が現れます。薛綜です。 続きます。
263:左平(仮名) 2010/04/25(日) 21:46:21 ID:???0 [sage ] おっと…今回は4月です。コピペの修正を忘れてました。 続き。 宮城谷作品のファンであれば、「薛」という字に覚えがあるはずです。そう、孟嘗君・田文の領地です。田文の死後、後継者 争いがあり国は滅ぼされましたが、その一族まで消滅したわけではありません。 時が下り、高祖・劉邦が天下を取ったとき、その子孫という兄弟に領地を授けるということになったのですが、二人は互いに 譲り合い、やがて逃げ落ちます。二人は、劉邦への批判者となり、田氏あらため薛氏を名乗るようになります。 薛綜はその子孫の一人です。 「草原の風」では、陰麗華が管仲の子孫と描かれていましたが、こうしてみると、「○○の末裔」というのは、辿ればある ものです。 さて、この薛綜、実はこの少し前まで、孫権の二男・孫慮に付けらていました。若年ながらできのよい孫慮は、幕府を開き、 ある程度の独立した権限を与えられるほどになっていましたが、若くして亡くなったため、中央に戻されていたのです。 即位後の孫権、どうも運に見放されていますね。夷州・亶州の探索、遼東への使節団は自らの失策ですが、できのよい息子 に先立たれるというのは、掛け値なしに悲運です。 孫氏一族のうち、ただ彼のみが長寿に恵まれたのは、果たして幸せなのかどうか。 ともあれ、薛綜の理路整然とした諫言を受け、孫権は、無謀な復讐戦を思いとどまります。 続きます。
264:左平(仮名) 2010/04/25(日) 21:47:14 ID:???0 [sage ] 続き。 諫言自体は、薛綜以外にも、陸遜等、数え切れないほど為されましたが、ひとり、肝心な人物の名がありません、張昭です。 自己嫌悪に陥っている孫権、これにかっときたのか、張昭の屋敷の門外に土を盛ります。「出てくるな」というわけです。 これをみた張昭も負けてはいません。「あの愚かな天子は、このように正言を吐く臣下の口を閉じさせたのだ」と、こちら は門内に土を盛ります。絶対に自らは出ないという意思表示です。 孫権の方が謝り、土を除けますが、内側からの土に阻まれます。意地の張り合いは張昭の方に軍配が上がりました。という か、ここにきて、孫権は、張昭の存在の大きさを思い知らされたのです。 既に、呉という国の基礎は固まっています。以前であれば常識を超えた臣下が必要でしたが、今や、常識を踏み外さない臣 下こそが必要なのです。張昭は、そのために欠かせない人物でした。 ここは、後難を恐れた息子達が張昭を連れ出したことで和解が成立。内心はともあれ、二人の関係は修復されました。 それを示すのは、彼への諡。「文」という、最高の諡号が授けられたのです。 続きます。
265:左平(仮名) 2010/04/25(日) 21:47:45 ID:???0 [sage ] 続き。 ここで、曹丕の名が。父・曹操に「武」という諡号を付けたわけですが、事績を、そして、生前の曹操の言動を鑑みれば、 「文」と付けるべきではなかったか。この点からも、徳が薄いと言われています。 さて、呉の使節団を殲滅し、正使・副使らの首を魏に差し出した公孫淵ですが、使者の復命に疑心暗鬼を生じ、魏の使者に 対し、過剰な警戒を示しました。 このことが、魏への心証を大いに悪くしたわけですが…さて、どうなることやら。
266:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:52:17 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年05月) 今回のタイトルは「流馬」。いよいよ西暦234年。魏と蜀漢との一大決戦の時が近づきつつあります。 …とその前に。この年、山陽公、すなわち後漢最後の皇帝であった献帝・劉協が逝去しました。既に、曹丕の時に、どの ような礼をもってするか決められていたようで、粛々と葬礼が執り行われました。後嗣は嫡孫。劉協の享年が五十四です から、成人していたかどうかは分かりませんが…ともあれ、山陽公の家は、この後も続きます。 この何回かは、主に遼東情勢が書かれていましたが、この間、蜀漢はどうしていたかというと…ひたすら力を蓄えること に専念していたようです。過去の出師は、その多くが兵糧不足のために撤退に追い込まれたことから、三年がかりで充分 な備蓄が為されました。 その一方で、諸葛亮自ら兵の訓練に当たります。第一回の出師の時からすると、将兵とも、見違えるほどの成長を遂げた のです。 第一回の出師の時点では凡将だった諸葛亮が、今回は、将兵を手足の如く動かせる名将と呼ばれるほどになっています。 そして、その成長は、単に自身の能力だけではありません。人材を使うことにも目が向くようになっているのです。 この頃、劉冑なる人物が叛乱を起こします。これまでなら諸葛亮自ら赴くことも考えられたところですが、このことを 知った諸葛亮は、馬忠を遣わすこととしました。 馬忠、字は徳信。もとの姓名は狐篤(狐は母方の姓)。姓名とも変わったという珍しい経歴を持つ人物です。
267:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:53:32 ID:???0 [sage ] 続き。 馬忠が中央に知られたのは、上司の閻芝の命を受け、兵五千を率いて劉備の救援に赴いた時のこと。この時劉備は、黄 権を失ってしまったが狐篤を得たと喜んだといいます(ところで、閻芝はどうだったんでしょう)。 行政官としては叛乱が鎮定されてほどない郡をみごとに治め、将としてもそつのない馬忠は、まさに文武兼備。諸葛亮 にも気に入られ、文武の職を歴任します。 人材の重要性を感じる諸葛亮。それは、馬忠にも当てはまります。この時、馬忠の配下にいたのが、張嶷。若かりし時 の話から、胆力があり武勇に秀でたことがうかがえますが、その軍事的才能には目を見張るものがあります。 別の叛乱の際には、馬忠をして「われがゆくまでもない」と丸投げされてみごと鎮定に成功します。 こうしてみると、蜀漢にも、それなりに人材が出てきていることがうかがえます。戦う体制が整い、魏に勝てるという 確信がある。物語的には、盛り上がる展開です。 いわば満を持した状態で蜀漢が動き始めたことを知った曹叡は、珍しく不安を覚えます。明らかに、これまでと異なる 動きを見せている蜀漢。こたびの戦いの重要性は、双方とも理解しています。 曹叡は、司馬懿に迎撃を命じますが、「急がずともよい」と付け加えます。
268:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:54:26 ID:???0 [sage ] 続き。 当然、司馬懿もそのあたりのことは承知しています。次は充分な兵糧を準備してから動くだろうから…三年ほど後だな、 という見立てはおおむね的中しました。ただ、この間に魏がしたことは、迎撃体制の構築でした。 蜀漢が動くのに応じて…ですから、どうしても受身の形になります。 戦いに赴く司馬懿の目に、鳥の群れが映ります。「往時、鳥は天帝の使いであったな」。この鳥達は何を意味している のでしょうか。それは、まだ分かりません。 互いに経験を積んできた諸葛亮と司馬懿は、戦い方もものの考え方もよく似ていますが、一つ異なる点があります。 「同じ将のもとで兵が成長するか」ということです。 諸葛亮の率いる兵は、街停の頃が幼児なら今は成人というほどに成長しています(例として挙げられているのが呉起や 白起。史上有数の名将の名がここで挙げられています)。一方、司馬懿にはそのような意識はありません。 ただ、そのような例があることは理解しています。 呉の兵は、周瑜が生きていた頃より弱い(策に頼りすぎているため策を破られると弱い)のではないか。蜀漢の兵は、 そのようなことはあるまい。司馬懿にとっても、こたびの戦いの持つ意味は重いのです。
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