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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
271:左平(仮名) 2010/07/03(土) 02:35:33 ID:???0 [sage ] 続き。 情けない。そう思う孫権ですが、問題はそれだけではありません。どうしても合肥を落とす策が見当たらないのです。 満寵がいまだに南に睨みをきかせている以上、彼に勝たねばならないわけですが、その満寵、いまだ衰えをみせません。 満寵さえいなければ…。孫権以外にもそう思う者はおり、一度は都に召還されます。佳酒を振る舞われますが、大量に 飲んでもその挙止に乱れはなく、衰え無しと判断され、引き続き任にあたることになります(疲れを覚えた満寵が何度 も転任願を出しても、余人をもって代え難しということで、皇帝直々に慰留されます)。 そのため孫権は、十万と号する大軍をもって、かつ、三方から魏領内に侵攻するという、大がかりな作戦を決行します (孫権自身が合肥を攻める軍勢を率います)。 この軍の運用自体はなかなかのものでしたが、何せ相手は百戦錬磨の満寵です。読まれている…どころか、これを逆手 にとって孫権を殺せないか、と奇策(兵力の少ない合肥新城をあえて放棄してさらに侵攻させ挟撃する)を考える余裕 さえあります。 さすがにこれは危険すぎるとして却下されましたが、単に孫権を撃退するだけならそんな策を使うまでもない、という わけですから、戦う前から、呉は劣勢におかれていると言えます。 この時、少なからぬ魏の将兵が休暇中だったので、兵力的な差はかなりのものがあったのですが…。 続きます。
272:左平(仮名) 2010/07/03(土) 02:36:48 ID:???0 [sage ] 続き。 合肥新城、と書きましたが、この城は、満寵自身の献策によって移転したもの。当然、容易には落とせません(だから こそ、あえてそれを放棄するという奇策に対して、曹叡は危険すぎるという判断をしたわけです)。 それゆえ、孫権は大型の攻城兵器を用意させますが、完成までには時間がかかります。そこを、満寵に付け込まれます。 われは張遼将軍には及ばぬが…などと謙遜しつつも、少数の手勢を用いての夜襲はみごと成功。攻城兵器は焼け落ち、 さらに孫権の甥・孫泰をも倒します。 …正直、皇帝の甥がこんな形で戦死というのは、予想外でした。 孫権の怒りは凄まじく、苛烈な攻撃が続きますが、満寵、そして合肥新城の守将・張頴は冷静にこれに対処。そうこう しているうちに曹叡自らが親征を行うとの知らせが入り、さらにそれを裏付ける魏兵(実は先遣隊)の登場に、孫権の 戦意はすっかり喪失。結局、戦果を挙げることなく軍を退くこととなりました。 仏教の庇護者でもある孫権には、独特の諦観とでもいうべきものがあるようです。 西部戦線は司馬懿に任せておけば問題ない。孫権の遠征も、曹叡にしばしの休息を与えただけに終わったと言えるよう です。孫権の軍事的センスのなさも、ここまで来ると相当なもの。満寵は、孫権を殺す機会を失ったのではないか、と 残念がっていますが、案外、これで良かったのかも(ここで孫権が亡くなった場合、孫登がすみやかに帝位を継承した はずですから、後のごたごたもなかったのかも)知れません。 ただ、陸遜・諸葛瑾の軍は、この時点では孫権の撤退を知りません。さて、どうなる…?
273:左平(仮名) 2010/08/02(月) 00:45:51 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年07月) 今回のタイトルは「秋風」。ついに、その時が来ました。 まずは、孫権による合肥攻略が失敗したところの続きから。中軍を率いる孫権がさっさと撤退してしまったため、東軍・ 西軍もまた、撤退を余儀なくされます(最も大きい中軍が真っ先に撤退してしまっては戦略も何もありません)。 東軍を率いる孫韶は、齢十七でおじの後を継ぎ、長年にわたって国境地帯を守り抜いてきた名将。彼我の力を正しく把握 し、そつのない戦いのできる人物ですが、ここでは特に見せ場はありません。 一方、西軍は、当代屈指の名将・陸遜が率いているだけあって敵中深く侵入することに成功していましたが、これがあだ となり、孤立状態に陥ります。 とはいえ、主将の陸遜も、副将の諸葛瑾も、取り乱すことはありません。おのが知略への自信と、学問によって培われた 胆力が、冷静な判断力を保たせているのです。ここで慌てて撤退すれば、それこそ敵の思うつぼになるということは承知 しています。ここは、策をもって粛々と撤退すべし。 陸遜が攻めかかるとみせて魏軍に迎撃態勢をとらせると、諸葛瑾が動かしていた軍船に素早く上船。攻撃がなかったこと にほっとした魏軍は追撃態勢に入るのが遅れたため、難なく撤退に成功します。 見せ場はなかったとはいえ、大きな損害もなく撤退に成功したわけですが、陸遜には満たされないものが残ります。軍功 が挙げられなかったことに物足りなさを感じること自体は分かるのですが…。 続きます。
274:左平(仮名) 2010/08/02(月) 00:46:52 ID:???0 [sage ] 続き。 長江を下る陸遜は、突如、狩りをしようと言いだします。しかし、まだ呉領内には入っていません。何を狩るというの でしょうか。 …狩りというのは、魏領である江夏の諸県を襲撃することでした。特に石陽のそれは、城外に市が立って賑わっていた ため、多くの庶民を巻き込む惨いものとなりました。 結果、少なからぬ数の捕虜を得ましたし、襲撃後の慰撫もあって投降する者も出たことから、一定の戦果を挙げたとは いえるのですが…後世の史家たる裴松之は、これを悪行であると批判します。 個人的には、裴松之の批判に同意。天下統一を掲げる勢力が同じ天下に属する非戦闘員を虐殺するのは、非道の行い としか言いようがありません。戦略的にもこれといった意義がないだけに、擁護の余地もありません。 とはいえ、このことと後の悲劇との関連性は、いわゆる春秋の筆法以上のものではないでしょうね。孫権自身、こう いう行いに倫理的嫌悪感を覚えるということもなさそうですし。 一方、諸葛亮は、そのようなことはしなかったようです。将帥としての力量は陸遜に劣りますが、為政者としての格は 明らかに諸葛亮が勝ります。 続きます。
275:左平(仮名) 2010/08/02(月) 00:48:02 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛亮と司馬懿の決戦は、完全に膠着状態。互いに負けない自信はありますが、うかつには動けません。蜀漢の全権を 握る諸葛亮はいくらでも待てますが、司馬懿はどうなのでしょうか。 …こちらも、いくらでも待てる状態でした。皇帝・曹叡自身が、決戦を急ぐ必要はないと判断していたからです。また、 使者として派遣された辛毗も、的確な戦略眼を持った人物ですから、ここは動くべきではない、ということを認識して います。 諸葛亮が司馬懿に巾幗を贈り、司馬懿がこれに激昂したというのも、将兵の士気を保つため以上のものではありません。 そんなこんなで数ヶ月が経過したのですが、秋、八月。諸葛亮が体調を崩します。 食欲不振から始まって粥くらいしか食べられなくなり、やがて病臥。余りにも早い症状の悪化は、スキルス胃癌あたり を思わせますが、詳細は分かりません。 丞相病む。この急報が成都にもたらされると、宮中は震撼します。特に皇帝・劉禅の取り乱しようは相当なものがあり、 直ちに李福が見舞の使者として遣わされます。 全権を握る丞相・諸葛亮を失ったら、蜀漢はどうなるのか。即位以来、ずっと政務を任せきりにしていた劉禅には為す すべがありません。曹叡と劉禅。年齢的には近い二人ですが、その力量は天地ほども異なります。 続きます。
276:左平(仮名) 2010/08/02(月) 00:49:11 ID:???0 [sage ] 続き。 丞相が重体に陥るまで、側近どもは何をしていたのか。丞相はまだ五十四歳。まだ二十年は働いていただかねばならぬ というに…。軽い不快の念を抱く李福と面会した諸葛亮は、つとめて気丈に振る舞います。 体調は悪そうだが…と思いつついったん帰路についた李福ですが、側近たちの暗い表情を思いだし、直ちに取って返し ました。丞相が再起できない、となると… 「どなたに後を継がせますか」 眼前にいる諸葛亮の死後のことを問わねばなりません。さまざまな職務をそつなくこなしてきた李福ですが、この勤め は、その生涯で最も重要で、かつ辛いものとなったでしょう。 「公琰(蒋琬)がよい」 「その後は…」 「文偉(費禕)」 後事を託せる偉材が二人もいると喜ぶべきか、二人しかいないと悲しむべきか。ともあれ、諸葛亮に勝る者はいないの です。 そして…
277:左平(仮名) 2010/08/29(日) 22:44:51 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年08月) 今回のタイトルは「孔明」。そのものずばり、の回です。 蜀漢の建興十二(西暦234)年八月。陣中に星が落ち…諸葛亮が薨じました。享年五十四。前回、体調を崩したのが 八月とありましたから、諸葛亮を襲った病魔は、顕在化してから一月足らずで彼を死に至らしめたことになります。 ただ、諸葛亮が何日に亡くなったかは、分からないようです。記録が不十分なこともありますし、全権を掌握する丞相 の死は蜀漢の最高機密でもありますので、それを知る者は、この時蜀漢の陣中にあった数名のみ。 その一人・費禕は、あらためて丞相・諸葛亮の仕事ぶりを振り返ります。常に細やかな目配りを怠らなかったその姿は、 まさに為政者の見本と言うべきもの(ただし、必然的に命を削るような激務が伴います)。 軍事においてもそれは当てはまり、蜀漢の軍紀は厳格そのもの。敵地の住民とも信頼関係を築くなど、王者の軍と言う べきものにまで鍛え上げました。 ただ、それゆえ、奇策はなく、決定的な勝利も得られなかったというジレンマが。緒戦での失敗がここまで響いたこと は否めません。 「細やかな〜」とくると、蒼天での劉馥が想い起こされます。諸葛亮は、どこで、このような政治姿勢を培ったので しょうか。何かで「最も成功した法家」と言われていましたが…。 続きます。
278:左平(仮名) 2010/08/29(日) 22:45:51 ID:???0 [sage ] 続き。 遺命により、撤退することは決定しています。楊儀が指揮を執り、費禕・姜維が補佐します。後拒は魏延。能力的には 何の問題もない面々ですが、それ以外のことで問題があります。 「楊儀と仲の悪く、かつ、戦意旺盛な魏延が、楊儀の指揮下で撤退することに同意するか」ということです。 ここは、楊儀・魏延の両者とまずまずの関係を築いている費禕が、魏延に、諸葛亮の遺命を説明することになります。 費禕はかなり有能な人物ですが、寛容な(脇が甘いとも言える)ところがあるため、魏延に対しても、悪感情は持って いません(緒戦が〜と言っていることから、魏延の策に理があったことを認めていることが伺えます)。 ですが、この使命は、色々な意味で気の重いものとなりました。 丞相・諸葛亮を喪ったとはいえ、ここまでの戦況は、決して悪いものではありません。このような状況下では、楊儀と の仲が〜という以前に、一戦を望む魏延を説得することは、かなり難しいのです。 実際、純軍事的な視点からみると、ここで慌てて撤退すると壊滅的な被害を受ける恐れもあります。むしろ、異変を 悟られないうちに一撃くれてやった方が効果があったかも知れません。 魏延は歴戦の武人。緒戦において長安急襲を提案したように戦術的・戦略的視野もそれなりに持っています。一戦する ことの意義を説かれると、その威厳とあいまって、説き伏せられる恐れがあるのです。 続きます。
279:左平(仮名) 2010/08/29(日) 22:46:47 ID:???0 [sage ] 続き。 はたして、恐れていた通りの展開に。たとえ魏延の威厳に気圧されたためとはいえ、費禕は、魏延が魏軍と一戦する ことに同意してしまったのです。 直ちに本陣に戻り、証拠となる文書は破棄したものの、署名したという事実は厳然としてあります。 こうなると、事は急を要します。本来であれば、異変を悟られないよう、粛々と撤退を開始するところですが、諸葛 亮の死を伏せたまま、直ちに撤退を開始せねばならないのです。 本陣の異変に魏延も気付き、楊儀の退路を塞ごうとします。楊儀が指揮する本隊は、前後に敵がいる形になりました。 一方、蜀漢の軍勢が撤退したことに気付いた魏軍は、その本陣跡を検分し、(楊儀が慌てて撤退したために処分でき なかった)兵糧や文書を発見します。 司馬懿は、それらの文書から垣間見える諸葛亮の行政能力をみて、「天下の奇才」と感嘆するとともに、その死を確 信します。 今、追撃すれば勝てる。司馬懿ならずとも、そう判断することでしょう。 続きます。
280:左平(仮名) 2010/08/29(日) 22:48:00 ID:???0 [sage ] 続き。 魏軍は追撃を開始します(ただし、辛毗は、まだ諸葛亮の死に半信半疑ということもあってか追撃には慎重)。途中、 はまびしを踏んだ将兵が痛がるので簡易な下駄を履いた兵を先頭に立てるという奇観もありますが、このまま蜀の地に 入りそうな勢いを示します。 魏延と魏軍に挟まれた格好になる楊儀は半狂乱。しかし、まずは丞相の棺を守らねばなりません。姜維に叱咤されて我 にかえった楊儀は、魏軍を迎撃。みごと撃退します。 もっとも、狭隘な場所での衝突でしたから、魏軍の損害自体は大したことはありません。最終的に魏軍が撤退したのは、 辛毗の指摘によるものでした。 陛下が長安まで来ておられるのであれば蜀の地に踏み入ってもよかろうが、いま陛下は南方におられる。陛下に良い ことも悪いことも言上できる者は、ここから遠くにいるということよ。 曹叡自身は優秀な部類の帝王ですが、無謬の存在ではあり得ません。その近くに、司馬懿に悪意を持つ者がいれば…。 こういうことも考えながら身を処する必要がある、ということです。 このような指摘をしてみせるあたり、辛毗は、司馬懿に悪意は持っていないようです。 これで、後ろの敵は心配しなくてもよくなりました。後は、魏延をどうするか、です。 続きます。
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