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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
298:左平(仮名) 2011/01/29(土) 09:55:28 ID:???0 [sage ] 続き。 そう思った丁謐は、曹爽に、その意見を開陳します。彼は、かつての曹操の幸臣・丁斐の子。物怖じしない態度と 読書で培った知識の故、沈毅とみられていた彼の意見には、なるほど一理あります。責任の所在が曖昧なままだと、 大事の際に、迅速な対応ができないということはあります。 もちろん、単に道理だけでなく、帝室たる曹氏一門の利害ということも考慮されています。いずれ、権力は一元化 されるでしょうが、それが司馬懿であったとしたら、彼は曹氏一門をどう扱うか。それに、群臣からの信望のある 司馬懿に大志があれば…。 その意見を容れた曹爽は、司馬懿を実験から遠ざけるよう、手を打ちます。もちろん、何の落ち度もない司馬懿を 降格させることはできませんから、実権のない名誉職に祭り上げるのです。これは、うまくいきました。 司馬懿も、これには何か含むところがあるということは察知しています。しかし、ここでは、特に何もしません。 曹爽とその周りに群がってきた者達を虫に例える嫡子・司馬師に、「なるほど…害虫だな」と言うところをみると、 不快感は持っているわけですが…。 既に齢六十を過ぎた司馬懿。歴史を巨視的にみると、正しい者が最後には勝利するとしても、それは決して容易な ことではない。そういう、ある種の諦念がみられます。害虫の駆除は、若い司馬師がすべきことである、と。 続きます。
299:左平(仮名) 2011/01/29(土) 09:56:28 ID:???0 [sage ] 続き。 一方、実権を握った曹爽は、自らの体制作りに取りかかります。弟達を諸候にし、発言力を強化するとともに、賢 人と見込んだ者達を集めたのです。 彼らは、なるほど、なかなかの才覚の持ち主です。しかし、文帝・明帝からは「浮華」であるとして遠ざけられて いたということを、曹爽は、どう思ったのでしょうか。 当初は独断を避けていたのが小心の故であったのなら、明帝の人材任用を見習えば良かったと思うのですが…。 一方、呉の方は、といいますと…。 位にあることが長くなると、緩みが生じる。学問を好んだ孫権は、そのことを知っています。それ故、厳しい政治 をしようと思うのですが、重臣の張昭・顧雍のどちらも、刑罰を緩めるよう説きます。 重臣達の意見を無下に拒むこともできないので、緩めはしたのですが、孫権には、物足りなさがありました。 そんな孫権の目にとまったのが、呂壱でした。相手の地位に関わらずびしびしと取り締まる彼のやり方を、孫権は 気に入り、側近として重用するようになります。 しかし、呂壱は、人には厳しくても己には甘い人間でした。皇帝の寵臣となったのを良いことに、恣意的な処罰を するようになっていったのです。 続きます。
300:左平(仮名) 2011/01/29(土) 09:57:28 ID:???0 [sage ] 続き。 膂力に富み、謙虚な人となりを評価されて貴臣となった朱拠にもその毒牙は及びました。無実の罪で、彼の部下を 獄死させたのみならず、その部下を憐れんで手厚く葬ったことを、悪意を持って讒言したのです。 このままではいけない。都を離れ、任地にあって軍を統率する陸遜・潘濬は、強い危機感を抱きます。特に潘濬の 憤りには凄まじいものがあり、刺し違える覚悟を持って、都に赴きます。 潘濬は、もとは劉備配下。荊州が孫権の手に落ちた後、劉備への恩義から隠遁していたのを、孫権が礼節を以て迎 えたといういきさつがあり、人一倍、不正を憎む激しさを持った人物です。 心中、やましいものがある呂壱は、潘濬を恐れ、接触を避けました。実際、二人が対面することがあれば、潘濬は 呂壱を斬ろうとしたことでしょう。しかし、これが呂壱の命取りとなりました。 呂壱は、所詮は虎の威を借る狐に過ぎません。彼が皇帝の側にいないとなれば、これまで罪に落される恐怖から口 をつぐんでいた者も、その口を開きます。 そうして、孫権は、初めて己の誤りに気付かされました。これでは、秦の二世皇帝(胡亥)と同じではないか、と。 ほどなく、呂壱は処刑されました。 追記: 今回のタイトルの「浮華」について。作中でこの言葉が使われているのは、曹爽一派に対してなのですが、何と 言うか…それだけでもないように思えます。 呂壱の栄華と破滅。この原因は、明らかに孫権にあります。「(政に)緩みが生じる」というのは、何も刑罰に 限ったことではありません。事の正否を見分け、適切な賞罰が行われることが肝心なわけです。 孫権は、呂壱の、見た目の厳しさにすっかり騙されていたわけですから、正否をみる眼に曇りがあったことは否 めないでしょう。華やか…かどうかはともかく、孫権もまた、浮ついていたのではないでしょうか。 しかし、どちらも、この後のことを想うと…。
301:左平(仮名) 2011/02/27(日) 01:30:30 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年02月) 今回のタイトルは「赤烏」。今回は殆どが呉の話ですが、何かもどかしいというか、すっきりしないものがあります。 呂壱の跋扈と失脚。これは、単に呂壱一人の問題なのでしょうか。呉の人々は、そうは思いませんでした。彼が台頭 し得たのは、不完全とはいえ、皇帝・孫権の本音を代弁していたからです。人々は、そこに、孫権の本性を垣間見て、 そして、失望しました。 そんな中、失望することなく己が職務を果たしていた人物として、歩騭の名が挙げられています。ゲーム等では文官 扱いされている彼ですが、その経歴は、なかなかに武張ったものがあります。 戦乱を避けて江南に渡った彼は、常に冷静沈着。生活苦から逃れるため、豪族の食客になろうとした際、いかに粗略 に扱われても立腹することはありませんでした。 やがて呉に仕官した彼に与えられた任務は、蒼梧太守・呉巨の説得。しかし、呉巨に帰順の意思なしとみるや、隙を ついて斬るという大胆さも持ち合わせています。これを聞いた交州の士燮が帰順し、呉の勢力圏は一気に拡大します。 その後、呉が劉備と戦うことになった際には、荊州南部の鎮定に奔走します。 辺境での務めが長く、中央で腕を振るう機会は余りありませんでしたが、これらの務めを黙々とこなしてきたことが 評価されてか、やがて、軍事面では陸遜に次ぐ地位にまで登ります。 続きます。
302:左平(仮名) 2011/02/27(日) 01:31:51 ID:???0 [sage ] 続き。 このような履歴を持つ彼のことですから、当然、呂壱の重用について、しばしば諫言を行いました。呂壱を信任して いた孫権は、当初、「あの歩騭まで讒をなすか…」と思うのですが、徐々に、呂壱への過度の信任に疑問を抱くよう になります(決め手となったのは、前回書かれたとおり潘濬の諫言ですが、歩騭の諫言もなかなかに堪えたと思われ ます)。 さて、呂壱の件について、孫権には、思うところがありました。呂壱のような悪人を重用したのは、なるほど、己の 落ち度である。しかし、それを諌める者が少なかったのではないか、と。 そこで、重臣達に、国政の諸事について聞いてみたのですが…その返答は、少々期待外れのものとなりました。とは いえ、それは、重臣達が保身に走ったとかそういう次元の問題ではありません。彼らは、僭越ということを何よりも 恐れていたのです。それは儒教思想の故、とされていますが、政治においては、まっとうな考え方です。 儒教思想の信奉者ではない孫権は、なおも意見を求めるのですが、臣下からすると、我らの意見を聞かなかった陛下 があったではありませんか、と言いたかったでしょう。 ともあれ、兄の後を継いでから約四十年。今や皇帝となった孫権と臣下の間には、徐々にズレが生じています。 そんな様子を知ってか知らずか、太子の孫登は、自分が太子であるが故、狭い世界しか見えなくなりがちであること に危惧を抱き、歩騭に教えを請うなど、謙虚な姿勢を保ちます。彼が健在である限り、呉の未来は安泰である。呉の 人々はそう思ったことでしょう。 続きます。
303:左平(仮名) 2011/02/27(日) 01:33:17 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、そんな中、麒麟が見つかったという知らせがもたらされました。先に、「嘉禾」の発見をもって「嘉禾」と改 元したわけですが、今回は「麒麟」とはせず、自らも目撃した「赤烏」を元号としました。 麒麟が出るような太平の世でもないのに…ということのようですが、臣下の言葉に不信感を持っているような…。 さらに年月は経ち、ついに孫権は六十歳となりました。六十歳を「耳順」ともいいますが、ここでの孫権は、人の、 ではなく、己の心の声に耳を傾けました。「魏に勝ちたい」と。 この頃、魏は幼弱の皇帝(曹芳)と経験の浅い補佐(曹爽)が国の中心となっています。つまり、曹叡の頃に比べ、 隙が生じているわけです。 殷礼という者が、今こそ決戦の時、とばかりに奏上してきたのをみて、孫権は、魏への攻撃を決意します。 しかし、連年の出兵で国力は疲弊していますし、何より、孫権自身が、自ら兵を率いることに疲れています。その ため、やや中途半端な出兵という感が否めません。 呉軍は、二方面から北上。一方は、皇帝の姻戚でもある全j。もう一方は、学友でもあり信任厚い朱然が率います。 この、朱然の北上が、当時、政治的には逼塞状態にあった司馬懿を救うことになるというのですが、はて…。
304:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:21:21 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年03月) 今回のタイトルは「蔣琬」。蜀漢の話が出てくるのは、久しぶりですね。 タイトルは「蔣琬」ですが、まずは、前回の続きから。朱然を迎え撃つは、胡質と、蒲忠という将。まず、蒲忠が 突出したことから、戦況が動きます。 良将・胡質に比べ、将器に劣る(胡質との連携ができていない)蒲忠ですが、まず、要地をおさえるという基本は できています。で、その先鋒が、何と、朱然の本隊と接触。 両軍とも「まさか、敵がここまで…」という場面でしたが、ここは、朱然の判断が勝りました。 退けば、やられる。覚悟を決めた朱然率いる呉軍の猛攻に、蒲忠の軍勢はガタガタに崩され、潰走。さすがの胡質 も、これでは打つ手がなく、撤退。呉軍は、樊城にまで迫ります。 この知らせを聞いた司馬懿は、直ちに出師を請います。その軍勢を率いるは、もちろん、司馬懿自身です。曹爽は これを冷ややかにみましたが、彼ほど軽忽ではない弟の曹羲は、このことを、より深刻に捉えました(といっても、 魏の危機、としてではなく、自分たちの危機、としてですが)。 この当時にあって、魏第一の名将・司馬懿が出師を請う以上、勝利は確実。となれば、その名声はますます高まる こともまた確実。それが、何を意味するか。曹羲には、それが分かるのです。 曹羲は、たとえ兄が魏の実権を掌握しているとはいえ、自分達が司馬懿に勝っているとは思っていません。何しろ、 (主に軍事的な)実績が違います。しかも、それだけではないのです。 続きます。
305:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:22:42 ID:???0 [sage ] 続き。 「あれは、しくじった」 それは、明帝が崩じてから間もなくのこと。遺詔により、宮殿の造営は「休止」されましたが…一応は再開の可能 性がある以上、動員された人夫は帰るに帰れない状態に陥っていました。これを、明確に取り止めさせたのは、何 を隠そう、司馬懿なのです。 明帝は名君でしたが、宮殿造営に熱狂したのは明らかな失策。それが分かっていた司馬懿は、人夫達を帰郷させて 農事に従事させるべきと説き、それが容れられたのです。魏の人々がこれを喜んだのは言うまでもないでしょう。 曹爽は、なるほど実権を握りはしましたが、人心を得る絶好の機会を逸したのです。 このことを悔やんでいた曹羲は、今回の危機を挽回の好機と見ました。それゆえ、兄が出師すべきと説いたのです が…曹爽は、これには乗りませんでした。ここで都を離れれば、司馬懿に実権を奪回される、と恐れたからです。 結局、廟議で結論を出そう、ということになりました。 廟議において、司馬懿は、現在の危機について熱弁を振るいます。かつて樊城は、魏最強の将であった曹忠候(曹 仁)が関羽と激戦を繰り広げた地であることからも分かるように、荊州の要衝です。ここを突破されるようなこと があれば、都・洛陽にまで影響が及ぶ恐れがあるのです。 最初は、何も大傅(司馬懿)おん自らが出られなくても…という雰囲気でしたが、当時の状況を知る者の言葉には 説得力があります。結局、司馬懿自らが出師することに決しました。 続きます。
306:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:24:31 ID:???0 [sage ] 続き。 司馬懿が出てきた。このことは、当然、樊城を攻める朱然にも伝わりました。こうなると、朱然としては、両方に 備えなければならない分、心理的重圧がかかるようになります。呉軍の動きから、速さが消えました。 一方、司馬懿率いる魏軍は悠然としています。こう書くと長期戦(突出している朱然をゆるゆると困窮させる)か と思われるでしょうが、実は、短期決戦。 というのは、朱然の後方には堅実な諸葛瑾がおり補給には不足しない(ゆえに、長期戦にしても困窮しない)ため。 ここで、司馬懿は、「声で呉軍を退かせてみようか」と言います。一体、どうやって。 「声」。それは、司馬懿の(蜀漢の総力を以て攻めてきた諸葛亮と渡り合い、公孫淵を屠った不敗の将という)名声 …だけではありません。 実は、両軍とも間諜が入っているため、将帥の命令は、ある程度敵軍に伝わっています。司馬懿は、これを利用した のです。 ただでさえ、魏第一の名将が精鋭を率いてきているのに、さらに決死の士を募って奇襲をかけてくるかも知れない。 しかも、包囲しているとはいえ、樊城にもほぼ無傷の敵軍がいる。朱然の精神は、徐々に乱れてきます。 いつ来るか分からない奇襲に怯えるうち、呉軍は、戦わずして崩壊しました。朱然も、命からがら逃走するという 有様。司馬懿は、またしても大いなる武勲を挙げました。 一方、東の方でも、魏軍が勝利。王淩の猛攻の前に、全jの軍勢が敗走しました。 一方では策多き司馬懿が勝ち、一方では策のない王淩が勝つ。戦いとは、何とも不思議なものです。 この武勲により、司馬懿の名声はますます高まりましたが、それに奢れば破滅を招く、ということを知る司馬懿は ますます謙譲の姿勢を見せるようになります。 続きます。
307:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:26:12 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、話は変わって、蜀漢の方は、と言いますと…。 文字通り、国政の全てを司っていた丞相・諸葛亮亡き後を託されたのは、それまで目立たない存在だった蔣琬でした。 目立たなかったのは、彼が後方支援的な役割を担っていた(そして、その務めを大過なくこなしていた)からですが、 当初は、この人で大丈夫なのか、と不安視もされました。 偉大なる先人の諸葛亮と常に比較される(そして、劣るとみなされる)のですから、割に合わない務めです。しかし、 蔣琬は、そういった無言の重圧にもめげず、淡々と職務に精励し、徐々に人々の信頼を勝ち取りました。 そうして数年が経ち、ようやく、魏との戦いのことを考えられるようになりました。彼は、諸葛亮の戦略をつぶさに 検証し、より効果的な戦略を練ります。雍州攻略(→魏の、西方との連絡を断つ)ばかりではなく、呉と連携して荊 州方面にも軍勢を差し向けられるよう、拠点を漢中から移すべきではないか、と考えたのです。 もっとも、諸葛亮もそうでしたが、蔣琬もまた、蜀漢の全権を司る立場。備えるべきは、魏との戦いばかりではあり ません。皇帝・劉禅の意向もあり、路線変更は、あくまで漸進的に。費禕や姜維とも、そのあたりの話はしています。 (しかし、費禕との話の中で、魏の雍州刺史・郭淮を「名将ではない」とはまた…) 呉が魏を攻める(ので蜀漢も出師してもらいたい)、という話がきた時、折悪しく蔣琬は療養中。やむを得ず、姜維 が雍州方面に出撃しましたが、これは呉の要請をないがしろにしていないというメッセージ以上のものではないため 大した戦いにはなりませんでした。しかし、この時、呉は出師せず。蜀漢が呉に対して不信感を持ったのは言うまで もなく、翌年、実際に呉が出師した時には、(蔣琬が療養中であったとはいえ)蜀漢は出師しませんでした。 続きます。
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