★『宮城谷三国志』総合スレッド★
299:左平(仮名)2011/01/29(土) 09:56:28 ID:???0 [sage ]
続き。

一方、実権を握った曹爽は、自らの体制作りに取りかかります。弟達を諸候にし、発言力を強化するとともに、賢
人と見込んだ者達を集めたのです。
彼らは、なるほど、なかなかの才覚の持ち主です。しかし、文帝・明帝からは「浮華」であるとして遠ざけられて
いたということを、曹爽は、どう思ったのでしょうか。
当初は独断を避けていたのが小心の故であったのなら、明帝の人材任用を見習えば良かったと思うのですが…。

一方、呉の方は、といいますと…。
位にあることが長くなると、緩みが生じる。学問を好んだ孫権は、そのことを知っています。それ故、厳しい政治
をしようと思うのですが、重臣の張昭・顧雍のどちらも、刑罰を緩めるよう説きます。
重臣達の意見を無下に拒むこともできないので、緩めはしたのですが、孫権には、物足りなさがありました。

そんな孫権の目にとまったのが、呂壱でした。相手の地位に関わらずびしびしと取り締まる彼のやり方を、孫権は
気に入り、側近として重用するようになります。
しかし、呂壱は、人には厳しくても己には甘い人間でした。皇帝の寵臣となったのを良いことに、恣意的な処罰を
するようになっていったのです。

続きます。
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