下
★『宮城谷三国志』総合スレッド★
302:左平(仮名)2011/02/27(日) 01:31:51 ID:???0 [sage ]
続き。
このような履歴を持つ彼のことですから、当然、呂壱の重用について、しばしば諫言を行いました。呂壱を信任して
いた孫権は、当初、「あの歩騭まで讒をなすか…」と思うのですが、徐々に、呂壱への過度の信任に疑問を抱くよう
になります(決め手となったのは、前回書かれたとおり潘濬の諫言ですが、歩騭の諫言もなかなかに堪えたと思われ
ます)。
さて、呂壱の件について、孫権には、思うところがありました。呂壱のような悪人を重用したのは、なるほど、己の
落ち度である。しかし、それを諌める者が少なかったのではないか、と。
そこで、重臣達に、国政の諸事について聞いてみたのですが…その返答は、少々期待外れのものとなりました。とは
いえ、それは、重臣達が保身に走ったとかそういう次元の問題ではありません。彼らは、僭越ということを何よりも
恐れていたのです。それは儒教思想の故、とされていますが、政治においては、まっとうな考え方です。
儒教思想の信奉者ではない孫権は、なおも意見を求めるのですが、臣下からすると、我らの意見を聞かなかった陛下
があったではありませんか、と言いたかったでしょう。
ともあれ、兄の後を継いでから約四十年。今や皇帝となった孫権と臣下の間には、徐々にズレが生じています。
そんな様子を知ってか知らずか、太子の孫登は、自分が太子であるが故、狭い世界しか見えなくなりがちであること
に危惧を抱き、歩騭に教えを請うなど、謙虚な姿勢を保ちます。彼が健在である限り、呉の未来は安泰である。呉の
人々はそう思ったことでしょう。
続きます。
上前次1-新書写板AA設索