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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
307:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:26:12 ID:???0 [sage ]
続き。
さて、話は変わって、蜀漢の方は、と言いますと…。
文字通り、国政の全てを司っていた丞相・諸葛亮亡き後を託されたのは、それまで目立たない存在だった蔣琬でした。
目立たなかったのは、彼が後方支援的な役割を担っていた(そして、その務めを大過なくこなしていた)からですが、
当初は、この人で大丈夫なのか、と不安視もされました。
偉大なる先人の諸葛亮と常に比較される(そして、劣るとみなされる)のですから、割に合わない務めです。しかし、
蔣琬は、そういった無言の重圧にもめげず、淡々と職務に精励し、徐々に人々の信頼を勝ち取りました。
そうして数年が経ち、ようやく、魏との戦いのことを考えられるようになりました。彼は、諸葛亮の戦略をつぶさに
検証し、より効果的な戦略を練ります。雍州攻略(→魏の、西方との連絡を断つ)ばかりではなく、呉と連携して荊
州方面にも軍勢を差し向けられるよう、拠点を漢中から移すべきではないか、と考えたのです。
もっとも、諸葛亮もそうでしたが、蔣琬もまた、蜀漢の全権を司る立場。備えるべきは、魏との戦いばかりではあり
ません。皇帝・劉禅の意向もあり、路線変更は、あくまで漸進的に。費禕や姜維とも、そのあたりの話はしています。
(しかし、費禕との話の中で、魏の雍州刺史・郭淮を「名将ではない」とはまた…)
呉が魏を攻める(ので蜀漢も出師してもらいたい)、という話がきた時、折悪しく蔣琬は療養中。やむを得ず、姜維
が雍州方面に出撃しましたが、これは呉の要請をないがしろにしていないというメッセージ以上のものではないため
大した戦いにはなりませんでした。しかし、この時、呉は出師せず。蜀漢が呉に対して不信感を持ったのは言うまで
もなく、翌年、実際に呉が出師した時には、(蔣琬が療養中であったとはいえ)蜀漢は出師しませんでした。
続きます。
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