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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
324:左平(仮名) 2011/08/05(金) 00:56:10 ID:???0 [sage ] 続き。 曹爽は、(この時点での)魏の最高実力者。当然ながら、現実の軍事・行政に関わります。その目でみると、司馬懿の 老衰は、蜀漢や呉に対抗できる人材が一人減ることをも意味するのです(李勝が哀しんでいるのも、実際に地方行政に 携わっているが故のもの、と考えると、また違った意味合いが見て取れます。ずっと中央にいたであろう何晏、ケ颺に は、恐らく理解の外にあることでしょうが)。 もちろん、単なる勝者の余裕、かも知れませんが。 しかしその頃、司馬懿邸では、司馬懿を中心にある謀議が行われます。司馬懿の眼には、炯々たる光が宿っています。 先ほどの痴態をみた者からすれば、これが同一人物かと思うほどに。 「これが失敗すれば、族滅される」 何しろ、曹爽派は皇帝を擁しているのです。それに叛旗を翻すとなれば、並々ならぬ覚悟が必要。この謀議に、司馬 一族以外の者が一人もいないのも、そのためでした。 謀議の内容。それは、曹爽派打倒のクーデターについてのものでした。明年早々、皇帝と曹爽達は、高平陵(先帝・ 曹叡の陵墓)に詣でるため、洛陽城を出ます。その隙を突いて…というわけです。 しかし、クーデターを起こすとなれば、その正当性を証明する必要があります。どうしようというのでしょうか。 続きます。
325:左平(仮名) 2011/08/05(金) 00:57:21 ID:???0 [sage ] 続き。 一つ、手段がありました。永寧宮(→皇太后の郭氏)です。皇太后であれば、皇帝不在の折に、非常大権を発動する ことも可能なのです。ただし、これはあくまで非常手段。 このクーデターは、司馬懿といえども、十分な勝算があって行うものではないのです(もし、曹羲が城内に留まって いれば…その時は運が無かったと思うしかない、とも言っていますから、まともに対応されたら負けるのです)。 そして、正始十(249)年となりました。 皇帝と曹爽達は、予定通り、高平陵に詣でるべく、出発しました。この一行の中に曹羲がいたという時点で、趨勢は おおよそ定まったと言えるでしょう。 皇帝と曹爽達が出発したのを見届けると、司馬懿達は、直ちに行動を開始しました。司馬一族の持てる兵を率いて、 永寧宮に参内したのです。 半ば引退した老臣の、それも兵を率いての急な参内。たれもが不審に思うところです。しかし、司馬懿に謁見し、 その英姿をみた皇太后は、その勝利を確信し、できるだけの措置をとることを約しました。 司馬懿が武器庫をおさえようとする際、曹爽邸内で、司馬懿を狙撃するか否か、という押し問答がありましたが、結局 狙撃は行われず。第一段階における、曹爽側の反撃は不発に終わりました。 かくして、司馬懿は、兵権を掌握し洛陽城内をおさえることに成功しました。 続きます。
326:左平(仮名) 2011/08/05(金) 00:58:32 ID:???0 [sage ] 続き。 とはいえ、いまだ皇帝は曹爽派の中にいます(皇帝が、皇太后の詔を無効とすれば、一気に情勢はひっくり返る恐れが あります)。司馬懿は、有力者の支持を取り付けるべく、動きます。 ここで名の挙がった有力者とは、高柔、王観、そして蒋済の三人です。高柔は、かつて曹操と敵対して倒された高幹の 一族ですが、職務に精励し、かつ、法の遵守者と認められて、着実に昇進した名臣。王観は、任地の幽州が難治の地で あることを正直に申告させた誠実な人物(宮廷の公物を厳格に管理していた為、曹爽に嫌われ転任させられたほど)。 蒋済については、ここまで読まれてきた方々には、言うまでもないでしょう。 彼らを味方につけることで、人々に、自身の正当性を知らしめようとしたわけです。裏を返せば、有力者の支持を取り 付けたなら、皇帝とてその意向を完全に無視することはできない(曹爽派の反撃を封じる、封じるまでいかなくとも、 弱められる)だろう、と…。 ただし、一人例外がいました。桓範です。迷いはあった(最初は司馬懿につこうとした)ようですが、皇帝を擁して いる、ということで、彼は曹爽のもとに向かいます。このことを知った蒋済は危惧しますが、司馬懿は捨て置きます。 司馬懿による、曹爽達への劾奏。そして、桓範からの情報。曹爽達は、ここに至って、ただならぬ事態にあることを 認識しますが… 追記。 司馬懿によるクーデターの知らせを受けた際、曹爽達は、ただただ呆然としていました(曹羲も、ことの詳細が分から ないことには…いう具合)。司馬懿の芝居は、かなり効いたようです。
327:左平(仮名) 2011/09/04(日) 02:33:56 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年08月) 今回のタイトルは「霹靂」。曹爽達にとっては、まさにそんな感じだったのでしょうね。しかし、それだけではおさまら ないわけで…。 司馬懿によるクーデターは、ここまではうまくいっていますが、桓範からみれば、まだ逆転の目は残されていました。何 しろ、曹爽側には天子がおわすのです。 天子を擁して副都・許昌に移り、そこで募兵を行えば、十分な兵力が得られます。それに、大司農の印綬もありますから、 兵糧の心配もありません。さらに、天子直々に詔を出せば、皇太后のそれを無効化できる(→司馬懿を逆臣とすることも できる)のです。 しかし、これだけの好条件を示されながら、曹爽達は動こうとしません。これまで、たびたび兄を諌めてきた曹羲でさえ、 押し黙ったまま。自分達の置かれた状況を理解はしたものの、その状況に耐えられなかったのです。 危機にあっては、人の本性が出てくるものですが、曹爽達は、揃いも揃って肚が座っていなかったようです。 ただし、いつまでも動かないわけにもいきません。いったん事が起こった以上は、何らかの形で決着をつけねばならない のです。それがいかなる形であろうとも。 天子の側近の中に、その決着とは天子の廃替ではないか、と危惧する者がいました。陳泰と許允です。 続きます。
328:左平(仮名) 2011/09/04(日) 02:35:02 ID:???0 [sage ] 続き。 ありえない話ではありません。歴史をひも解けば、前例はあるのです。曹爽達の傀儡の如き天子への同情がある二人は、 天子を救うべく、動き始めました。 ともかく、曹爽達がどうなるか。それが分からないことにはどうにもなりません。二人は、司馬懿のもとに赴き、その 真意を確かめようとします。 司馬懿にとっても、ここが勝負の分かれ目でした。曹爽派を完全に潰さないと、逆に自分達がやられる恐れがあるわけ ですから、許すことなどできません。しかし、それをあからさまに出すと、徹底抗戦される危険性もあります。 曹爽達には、免官だけで済むと希望を持たせる一方で、その後の処断の正当性を損なわないようにしなければならない のです。 ここは、何とか成功しました。ただし、曹爽派ではない二人の言葉だけでは曹爽を動かせないと思った司馬懿は、曹爽 に信用されている尹大目も遣わし、免官だけで済むという含みを持った返答をしてみせました。 これを聞いた曹爽は、ついに、降ることを決めました。それがいかなる結果をもたらすかも知らないままに。 続きます。
329:左平(仮名) 2011/09/04(日) 02:35:30 ID:???0 [sage ] 続き。 桓範からみれば、余りにも愚かな決断でした。曹爽達は、自らを守るものを、自ら捨て去るというのです。必死に止め ようとしますが、極度の緊張から解放されることにただただ安堵する曹爽達には届きませんでした。 「元候(曹真)はまことに立派なかたであった。…あなたがたは、犢(こうし)のようなものだ」 父祖の功業によって授けられた富貴に浸り、研鑽することのなかった彼らは、百戦錬磨の司馬懿からみれば、まさに犢 のようなものでした。しかし、このたとえは、単に精神の幼さのみを示したものではありません。 洛陽に戻った彼らを待っていたのは… まず、桓範。蒋済が「知嚢」と評したとおり、才智に富んだ彼は、いったんは大司農に復職する予定だったのですが、 城門を出る際の言動(詔であると偽って出た、司馬懿を逆臣とした…等)が咎められ、一転して、罪人として捕縛され ます。もともと、曹爽が降った時点で、ある程度の覚悟はしていたようですが、いったん許されてからのどんでん返し ですから、これはきついですね。 ただ、同じように城門から出た魯芝や、降ろうとする曹爽を諌めた楊綜等はお咎めなしでしたから、司馬懿が、桓範に ある種の危険性を感じたのが主因のようです。 続きます。
330:左平(仮名) 2011/09/04(日) 02:36:11 ID:???0 [sage ] 続き。 曹爽達は、というと、まずは自邸に戻ることを許されますが、謹慎を余儀なくされます。ただ謹慎するだけではなく、 近隣から動員された八百人の兵から監視されるのです。 庭に出るだけでも囃し立てられるのですからたまりません。おまけに、一切の人の出入りが禁じられているので、食材 さえ入手できないという有様。 さすがに、食材については司馬懿からの差し入れがありましたが、こうしている間にも、曹爽達の過去の行状の調査が 進められていきます。 厳しい監視と飢餓への不安に苛まれた曹爽達は、そのことには気づきませんでした。 そして、彼らの破滅のときがやってきました。公物や宮女の横領等、言い逃れようもない明白な罪状が曝されたのです。 しかし、捕縛され、刑場に送られる彼らは、意外におとなしいものでした。あの時、桓範の言うとおりにしたとしても、 勝てなかったろう。ならば、犠牲が少ない方がよい。そんなことを考える彼らは、まさに生贄の犢でした。 さて、これほどの事件となれば、当然ながら、大々的な裁判が行われることになるわけですが、ここで、今でいう検事 役に充てられたのは、何晏でした。何晏は、ここで曹爽達を強く断罪することで己の延命を図りますが、裁判が終わっ たところで、捕縛されました。 追記。 司馬懿の狡猾さと、曹爽の甘さ。今回は、これに尽きるように思います。 ただ、司馬懿の狡猾さについては、曹爽を降すための駆け引きはともかくとして、どこかすっきりしないものがあります。 何晏が曹爽派であることは明らかだったのに、なぜ検事役にして曹爽達を弾劾させたのか。このようなことをする意味が 果たしてあったのか。 何晏の人格の卑しさを白日の下に曝すためであったにしても、彼がここまでされなければならない理由は何か…。
331:左平(仮名) 2011/10/02(日) 01:53:48 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年09月) 今回のタイトルは「王淩」。先のクーデターは司馬懿の完全な勝利に終わったわけですが、魏の内部に、新たな異変の眼が 生じつつあります。 祖父は後漢の大将軍・何進。母は魏武帝・曹操の夫人。そして、自身の妻は公主(曹操の娘)。何晏は、魏王朝においては、 まさに貴種というべき存在でした。その彼が処刑されたことは、世の人々に大きな驚きを与えたわけですが、かような末路を 予見した人もいました。 その一人が、管輅(字は公明)です。易経等に通じた彼は、その容貌や振る舞いから、威厳がないとみなされ、あまり出世は しませんでしたが、俗世を超えた眼を持ち、様々な逸話を残しました。 その一つが、何晏についてのものです。彼が何晏に招かれたことは、歴史上、大した事件ではないはずですが、なぜか記録が 残っているというのです。 それは、司馬懿によるクーデターの直前、前年の十二月二十八日のこと。管輅のことを知った何晏が、自邸に招き、己の将来 を占ってほしいと依頼しました。「わたしは三公になれるであろうか」、と。 その際、この頃よくみるという夢の内容を伝えています(鼻の上を青蝿が飛び周り、払っても離れない、というもの)。 それに対する管輅の返答は、ごく大まかに言うと、(高位にあることによる)威はあるが、徳に欠けるため、危うい、という ものでした。 これを聞いた何晏がどう思ったかは、よく分かりません(管輅の伝には、忠告に感謝したという話もあるようですが、夫人に 心配されるほど行いが荒んでいた何晏が、本心からそう思ったとは考えにくいのです)。 ともあれ、それから間もなく何晏は誅されたわけですから、それを予見した管輅の異才ぶりが、あらためて世に知られたわけ です。 続きます。
332:左平(仮名) 2011/10/02(日) 01:54:34 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、ここで興味深いことが。何晏が誅されたことを聞いた裴徽(管輅にとっては恩人にあたる人物)は、管輅に、何晏の 印象を問い、その答えから何晏の本質を理解するという話があるのですが、そこで挙げられているのが、恵施(恵子)なの です。 恵施というと、「荘子」に出てくる、荘子の論敵。彼は、名家(今でいうところの論理学者の類)として知られる人物です が、何晏もその類であった…ということでしょうか。 wikipediaソースで何ですが、何晏は玄学(老荘思想に基づく学問)の創始者とされているようです。しかし、何晏はそう 単純な人物ではなさそうです。一見、ただの俗物であった晩年も、あるいは違う見方ができるのでしょうか。 さて、司馬懿のクーデターにより、曹爽の一族は滅ぼされたわけですが、帝室に連なる家が消滅させられた、となると、帝 室に連なる他の一族にもその影響は及んできます。 曹操の父の実家とされ、準皇族ともいうべき夏侯氏もその一つです。ここでは、その夏侯氏から三人が紹介されています。 一人は、夏侯令女。曹爽の一族に嫁いだ彼女は、若くして夫に先立たれて寡婦になりましたが、再婚を拒み、曹爽の庇護を 受けていました。その曹爽家が滅んだため、頼るすべを失い、実家に引き取られると、あくまでも再婚を拒み、自らの鼻を 削ぐに至ります。 先に髪を切り、次いで耳を削いでいますから、これ以上再婚を強いると自害しかねないという凄まじさです。 夫への、そして婚家への貞節ぶりに心動かされた司馬懿は、彼女が養子をとり、曹氏の家を継がせることを許します。それ は、自らの正当性を世に知らしめるには、有効なことでした。 しかし、権力とは無関係の夏侯令女はともかく、実権を持つ夏侯氏に対しては、そう甘くはありません。 続きます。
333:左平(仮名) 2011/10/02(日) 01:54:58 ID:???0 [sage ] 続き。 残る二人は、夏侯玄と夏侯覇です。二人は、ともに西方にあって蜀漢との戦いの最前線に立っていたわけですが、夏侯玄が 都に召還されることになりました。夏侯玄は、先に曹爽が蜀漢を攻めた際、その計画に賛同し、同行もしていますから、曹 爽派とみなされて…というわけです(なお、この戦いにおいては、夏侯覇は先鋒を務めている)。 結局、夏侯玄への措置は単なる異動だったわけですが、残された夏侯覇は、気が気ではありません。何しろ、夏侯玄の後任 は、仲の悪い郭淮なのです。 郭淮というと、かつては夏侯覇の父・夏侯淵とともに蜀漢と戦っている人物。その彼と仲が悪いというのはちょっと変な 気がしますが、以前に、曹休が賈逵を(一方的に)嫌ったということもありましたから、父の元部下の指図を受けること に不快感を持っていた(それを察した郭淮も夏侯覇を嫌った)のかも知れません。 これは、準皇族たる夏侯氏である自分を陥れる罠か。夏侯玄への沙汰が下るのを待っていては危うい。ここまで思いつめた 夏侯覇は、ついに亡命することを決めます。 しかし、魏の西方にあって亡命先となる国はただ一つ。そう、父の仇たる蜀漢です。父の仇を取りたいという気持ちを強く 持っていた(それ故に、先の戦いでは先鋒となった)夏侯覇にとっては難しい決断でしたが、彼の一族の女性が張飛の妻に なり、二人の間に生まれた娘が蜀漢の皇后になっているという縁が決め手になりました。 夏侯覇は、苦難の旅の末に蜀の地に入り、皇后の縁戚として厚遇されます。没年は不明とのこと。姜維とともに戦うのは、 演義での創作のようです。 続きます。
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