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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
372:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/04/01(日) 02:51:29 ID:???0 [sage ] 回のタイトルは「大政」。「大政」とくると「大政奉還」が思い浮かびますが、このような大事がそうそう平穏無事に 行われるわけもなく…。 諸葛恪の専横を苦々しく思っているのは、孫峻のみではありません。幼くして皇帝となった孫亮も、そうでした。先帝が 崩じてからまだ間もないというのに、大々的に戦を行い、しかも大敗。さらに、それへの反省もなく…となれば、不快に 思うのも当然でしょう。 聡明で心優しい孫亮としては、心静かに先帝の喪に服していたかったのです。諸葛恪がそのことに配慮していれば、先の 大敗はなく、その名望が失墜することもなかったのでしょうが…。 そんな孫亮に、孫峻が、ある内奏をします。「諸葛恪を慰労する宴を開いていただきたい」と。何か含むところがあると いうことは、分かります。が、孫亮は、詮索はしませんでした。 孫峻が何をしようとしているのか。多少の見当はつきますが、その全容を知るのは、孫峻のみといってもよいでしょう。 ともに後事を託されたはずの滕胤らも、知る由はありませんでした。 その頃、諸葛恪の周囲では、変事が相次いで発生していました。「捜神記」等で博学ぶりを示すエピソードのある諸葛恪 です。用心はしていたのですが… 続きます。
373:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/04/01(日) 02:54:45 ID:???0 [sage ] 続き。 その日が来ました。やはり、諸葛恪の周囲に変事が発生します。どうにも血腥いのです。諸葛恪に親しい人々からも、何 か不穏なものを感じるので警戒すべきとの忠告がなされました。最大限の用心をして宴に臨むことにした諸葛恪ですが、 なぜか、宴に行かないという選択はしませんでした。不穏なものを恐れるあまり宴に行かなかったと思われるのを恐れた のでしょうか。 孫峻が、諸葛恪を出迎えました。立ち居振る舞いは、あくまで丁重そのもの。一見すると何ら怪しいところはないのです が…それでも、何か違和感が拭えません。 こうして、宴が始まりました。 しばらくして、皇帝・孫亮が退席。さらに孫峻が席を外します。厠に入った孫峻は、ここで衣を着替えます。当時の習慣 としては普通のことですが…ここで彼は、長衣から短衣に着替えました。その、意味するところは何か。 席に戻った孫峻は、突然、諸葛恪に襲い掛かります。召し捕ると言ってはいますが、はなから斬るつもりでした。斬った 後、変わらぬ様子で酒を飲みますが、その後の指示は、なかなかどうして、抜かりありません。 続きます。
374:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/04/01(日) 02:56:45 ID:???0 [sage ] 続き。 ここでの孫峻は、手際が良く、かつ容赦ありません。諸葛恪の死に動揺する一族を、あっさりと殲滅したのです。都を 遠く離れており、のんびりと過ごしていた諸葛融達も、例外ではありませんでした。 孫堅の弟・孫静の曾孫という微妙な存在であった孫峻は、こうして大権を掌握しました。 このクーデターにおいてはみごとな采配をみせた孫峻でしたが、その後は驕慢になります。聡明とはいえ、幼弱な孫亮 は、引き続いて、実力者に翻弄されることになります。 一方、魏では…。司馬師が大権を掌握しているわけですが、諸葛恪とは異なり、これといった失策はありません。です が、皇帝が軽んじられているのでは、と思い、密かに反発している人々がいました。 若くして呉にも名を知られる名士となっていた李豊も、その一人でした。かつて司馬懿と曹爽とが対立していた時には 両者から距離を置いていた彼は、その後もまあまあ順調な官僚生活を送っていたわけですが、呉でのクーデターの話を 知り、魏でも同様の(専横の振る舞いのある実力者を排除し皇帝に大政を奉還する)ことはできないか、ということを 考え始めました。仕事ぶりは不まじめ(欠勤が多い。ただし業務はきちんとしているので無能ではない)ですが、勤皇 の志はあるのです。 このままでは魏は危うい。そういう危機感を持った、皇后の父・張緝や夏侯玄といった人々が、司馬氏を排除すべく、 水面下で動き始めました。
375:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/04/01(日) 02:59:11 ID:???0 [sage ] 追記。 今回、諸葛恪が破滅したわけですが…これだけの変異があり、本人も危機感を持って臨んだのに、最期は呆気ないもの でした。度重なる失策に加え、諫言する人々を遠ざけた末のことですから、本人については自業自得ですが、一族ごと 殲滅されたのは、どうにも後味が悪いものがあります。 遊び好きで、人と仲良くやってきたはずの諸葛融も、助けてくれる者が現れなかった(本人は自害ですが脱出を図った 息子達はあっさり殺されている)のは、少し物悲しいものがあります。 それにしても、魏の皇帝・曹芳は影が薄いです。この頃にはとっくに成人しているはずですがいまだに幼弱扱いされて いるのが、何とも。
376:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/05/03(木) 02:15:13 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年04月) 今回のタイトルは「掃除」。しかし、その内実は…。 李豊は、張緝のもとに子の李韜を遣わしました。「このままでは、皇帝に近い我らは、司馬師によって排斥される」。そう いった危機感を持つ者同士での連携を模索していたのです。 李豊・李韜父子も、張緝も、才覚のある人物です。その危機感は、まんざら妄想ではありません。李韜の言葉に迷いがない のをみてとった張緝はこれを了承します。 李豊は、さらに宦官達とも話をつけました。後漢の頃ほどではないとはいえ、宦官達の中には不正を働く者もおり、彼らは 司馬師による処断を恐れていましたから、この話に乗ります。 こうして、李豊は、外戚と宦官とを抱き込むことに成功しました。あとは、帝室に近く、名士でもある夏侯玄ですが…なぜ か、やや消極的です。ここでは触れられていませんが、かつて司馬師とは義兄弟(司馬師の最初の妻が夏侯玄の妹)だった ことが影響していたのでしょうか。それとも、単に危機感が薄かったのでしょうか。 優れた学識と文才の持ち主ではありますが、権力闘争を勝ち抜こうとする胆力が欠けているのでは…。ともあれ、そのこと に、李豊は不安を抱きます。かといって、この計画が成った後、事態を収拾するには、夏侯玄の存在が不可欠だとも思って いるのです。 さて、この計画ですが…先の王淩もそうですが、一つ問題があります。協力を求める相手が多いのです。「事は密をもって 成り、泄をもって敗る」と言いますが、手広く声をかけると、当然ながら異心を抱く者もいるわけで…。 続きます。
377:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/05/03(木) 02:18:00 ID:???0 [sage ] 続き。 案の定、このことが司馬師に知られました。何ゆえ、李豊が…と思うものの、複数のルートから情報があがってきたとなれ ば、無視することもできません。 司馬師は、やや強引に李豊を呼び出し、自邸に連れてこさせました。 無理やり連れてこられて不機嫌な李豊でしたが、そんな彼を、司馬師は高圧的に迎えました。そして、中書令である李豊に 皇帝の行状を語ります。 先帝が崩じてから十数年。とっくに成人した曹芳ですが、淫楽に耽り、まともに政務をとれないというのです。 そんな皇帝にかわって政務をみている。その自負のためか、司馬師の言葉には、皇帝への敬意はみじんも感じられません。 「なんじは、かような皇帝に親政をさせるため、われを除こうとした」 そこにあるのは、個人的な憎悪などとは次元の違う怒り。まっとうな為政者を除いて国政を乱そうとする者への怒りです。 李豊の計画は、完全に失敗しました。協力者の名も、全て把握されています。もはや言い逃れることも不可能。目の前が 真っ暗になった李豊ですが、司馬師に「叛逆」と言われると、落ち着きを取り戻し、司馬師を非難しました。 「わたしは叛逆などしておりませんよ。皇帝を助けんがためにしたことを叛逆といわれる覚えはない。皇帝をないがしろに しているあなたはどうなのか」 こちらにも、正義があります。至尊の存在であるはずの皇帝をないがしろにする者を除くのは臣下の務めなのです。 異なる正義のぶつかり合いといったところですが、ここは司馬師邸。司馬師の側に控える力士が、たちまちにして李豊を 突き殺しました。 続きます。
378:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/05/03(木) 02:21:36 ID:???0 [sage ] 続き。 李豊の屍体は、廷尉の鍾毓のところに運ばれました。あの鍾繇の子にして、父の名に恥じぬ篤実な人物である鍾毓は、李 豊の死にただならぬものを感じます。 司馬師が殺させたことは明らか。常人であればその威勢を恐れて意のままになるところですが、大将軍としての公式な文 書がない以上、これは私刑によるものであるゆえ、受け取れない、ときっぱり拒否したのです。 これを聞いた司馬師は、怒るどころか、むしろ喜びました。鍾毓が、きちんと法度に基づいて職務にあたっていることが 分かったからです。 なお、文書が整い、李豊の死が公的なものとなると、その死体は受け取られました。 これをうけて、すみやかに、法度にのっとった処断が下されました。 李豊、張緝の一族は滅ぼされました(李豊の甥は幼年のため処刑は免れたようです。なお、公主をめとっていた李韜は、 形式上は自害)。宦官達も処刑され、鍾毓による、夏侯玄への尋問が行われます。 名士・夏侯玄をも処断せねばならぬことを分かっている鍾毓は、哀しみました。彼ならば、あるいは司馬師以上の政治を 行う可能性もあるのです。ですが、法度は枉げられません。 李豊の死に、曹芳は怒りを露わにしました。李豊の計画は知らなかったようですが、側近がいきなり殺されたのですから 穏やかならぬことは分かるのですが、この反応に対する周囲の目は冷ややかなものでした。 曹芳の徳のなさをみた司馬師は、ついに皇帝廃立を考えるようになります。しかし現状ではまだ時期尚早。いかに大将軍 とはいえ、容易なことではないのです。 続きます。
379:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/05/03(木) 02:23:24 ID:???0 [sage ] 続き。 「まずは、掃除、掃除」 司馬師はそう言って、李豊に続きそうな者達の排除に取り掛かります。それを「掃除」という言い方で表すあたり、司馬師と いう人物の恐ろしさが垣間見えるようです。 この中で排除されたうちの一人が、許允でした。名門意識が旺盛な彼は、司馬懿が亡くなった際、それを喜ぶかのような発言を したこともあり、状況によっては反司馬氏に成り得る存在として、徹底的にマークされます。 そんな彼に大役が与えられましたが、何と、任地に赴くまさにその時に、横領の罪で逮捕されたのです。流刑で済みましたが、 面目は丸つぶれ。気落ちした彼は、間もなく亡くなりました。 許允は罪人として亡くなりましたが、妻の阮氏は、その聡明さをもって子を守り抜きました。 しかし、これほどまでに入念に掃除してもなお、反司馬氏の企ては続きます。そして、ついに弟・司馬昭の暗殺未遂事件が発生。 司馬師は、最後の大掃除を決意することに…。 追記。 以前から、司馬氏の権力掌握の過程には、何かすっきりしないものを感じています。やっていること自体は、おおむね妥当では あるのですが…。
380:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/06/04(月) 00:12:34 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年05月) 今回のタイトルは「廃位」。司馬師のいう、最後の大掃除が行われます。しかし、司馬師の悩みの種がなくなったかといえば…。 司馬昭の暗殺計画はかなり緻密なものであったようで、ついに立案者の名は出てきませんでした。この計画は、西方への遠征を 行うにあたって参内する司馬昭を宮中で捕え、勅命によって誅する、というものですから、皇帝・曹芳が直接的に関与するもの です。 そして、その時がきたわけですが…なぜか曹芳は動きませんでした。俳優の雲午が「青頭鶏」(鴨=オウ=押さえるに通じる) というサインを出したにもかかわらず、です。何ゆえに、かは分かりません。しかし、曹芳の振る舞いに何か異常を感じた司馬 昭は、退出すると直ちに司馬師に報告。 商(殷)の伊尹(王の太甲が暴虐であったので幽閉し改心させた)に憧れる司馬師ですが、現実には、漢の霍光(擁立した昌邑 王が皇帝にふさわしくないとみるやこれを廃した)の道を取らざるを得ないことを嘆きつつも、それを実行せざるを得ないこと を悟ります。 ただ、霍光は皇帝の廃位(及び宣帝の擁立)には成功しましたが、その死後、一族は滅びました。皇帝を廃するという荒々しい 手段は、かなり危険なことでもあるのです。 しばし思案した司馬師は、「箒を持つ手を変えれば大掃除しても埃をかぶらなくて済む」と、謎めいたことを言います。皇帝を 廃するという大事を掃除に例えるのはいかがなものかとは思いますが、一体、どうしようというのでしょうか。 続きます。
381:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/06/04(月) 00:14:41 ID:???0 [sage ] 続き。 それから程なく、多くの高官達が集められました。ここで司馬師が、皇太后・郭氏からの、ある文書を読み上げます。それは、 皇帝・曹芳が皇帝にふさわしくないため、もとの斉王に落とすべきである、と命ずるものでした。 …司馬師は、自分ではなく、皇太后が皇帝の廃位を言い出したという体裁をとったのです。その影に司馬師がいることはみな 察していましたが、それを非難する声はあがりませんでした(曹芳を擁護する声もありませんでした)。 実力者たる司馬師に媚びるという含みもありましたが、手続上は十分な正当性を有すること、司馬師の政治がおおむね妥当で ある(彼に従っても損をする者はない)ことが、この挙を肯定させたのです。 かくして、司馬師をはじめとする高官達によって起草された―皇太后の命をうけ曹芳を弾劾する―文書が、皇太后の一族の郭 芝によって届けられます。 この時、皇太后は曹芳と同席していました。ことここに至ってはやむを得ないとは思いつつも、血のつながりはないとはいえ 子として接してきた曹芳と別れることに、感傷的になっていたのでしょうか。 場の雰囲気を壊す形になりましたが、郭芝は文書を差し出し、皇帝の印綬を取り上げさせます。 廃位ともなれば相当な抵抗が予想されるところでしたが、拍子抜けするくらい、淡々とことは進みました。あるいは、曹芳は、 皇帝の位に嫌気がさしていたのでしょうか。さすがに皇太后と別れる際には号泣していましたが、それ以外は何の問題も生じ ませんでした。 続きます。
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