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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
394:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:18:02 ID:???0 [sage ] 続き。 このとき、傅嘏は、自分が司馬師に出師を強いたばかりに…と自責の念に駆られていました。また、前回も書かれていたよう に、曹髦の器量に不信感を抱いていました。 それゆえ、彼自身は司馬氏の家臣ではありませんでしたが、司馬昭のために何をすべきか…と思っていました。そんな彼の判 断は、皇帝の命令を無視し、司馬昭が軍を率いたまま洛陽に向かう(洛陽近郊で停止し威圧する)、というものでした。 いかに少年とはいえ、相手は皇帝。正面から命令を無視するのですから、大変な判断です。が、司馬昭も、ここが勝負どころ と分かっていましたから、この判断を善しとし、実行に移します。 既に皇帝を凌駕する実力の持ち主が、大軍を率いたまま、洛陽近郊で停止し沈黙したのですから、大変な威圧です。ついに、 この件は皇帝側が折れる(司馬昭を大将軍に任命し、公私ともに司馬師の後を継がせた)という形で決着しました。 この重い判断が心身に堪えたのか、ほどなく傅嘏は世を去ります。彼の最後の心配は、ともに司馬師を補佐した鍾会に驕りの 色が見えてきたことでした。もちろん、鍾会を戒めてはいますが、彼がそれをどう聞いたかは…。 追記。 毌丘倹も、傅嘏も、国を想う人物であったことは間違いないでしょう。しかし、毌丘倹にとっては国=曹氏(特に曹叡)なの に対し、傅嘏にとっては国≠曹氏であった点が異なります。 外伝でもあったように、いわゆる名士にとっては、曹操の出自(宦官の養孫)はどこまでいっても汚点扱いなのでしょうか。
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