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176:左平(仮名) 2006/05/14(日) 00:11 今回のタイトルは「袁譚」。全部とはいかないまでも、今回のかなりの部分が彼の最期に至る過程です。 鄴を陥とし、冀州をほぼ制した曹操は、冀州牧となります(兗州牧は返上)。自らかの地を治めることと したのは、地の利に甘えず、人を治めることこそ肝要と考えたがゆえのこと。 (一方、袁紹は地の利に甘えた感あり。「(山河の天険や玉璧よりも)人こそが宝」というのは、古典を 読めば分かることですが、実践はなかなか難しいようで…。「袁紹は学問をしたことがあるのかな」と いう曹操の呟き、よく考えるとかなり痛烈です) (袁紹のもとには名士がたくさんいたわけですが、活用していたとは言い難いだけに、名士もただの飾り に過ぎぬ、というあたり、虚名に対しても辛いです) そんな中、曹操に降ったことで一息ついた袁譚は、袁尚との戦いを優勢に進める一方、近隣の郡県を攻略 するのですが…曹操がこれをどう思うか、という認識がなかった(若しくはどうにも甘かった)ようです。 これは、名門に生まれた驕りのゆえなのか、彼に(影響を与えられる)諌臣がいなかったゆえなのか。 戦略においては策を弄するも、人と人との契約については偽りを許さない苛烈さを持つ曹操にとっては、 これは、袁譚を滅ぼす格好の名目でした。 この戦いは、曹純、曹休、曹真といった曹操一門の将器を試す絶好の機会でもありました。(今回名前の 挙がらなかった于禁以外の)いわゆる「魏の五将軍」や李典、それに張繍(猛将との評価!)も登場する など、曹操配下武人のオールスターキャスト勢揃いといったところ。一方で、参謀達の出番は特にありま せんでした。小細工無用、ということでしょうか。 袁譚も懸命に抗戦し、血路を開かんと奮闘しますが…最期は存外呆気ないものでした。 ただ、それでも、王修のように、影響は与えられないまでも諫言を呈することのできる配下を持ち、かつ それを虐げたりしなかっただけ、袁譚は、人としてはまっとうだったと言えるかも知れません。 感情移入まではしませんが、ほんのちょっとのことで、生き残れたかもしれないのにな…というところも あります。
177:左平(仮名) 2006/08/25(金) 20:49 [sage] ここ最近、別アドレスに書き込んでるみたいですので…こちらに 書き込みます。 177 : 左平(仮名) 投稿日:2006/06/12(月) 23:32 今回のタイトルは「高幹」。前回に続き、袁氏勢力の減衰過程が描かれる格好です。 壷関攻めに派遣された楽進と李典。自信たっぷりな言動をみせる楽進に疑問を抱く李典ですが、 楽進も、伊達に大口をたたくわけではありません。数多くの戦いに参加し、戦場という場を知悉 しているがゆえの強気です。 実際、いざ戦いになると、奇策等はありませんが、的確に相手の出方をみてとって然るべき対応 をとります。李典にとっては、何となくうまが合わない(理解できない)のですが、しかし、以 降も長くコンビ(あるいは張遼とのトリオ)を組むのですから、不思議なものです。 さて、壷関は関と城から成っている(そういえば、ゲームでもそんな感じだった様な…)のです が、上記の戦いによって、高幹は城に押し込められる格好になりました。こうなると、身を守る 城が却って枷になります。 袁氏は地を重んじたが、それゆえ地によって死ぬ(思考が退嬰的になるという含みがあります) ことになる。曹操の認識は確かです。 逆に、それゆえ、一切のものに―地のみならず妻子・部下にも―とらわれない劉備が不気味に感 じられる、と。 高幹も最後の抵抗を試みますが、既に孤立無援に陥っており(匈奴単于に協力を求めるのですが 高幹についたところで得るものはなし。それでは利に聡い彼らを動かせるはずもありません)、 結局、脱出を試みたところで殲滅されました。袁譚の最期とよく似ています。 荒廃した并州をどう治めるか。ここで梁習の名が挙がります。高幹の秕政による荒廃であるだけ に、優れた行政官が何より必要だったのです。 既に、(同僚の王思の提出した建白書の件で)その気骨を認められていた梁習は、これまでの任 地と同様、目覚しい成果をあげてみせました。 こうして、并州の平定も完了。徐州・青州の海賊も退治し(ここも楽進・李典コンビが活躍)、 さて次は…?
178:左平(仮名) 2006/08/25(金) 20:50 [sage] 1 : 左平(仮名) 投稿日:2006/07/12(水) 23:19 今回のタイトルは「田疇」。前回のラストをうけての烏丸攻めです。 袁氏の息の根を止めるべく烏丸を攻めようとする曹操。しかし、荊州にいる劉備が気にかかります。 夏侯惇・于禁(+李典)を派遣したものの撃退されていますから、劉表ともども本腰を入れて攻め かかられてはやっかい、というのは確かにありました。 夏侯惇・于禁がともに奇策を弄しない将というのは分かるのですが、彼らと戦う劉備が、「彼我の 力量をはかり堅実な戦い方をする」というのが何とも不思議な感じです。 しかし、ここで郭嘉が進言。一応官職には就いてますが実務には関与しない、いわば遊軍的な立場に いるだけに、幅広い視野でみることができたわけです。 かくして、烏丸攻めに出立。しかし、幽州で夏の長雨に遭います。 後の司馬懿による遼東攻めの時も長雨に遭ってますね。当時の気候には余り詳しくありませんが、 この長雨、程度の差はともかく、特定の年に限った話ではないみたいです。中原からするとこの あたりは多雨地帯みたいです。 ここで曹操の頭にある人物の名が浮かびます。それが田疇(字は子泰)。以前、劉虞が都に出した 使者として名が挙がっていましたが、その後のことが語られます。彼の進言により、一気に烏丸の 拠点を突き、時の実力者・蹋頓を倒しました。 何と、ここで張遼の名が挙がってません!正確な理由は分かりませんが、この時期に攻めかかった 時点で勝利が約束されていたということで田疇の功績を高く評価した、ということのようです。 頼みにしていた烏丸が破られたことで、公孫氏のもとに逃れた果てに、袁氏の命運はここで尽きる こととなりました。 かくして、曹操は北の脅威を完全に片付けました。そうなると、次は…というところ。 劉備の進言を容れなかったことを劉表は悔やみますが、当の劉備本人は以外にあっさりとした態度。 以前、劉備を指して、道教的…という評価がなされていましたが、今回は、まるで高僧のよう、 というたとえ方がされていました。徹底的に物事を捨てていくという姿勢がみられると。そして、 それから考えると、世に言う「髀肉之嘆」はどうなのかと、という疑念も。 ただ、さすがに何らかの心境の変化があったのか、劉備はついに名士と言われる人に会うようになり ます。ここで出てくる伏龍・鳳雛。そろそろ、三顧の礼がみられそうです。
179:左平(仮名) 2006/08/25(金) 20:50 [sage] 5 : 左平(仮名) 投稿日:2006/08/12(土) 21:41 回のタイトルは「三顧」。前回のラストで近いうちに、という感はありましたが、さっそくきました。 ただ、最初に語られるのは、孔明と並び称された士元の方。名士(隠士と言ってもいいんですかね)の司馬 徽に認められたことで世に名が現れます。 司馬徽の姿勢がまた興味深いものがあります。褒める人はことごとく激賞するのです。大いに褒めて世に名 を現すことで、事を成す助けになればいい。褒めて育てるという教育方法の実践者、というところでしょう かね。 叔父・諸葛玄と共に荊州に来た孔明は、ここで、孟建(公威)・石韜(広元)・崔州平、そして徐庶と知り 合います。 石韜曰く、「あいつ(孔明)は斉人だから」。石韜・徐庶は潁川の人。潁川は、というと、戦国時代の韓。 韓と斉とでは、法に対する考え方が真逆というほど異なる(韓で法というと韓非子が浮かびますが、ここで 念頭にあるのは術の人・申不害。つまり、君主の立場からみている)そうで、これもあってか、元侠客とも いうべき側面のある徐庶はともかく、孟建・石韜とはやや距離があったようです。 そういえば、孔明が自らをなぞらえたのは管仲・楽毅ですが、二人とも斉と縁のある人ですね。 徐庶の紹介により劉備は孔明のもとを訪ねますが、当初、孔明は劉備に対し、不快感さえ持っていたとさえ いいます(妻子にも配下にも酷薄・信義も何もない・結局のところ何も為していない…なるほど美質という べきものがありません)。 しかし、門前払いしたにも関わらず、劉備はまたやって来ます。孔子が陽虎に仕官を求められた時のエピソ ードにならった断りの文句を徐庶を通じて伝えてもなお、劉備は怒りの色もみせず、再度来るのです。 ここで、孔明は大いに悩みます。郷里の徐州を荒らした曹操にはつきたくない、孫権はどうも癖がある(既 に兄が仕官しているのでその後塵を拝することになるのも…)、そして、劉表は老い、曹操の勢力は急激に 拡大しており、もはやのんびりと世代交代を待っている暇はない…。 そして、ついに決断を下すときがきました。 二人の出会いは互いに感動をもたらすものとなりました。ここでの劉備は、演義における大徳の人でもなけ れば、蒼天航路における侠気の人でもありません。何というか、仏教でいう「空」の人です。 その空の人に実を植え付けたのが孔明でした。 一方、曹操はというと、玄武池を作り水軍の訓練に入っていました。南方の制圧に取り掛かろうとしていた のです。曹操vs孔明という図式ができつつあるようです。
180:左平(仮名) 2006/09/12(火) 20:45 [sage] 今回のタイトルは「甘寧」。最近、人名のタイトルが続いてますね。 南征を図る曹操。荊州をまず併呑し、そこから孫呉を…と考える彼としては孫呉の台頭が遅い方が望ましい。 そのため、江夏を守る黄祖の奮闘に期待するところだったのですが…その願望は、あっさりと砕かれました。 その鍵を握る存在だったのが、この甘寧。 巴郡の出である甘寧は、任侠を気取り、放恣な日々を過ごします。侠気に叶うとみれば罪人を匿い私刑を行う こともしばしば。豪奢を好み…とくると、なるほど、劉備に似ているところがあります。 ※年齢的には、劉備とはそんなに離れていないように思えます。彼がなぜ群雄の一人に名乗りをあげなかった のか…という考察もできそうですね。 そんな生活を二十年程も続けた後、突然書物を読むようになり、荊州に向かいます。さんざん好き勝手に生き てきた末に、ふと倫理道徳に思いを馳せたか、何かしら老いを感じたのか。ともあれ、いったんは劉表に仕え ようとしたものの、儒教道徳に則った君子である劉表は彼を使う術を持たず。となれば、まだ内部が固まって いない孫権か、と見極めますが、黄祖に止められます(そりゃ、数百人ものド派手な一行が通れば目立ちます わね)。 ここで暫くの間くすぶりますが、孫権の江夏攻めの際、なりゆき上、黄祖を守って後拒をつとめたことで孫呉 に名が知られます。蘇飛のはからいで孫呉にわたった甘寧は、直ちにその力量を認められ、黄祖攻めに加わり みごと大功を挙げます。 ※黄祖のキャラがなんとも微妙なところですね。「勇将」「荊州で最高(の武将)」「運だけは強い」。どれ が本当?まぁ、最後は、「事実上の総司令官は蘇飛」なんですけど。 陳舜臣氏の諸葛孔明での黄祖が一番まっとうではあったように思います(孫堅を倒した部下の首を差し出せ ば孫呉もおとなしくなるのでは、という劉表に対し、自分が責を負う、ってなあたり)が…結構、書きよう がありそうです。 前に、どこかで「黄祖は半独立勢力では?ってな」話も聞きましたが… 後半は、諸葛亮が登場。黄祖亡き後の江夏太守の任についたのは…劉表の嫡子・劉K。その経緯が語られます。 親異常に乱世には不向きな人として描かれてますね。
181:左平(仮名) 2006/09/18(月) 00:14 三国志の第四巻が発売されました。早速購入、読了。 しかし、ここらの密度は濃いですな。一巻で四年程度しか経過しておりません。
182:左平(仮名) 2006/10/04(水) 22:28 三国志の第五巻が出ましたので、先週、購入しました(第五巻の時に第四巻と 共に広告載せるのなら、一緒に出しても良さそうな気もしますが…)。 土曜に買ったので、即日読了したのですが…あれ?「張繍」の回、典韋の最期 が詳しく描かれてる…。
183:關龍白 2006/10/10(火) 15:43 「張繍」の回は全部で33ページもありますね。 他は28,9なので追加したんじゃないでしょうか?
184:左平(仮名) 2006/10/15(日) 21:15 >追加したんじゃないでしょうか? 恐らく、そうでしょうね。しかし、いしいひさいちキャラの藤原センセならともかく、宮城谷作品で増補改訂 があったというのは、なかなか面白いものです(とは言え、雑誌への連載時から読んでて、かつ、その記憶が あるのは本作と風は山河よりくらいなんですけど)。 今回のタイトルは「長阪」。 前回のラストでちらりと司馬懿の名が現れましたが、今回、前半部分でそのあたりの経緯が描かれてました。 兄・司馬朗の友人である崔琰(直言が好きですな、この御仁)に高く評価された彼は、この頃に出仕。病と 佯っていたところ刺客に襲われ…といった『晋書』でのエピソード(妻の張春華のことは、今回は書かれて ません)を書きつつも、周辺の人間関係等からこれを疑問視されています。 この時点では地味な一官僚たる彼ですが、先祖には名将(巴蜀を制した司馬錯等)もいるだけに、文武兼備 を自負しています。 曹操による荊州攻略に先立ち、まずは、涼州の鎮撫がなされます。馬騰・韓遂が相争うのを鍾繇が調停し、 続いて、張既の説得により、馬騰が入朝します。これにより、一応収まります。欲を言うと、曹操にとって ベストだったのは、馬超をも入朝させて涼州の私兵軍団を解消することでしたが、さすがにこれは酷という もの。こちらは、しばし後回しとなります。 張既の若い頃のエピソードが紹介されています。彼の才を見出した功曹・游殷とその子・游楚です。游楚 の方は、あまり曹操好みという感じではない鷹揚な人物という扱いですが、なかなかの器量を持った親子 です(游殷を死に追いやった胡軫は、三国志全人名事典では董卓配下の胡軫とは別人という扱いですが… どうなんでしょう)。 曹操の圧力が迫る中、劉表は世を去ります。父の危篤を知った劉Kは直ちに駆けつけますが、蔡瑁・張允に 阻まれます。そして、劉Nが跡を継ぎ、曹操に降る決断を下します。 劉Kを阻むのは演義等と共通しているのですが、ここでの蔡瑁・張允の描かれ方は、かなり異なります。 蔡瑁は、荊州のため、「政治的判断として」劉Kを阻みます。そこには私心はなく、去り行く劉Kに対し 「どうかお宥しを…」と詫びてさえいます。蒼天での蔡瑁も善人キャラでしたが、こちらはそれにプラス して忠臣キャラも入ってます。 一方、蒯越は、器量は相当なものですが、さすがに老いたか、乱を好まぬ人物に。 劉Nは、器量については父には少し劣ると言えますが、下手な妄想は抱かない分、まっとうな人物です。 しかし、この決断により、劉備達は見捨てられた格好になります。ここで荊州を乗っ取っては、という声も あがりますが、劉備は、ここでも鮮やかなまでに捨ててみせます。 民が付き従うのは、徐州でのことがいまだに荊州では意識されている―劉表の政策の賜物でもある―ため、 ということからすると、必ずしも劉備の魅力によるものではないわけですが…しかし、それでも劉備に何か 魅力を感じるというのはなぜでしょうか。 ラストは、三国志ファンご存知の趙雲の大活躍。曹操をも感嘆させる奮闘振りですが、関羽以外にも「劉備 には過ぎたる臣」がいたことを、曹操は不思議に思います。
185:左平(仮名) 2006/11/19(日) 21:46 今回のタイトルは「魯粛」。 タイトル通り、今回の主役(?)は魯粛です。まずは、その来歴から。…「〜の人」というのは 史書にあるわけですから、調べれば分かるとはいえ、徐州の人、ということを強調していたのが 印象的です(反・曹操にして親・劉備というのにはそれなりに理由があったということ。徐州の 主としての劉備の政は、少なくとも悪いものではなかったみたいです)。 ゲームでは孫権配下の参謀の一人ってな感じの扱いですが、ことさら学問に励んだという様子は なく、人を集めて教練を行う等していますから、家が裕福でなかったら甘寧みたくなってたかも 知れません。 しかし、数百の衆を集めて教練を施し、周瑜の訪問をうけて倉一つぽんと渡すってんですから、 傍目には単なる放蕩息子とみられるのも無理はありませんね。 周瑜とはたちまちにして意気投合。子産・季札にたとえられる程の仲となりますが、魯粛がその 才を存分に輝かすには、それからしばらくの歳月を要します(何だかんだ言っても袁術の虚名が なお大きかったこと、周瑜に【いくばくかの】中央志向があったこと、孫策がとかく武人偏重に なりがちであったこと等、理由はいくつかあります)。 魯粛が劉曄の誘いをうけて北へ向かおうとした時、周瑜が懸命に引き止め、孫権に立ち会わせた ことで、埋もれかけた才が世に現れます。 孫権に語った内容は、現状を踏まえつつ、覇権を得るための策(献帝を義帝、曹操を項羽、孫権 を劉邦に喩えてます)。中央の高位に色気を持たず、思想にいらぬ装いをしていない自由人・魯 粛の面目躍如の場面です。 そんな魯粛にこのたび、荊州の偵察(等)という使命が下ります。劉備という奇才にピンときた 魯粛は、彼に、孫権との盟を勧めます。 諸葛亮のGOサインも出て、ここに、一つの流れが生じました。 最後は、諸葛亮と孫権との対面。若くして一勢力の長となった孫権からすると、親ほど年が違う というのに未だに領地を保ち得ない劉備の器量に対し、どうしても疑いを持つのですが、そこを どのように説得するか。 ここで、劉備陣営に一つの動きがあります。劉備に諸葛亮を勧めた徐庶が去ったのです。母が捕 らえられたとはいえ、少し時間が経ってから去ったというところに、彼の複雑な心境が見え隠れ しています(龍【諸葛亮】を見上げつつ、母とともに地を行く徐庶。千載の後も名を残すことと なる偉才と自らを比べ、悲観したのでしょうか。幅広く人材を活かすことができない点に劉備陣 営の難しさがありますが、曹操とて、最初は小勢力からのスタートでした。何が違っていたのか …)
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