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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
189:左平(仮名) 2007/04/15(日) 22:52 (2007年03月分) 個人的な話をしますと、このほど、異動になりました。とはいっても、広島通勤が続くのですが。 今回のタイトルは「合肥」。もちろん、劉馥・劉靖父子のことも書かれてます。 まずは、前回からの続き。部下の危機をみた曹仁、何と!ただ一騎で出撃しようとします。陳矯の困惑、 いかばかりか。 何とか数騎をつけたとはいえ、敵勢と比べると余りに小数。しかも、ただの示威行為などではなく、本 気で戦うというのですから、無茶にもほどがあるというもの。 陳矯、あまりの衝撃に、聴覚が失われたかの如き状態に陥りますが… しかし…突如沸き起こる歓声。続いて、意気揚々と帰還する曹仁達。曹仁は、見事、包囲された牛金達 の救出に成功したのでした。 いかに敵勢が怯んだとはいえ、あれだけの重厚な包囲を突き破るとは、大変なもの。(実は、今回の曹 仁については、ビジュアル的には蒼天バージョンで想像したのですが…)後年の合肥の張遼に優るとも 劣らぬこの場面が蒼天で描かれなかったのが惜しまれますね。 周瑜が江陵で曹仁と戦う中、孫権は合肥を、張昭は当塗を攻めます。しかし、合肥の守りは万端。劉馥 の遺産が実によく機能したのです。 類稀なる行政手腕を持ちつつも、己の徳量を過信せず、しかと合肥の基盤作りを成し遂げていた劉馥。 そして、その父の薫陶を受けていた劉靖(三国志の時代からは少し外れるからか、孫の劉熙までは言及 されてませんけど、三代にわたる活躍ですからね)。 結局、周瑜は江陵を落とすのに一年かかり、孫権・張昭は成果なし。赤壁での鮮やかな勝利があったと はいえ、思うような結果は得られませんでした。 一方、劉備達も、地味に動き始めます。しっかりとした領土を確保しないことには、結局孫権あたりに 吸収されかねないですからね。 劉Nとともに曹操に降ったと思しき荊州南部の太守達を口説き落とす、ってな口実をつけて、周瑜から 離れることとします。 他の事に手が回らない周瑜、これを了承したのですが…孫呉にとっては、後々悩みの種になるんですよ ね。孫権がもう少し攻めに長けていたら…というifもありなんでしょうか。 ラスト付近は、武陵の金旋攻めです。じっくりと内通を待ち、約一月の後、趙雲。糜芳という珍しい? コンビで攻略に挑みます。 ただ兄に従ってきたというだけで、劉備も、関羽・張飛も、さらには諸葛亮をも嫌うという糜芳。そん なに嫌ならついて来るなよと言わずにはいられない彼も、趙雲は真の将器と認めています。 さて、武陵攻め。いかなる描かれ方をするのか。
190:左平(仮名) 2007/04/16(月) 23:06 (2007年04月) 今回のタイトルは「巡靖(立+ヨ)」。諸葛亮の導きもあり、捨てることで名声を得てきた劉備が徐々 に変貌するさまが描かれます。このタイトル、二勢力にとっての、という含みがあるみたいです。 今回の話は、武陵攻めの続きから始まります。趙雲自ら城壁をよじ登り、ついに城内に到達。それと同 時並行で関羽・張飛が突入。かくして、武陵は陥落。太守の金旋は倒されます。 趙雲が徒歩で戦う姿はなかなか見られないだけに、面白い場面です。糜芳をして「趙雲はかすり傷一つ 負わないのではないか」と言わしめるあたり、宮城谷氏も趙雲のイメージを崩すことはなさそうです。 突入時にも「常山の子龍である。かかってくるか」と、台詞に!がつかないあたり、冷静沈着な武人と して描かれています。 その後の場面においても、趙雲の識見の確かさをうかがわせます(一方、糜芳は、自らの力量の乏しさ が分かるがゆえに苛立っているように見うけられます)。 さて、戦後処理。関羽が太守代行となったことに不満を示す糜芳を趙雲はたしなめ、一方で、内応者を 探します。その内応者は、城内突入時には死んでいた兵士達かと思われましたが…その首謀者と思しき 人物とは、実は廖立でした。劉備と諸葛亮が武陵を攻めるのに時間をかけたのには、このような側面も あったというわけです(単なる力攻めでは人心は掴めないし、戦闘の結果、味方になりうる人材を喪う 惧れがあった)。劉備のもとにも、徐々に人材は集まってきつつあります。 そして、続いては長沙。親曹操ながら、その支援が期待できないことは分かっている太守・韓玄は、劉 備からの使者(何と!簡雍がここで登場です!)と対面します。 簡雍は、不思議な使者でした。降れと脅すわけでもなく、利をちらつかせるでもなく。何しに来たのだ と思いつつも、そんな簡雍の主である劉備の力を認め、抗戦することを諦めた韓玄。「演義」とは全く 異なる結末となりました。その後、韓玄がどうなったかは全く言及されていませんが、以前の黄祖と同 様、なかなかの人物という印象が残ります。 このような結末となったため、ある重要人物の登場場面がありませんでした。約十年後にはかなり重要 な存在となる彼をここで出さないとなると…どういう形で登場させるのでしょうか。もっとも、案外、 次回あたり名前だけポッと出すのかも知れませんが。 続いて、桂陽・霊陵も降し、劉備は確かな足がかりを築きました。真の意味で劉備が一勢力としての道 を歩み始めたのです。 さて、孫権との戦いに気を取られていた曹操も、この頃になると荊州南部の情勢が気にかかる様になっ てきました。とはいえ、江陵にも十分な兵を与えていないことからも分かるように、余裕はなし。そこ で曹操が選んだ人材とは…劉巴! かつて孫堅の遺骸を引き取り、後には張羨を動かして劉表と戦った桓階をして自分以上の人物と言わし めたあたり、大物感があります。 名士・劉巴が荊州南部の説得に動いていることを知った諸葛亮は、彼の捕捉を考えます。使者として各 地を巡っている以上、大人数ではないはず。とはいえ、扱い方を誤ると…というところがあるだけに、 どのようにして捕らえ、迎え入れるのか。
191:左平(仮名) 2007/05/21(月) 22:50 三国志(2007年05月) 今回のタイトルは「四郡」。名実ともに拠って立つ領土を確保した劉備は、そろそろ、これまでとは違う 自分を探し当てる時期にさしかかっています。 しかし「零陵」を打ち間違えるとは…。ここのところ、本作以外ではやや三国志から離れているとはいえ、 情けない限りです。 まずは、前回の続きから。 荊州南部で反劉備の狼煙をあげるべく動いていた劉巴。危ういところで捕捉の手が伸びていることを知り、 間一髪で諸葛亮の追跡をかわしますが、零陵郡から追われる格好になりました。当然、これでは使命は果 たせません。 半ば失望した劉巴が辿り着いたのは、交州。現在のヴェトナム北部ですから、漢の人々からすると、殆ど 化外の地です。 当然、ここで交州の主・士燮の名が出てきます。とはいえ、劉巴の言葉に耳を傾けないことから、ここで は小物扱いです(確か、王莽の頃からの半独立勢力…と聞いた覚えが。当時、中央にあっても一級の知識 人でもあったのですから、もう少し良く書いても…とも思いますが、やり場のない鬱憤のあったであろう 劉巴にはそう見えたということでしょうか)。 結局、ここから益州に入った劉巴は、この地に落ち着き、後には…ということになります。人生の皮肉を 感じるところではありますが、この時代、このような人々は多かったのでしょうね。 さて、こちらはしばし措くとして…。今回のメインは、四郡を得た劉備の、今後に向けての動きについて です。 先の徐州は借り物。しかも袁術やら呂布やらといった敵対勢力に苦しんでおりましたから、半ばどさくさ 紛れに、とはいえ、この四郡は、初めて自力で勝ち得た領土です。 これをいかに保つか。これまで捨てることによって生き延びてきた劉備にとっては、何もかもが初めての 経験です。 幸いなことに、かつての蕭何の如く内政に長じた諸葛亮に加え、関羽にも行政手腕がありました。あとは、 曹操の動きを睨みつつ、孫権と良好な外交関係を築くこと(もっとも諸葛亮は、孫権に気を許すべきでは ないことを認識しています。孫権にあまりに近付くと四郡の領有権が曖昧になってしまう惧れがあるため です。事実そうなってしまうわけですが、とはいえ、なかなかこのあたりの機微は難しいところです)。 劉備と孫権の妹との婚儀。こうなると、劉備自身が行かないわけにはいきません。劉備を見送るにあたり、 諸葛亮は、「若君(後の劉禅)とともにお待ちしております」と言いますが、それは一方では、劉備に万 一のことがあった場合には、幼君を立ててでもその勢力を守り支えるという覚悟の表明。単なる儒教的な 忠とはいささか形は異なりますが、後の「出師表」に繋がるところがある…?
192:左平(仮名) 2007/06/17(日) 09:57 三国志(2007年06月) 今回のタイトルは「養虎」。ここにきて、益州が注目の対象になってきました(今回、曹操は出番なし)。 劉備が呉に来訪。強運の英雄(好意を持たない者からみれば悪運の強い梟雄)・劉備の扱いを巡り、呉の 内部は喧々諤々の論争が起こります。 抑留すべしと主張→呂範、周瑜 活用すべしと主張→魯粛 ともに、劉備がひとかどの器量の持ち主とみているからこその真摯な主張なわけですが…ここでの孫権は、 後者を採ることとしました。兄の後を継いで以来、ここまでこれといった挫折もなくきているだけに、鷹 揚なところを見せたかった…というところもあるのかも知れません。 しかし、この邂逅、(少なくとも劉備にとっては)益あるものではありませんでした。 劉備は、孫権に対し、抜きがたい不快感を抱いたのです。曹操とは異なり、欺瞞が感じられる、と。後年 のことを考えればあり得ないではないのですが、ちょっといきなりのような気も。 孫権の妹が劉備との結婚を心底嫌がっている(確かに、いくら美人でもこれでは冷めますわな…)という のも、その不快感をさらに強めることに。 結局、用事が済んだら、逃げるように帰っていきました。 劉備が陳登と許レとを評したエピソードからみると、表には出さないけど、結構激しい気性の持ち主でも あるわけですし、人物鑑識眼もなかなかのもの。その劉備がかくも孫権を嫌ったという時点で、この同盟 なるものは危ういものだった…。 主君が劉備を帰したことを知った周瑜は、自らの大計を急ぎ実行するべく、行動を起こします(曹操・劉 備が大規模な軍事行動を起こせない今のうちに…ということ)。 孫権の承認も得て、意気揚々と帰途についた周瑜でしたが…突如として世を去ります。曹仁との戦いで重 傷を負ったとの記述はありましたが、何とも急な死でした。 歴史を大きく動かした赤壁の勝利。そのために世に現れた、一つの奇跡。孫権の言葉も含め、最大級の賛 辞が並びます。 志半ばにしての夭折。一方で、千載の後までも語られる偉業。無念さと充足感が交錯します。 ともあれ、大器・周瑜の死により、その大計―益州を併呑し馬超と結んで曹操を多方面から撃破―は挫折 します。 しかし、諦めきれない孫権は、益州を攻めるべく孫瑜を動かします。この際、劉備には何らの事前連絡を していないあたりが、まだまだ甘いところです。 孫瑜を通さず、一戦交えることさえ辞さない劉備。はて、どのように収拾するのか。
193:左平(仮名) 2007/07/17(火) 22:26 三国志(2007年07月) 今回のタイトルは「龐統」。孔明とはかなりタイプの異なる偉材の登場です(ちなみに、容貌への言及は なし)。 益州を獲るべく孫瑜を西に遣わした孫権。これに対し、劉備は関羽・張飛を遣わしたことで、あわや全面 対決の様相を呈します。 が、しかし…。劉備の書状(低姿勢に終始)を受けた孫権は、ここで兵を引くよう命じます。訝しく思う 孫瑜ですが、良将たる孫瑜は、主命に背くことなく引き返します。 かくして、劉備はやすやすと江陵を確保。益州への道は、劉備がおさえることとなりました。孫権も後で 地団駄を踏んだのでしょうが…ここは劉備の勝ちでしょう。 我欲を剥き出しにしたといえる劉備の姿に、魯粛も軽く失望します。しかし成長した呂蒙の言葉をうけ、 思い直します。 人は、変わり得るもの。親・劉備派とみられる魯粛も、そう単純な存在ではありません。 ちなみに、呂蒙と魯粛の話の中で、関羽の人となりが語られています。春秋左氏伝を愛読した関羽は、儒 教的な正義観とはいささか異なるものを持っているようです。その思いは強烈で、漢朝にも、(漢帝を奉 ずる)曹操にも屈しません。いや、王朝的なシステムの構築を図りつつある劉備にさえも、どこか一線を 引いているのでは…とも。 高島氏でしたか、三国志における関羽の存在は巨大であると語っておられましたが、宮城谷氏もその図式 を描いておられるようです。 ここで、龐統が登場します。自己顕示欲が強く、毒舌家でもある彼は、呉の偉材(雇邵、陸積、全N)に 対してもかなりな物言いをしますが、それがかえって好かれるという得なキャラです。 とはいえ、はじめ、劉備は彼のことを気に入らなかったわけですから、人の見方というのは複雑ですね。 潘濬(清廉のみならず情義も併せ持つ、劉備好みの名臣。とはいえ、陳登もそうですが、そんな彼らが劉 備のもとを離れなければならないというのもまた世の習いか)のことも語りつつ、今回はここまで。 次回は、久しぶりに曹操のことが語られるようです。
194:左平(仮名) 2007/08/13(月) 23:54 [sage] 三国志(2007年08月) 今回のタイトルは「潼関」。久しぶりに曹操メインの話です。 建安十五(210)年。「求才令」を出し、銅雀殿を建てたとはいえ、孫権・劉備の動向が掴みきれない だけに、曹操に目立った動きはありません。 内実は決して連携していない孫権・劉備ですが、二勢力がそれぞれに曹操に牙を剥く「常山の蛇」の状態 とみると、動けないのも無理はないところでしょう。 それにしても…。二年前はただ逃げ回るだけだった劉備がこれほどの存在になろうとは。曹操の目には、 いまだ諸葛亮の姿は見えません。それだけに、劉備軍団の変容の原因が未だに分からない状態です。 南方は、しばらく手を付けられない。と、なると…。そう、西方です。かの地自体が治まっていないのに 加え、益州(この時点では劉璋がいるとはいえ、孫権か劉備に侵食されることは明白)から手を回されて は一大事。賊・商曜の蜂起の知らせを受け、直ちに護軍・夏侯淵に出陣を命じます。 速攻に長けた夏侯淵ですが、ここで求められるのは、来るべき曹操の出陣に備え将兵の損耗を抑えること。 いや、そればかりではありません。 軍議において、諸将は(大将の気性に合わせて)速戦を唱えますが、ひとり朱霊が異論を唱えます。ひと たびは朱霊の進言を退けるかと思われた夏侯淵ですが…かつての雷緒征伐のことを思い起こし、その意見 を採用します。結局、それが大正解でした。 ※征伐された雷緒がどうなったか、を考えると答えが出てきます。 ※朱霊が曹操に嫌われていたことも触れられています。ただ、最初の頃はそれほどの将器でもなかった (晩成した)ように書かれています。何かそういう資料があるのか、曹操が嫌った理由付けをされた のか。 そして、ついに馬超達が出てきます。それなりに野心はある馬超達。しかし、なにゆえこの時点で動くの か。何やら、中央にもきな臭い動きがある…? しかし、ここでの馬超は実に冷静沈着です。潼関に入った曹仁の将器のほどが知られているということも あるにしろ、親子ほども年の差がある韓遂と比べてもその落ち着きぶりはなかなかのもの。 ラスト付近、ちらりと曹植の名が。次回あたり、詩の一つも出てくるのでしょうか。
195:左平(仮名) 2007/09/22(土) 23:24 三国志(2007年09月) 今回のタイトルは「雨矢」。対馬超戦の序盤・渡河作戦の顛末などが描かれます。 前回から既に対馬超戦に入ってはいるのですが、曹操自身が臨むのは今回から。まずは、その深謀遠慮が 語られます。 内に外にとにかく忙しい曹操にとって、頼りになるのは名臣のみにあらず。賢婦人・卞氏のことを忘れて はならないでしょう。(途中までですが)こたびの遠征に連れて行ったのもそのため。彼女は、夫の期待 にみごとに応えます。 それだけではありません。愛子・曹植も同行します。彼が類稀なる文才の持ち主であるということは既に 分かっているだけに、夢想に陥らないよう、現実の戦場を見せておく必要があると判断したからです。 ただ、曹丕はこのことに不快感を示します。またしても留守を任されたことで己が武名をあげる機会を逸 したためです。 それ自体は、曹操から信頼されていることの証といえるのですが…ここではまだ語られないとはいえ、後 のことを思うと、少しばかり影が差しているような。 また、曹丕の正室・甄氏は、義母を気遣う孝婦なのですが、義母には少し劣る(ごく簡単にいうと、大家 族の中で育ったため寂しがり【義母を気遣うのもその故】なところがあり、胆力が弱い)ようです。 本作においては、養祖父・曹騰から書かれていますから、曹操が三代目。『重耳』や『風は山河より』と 比較すると…曹操以降は、さて? 蛇足ながら、村上氏の挿絵、普段はやや三枚目的な感じのものが多いのですが、今回はまっとうな美女 (おそらく甄氏)でした。こうしてみると、甄氏の描かれ方って作風が出るようですね。 鍾繇の治績を確認し、潼関に着陣した曹操。もちろん、既に作戦は考えています。徐晃・朱霊もその意図 をしっかりと読み取り、適切な動きを見せます。 ここで馬超側の意見は分かれます。渡河させまいとする馬超と渡河途中を叩くべしとする韓遂。ここでは 馬超の方が正しかったわけですが…韓遂の考えにも一理あるだけに難しいところです。 かくして、渡河作戦が開始されます。それを察知した馬超は手勢を率いて急行。西方の精鋭達がどっと襲 い掛かってきます。 曹操側も精鋭揃いですし、名将・張郃もいるだけにたやすくは崩れませんが、攻撃は激しさを増す一方。 タイトル通り、曹操に向かって雨の如く矢が降り注ぎます。 ついに、曹操の身を気遣った張郃・許褚によって、曹操は後方に引きます(というか、後方に連れて行か れます)。 ただ、馬超にも抜かりはありました。韓遂達との連携がいまひとつとれていないのです。戦いを仕掛ける のは馬超側ですが、気がつくとじりじりと押されている状態。和議を持ちかけるなど、焦りの色が見られ ます。 と、なると…。ここで賈詡の登場。次回は…
196:左平(仮名) 2007/10/29(月) 21:23 三国志(2007年10月) 今回のタイトルは「馬超」。対馬超戦の決着がつきます。 兵糧の問題もあり、このまま戦い続けていても埒があかない。とはいえ、利無くして退くこともできない…。 ジレンマに陥った馬超は、ここで韓遂を使うことにしました。韓遂が曹操と面識があることから、曹操との 面会の場を設けることを求めたのです。 2対2。こちらは馬超と韓遂。向こうは曹操と誰か…。さすがに軍閥の長であるだけに、それ相応の思慮も ある馬超ですが、ここは己が武勇で何とかけりをつけようとしたのです。 しかし、馬超と韓遂の間には、互いを軽んずる、いや〜な雰囲気が。これでは…。 そして、面会の場。向こうは一騎。よし、いける…そう思った馬超ですが、曹操撃殺は成りませんでした。 何故なら、曹操の傍には、徒歩ながら剛勇無双の許褚がついていたからです。韓遂との連携が成らぬ以上、 許褚に気を配りつつ曹操を襲うことは不可能でした。 そんな馬超などいないかの如く、曹操と韓遂の話は弾みました。才略にも機知にも富んだ両者のことです。 もしかしたら…両者は、敵ではなく盟友として、あるいは上官と部下として…と思わされる場面です。 しかし、一点、大きな違いがありました。韓遂にとっては、中原の天は狭いのです。「銅雀台に登れば天 は低くなる。あの男でもそれが分からぬか」…何とも意味深なところです。 結局、この面会を経て、馬超の、韓遂への不信感はさらに高まりました。何も得られなかったのです。続 いて、関中諸軍閥との面会にて、決戦の時が決まりました。 そして、いざ決戦。しかし、韓遂と、その目付的な軍勢は動き(動け)ません。そのため、いかに猛攻と はいっても、曹操麾下の歴戦の勇者達の軍勢を突破することはできません。 そして…ついに、曹操の軍勢の両翼が、馬超の軍勢の分断にかかります。思うところあって、馬超とは歩 調を合わせなかった楊秋の軍勢が、結果としてこれを食い止め、馬超を助ける形になりました。この楊秋、 後に、説得を受けて帰順します。 一方、その頃、鄴で変事発生の報せが。直ちに出陣しようとする曹丕を(民生に優れた)国淵が諌めます が、聞く耳を持ちません。ここで、常林が登場します。さて、どう説こうというのか。
197:左平(仮名) 2007/11/24(土) 22:02 三国志(2007年11月) 今回のタイトルは「法正」。劉備が益州に入ります。 最初は、前回の続き(曹丕が出陣しようというのを常林が諌めるところ)から。河北の情勢に明るい常林 が理をもって諄々と説き、曹丕の出陣を止めました。 もちろん、鎮定する必要はありますので、「曹丕が派遣した」という形をとり、賈信(袁氏討滅のあたり で出てきたようです)が出陣します。 さして目立つ存在ではないとはいえ、賈信もひとかどの将軍。すみやかに賊に打撃を与えました(首謀者 は捕まらなかったのでこの時点ではまだ完全に鎮定したわけではありません)。 さて、捕らえた者どもをどうすべきか。 「旧法では〜」「孫子曰く〜」 多くの属僚達がそう言う中、一人沈黙を守る長身痩躯の老人の姿があり ました。程Gです。 旧法を墨守するだけでは組織は柔軟性を失い硬直していく。戦乱の世を生き延びてきただけに、その弊害 はよく見えます。それに…あの丞相が、何の備えもしていないことがあるでしょうか。 その通りでした。前回、曹操は曹仁を馬超追撃から外し、潼関に残していたのですが…それがここで生き たのです。直ちにとって返した曹仁は、たちまちにして河北の賊を討滅します。 帰還した曹操は、よく留守をつとめた曹丕をねぎらいました。それこそ、程Gの功績でした。 そんな頃、益州ではある動きがありました。ここで、法正の登場です。 中原の混乱を避け、益州に入った法正ですが、この地の主・劉璋の目には留まらなかったか、低い地位の まま。不満はあったでしょうが、一人ではどうしようもなく、無為に日々は過ぎていきます。 そんな法正に目をつけ、劉備への使者とさせたのは――張松でした。 本作での張松は、風采も才知も、演義のように強調されることはありません。ただ、益州に生まれ育った 者として、その地と民を愛し守ろうとする男として描かれます。 「もし、劉備がわたし(法正)の地位を知って軽んじたら〜」 「その時は、あなたが劉備を蔑めばよい。このままでは、益州は曹操のものになる。わたし(張松)は それをみるのは忍びない」 その姿に、法正も心動かされるものがありました。張松自身はなかなかの地位にあり、その待遇自体には 不満はありません。しかし…。 法正の来訪が何を意味するかは、劉備側も十分承知していたようで、法正は手厚いもてなしを受けました (もちろん、益州における地位など関係ありません)。古の晋文公の如き振る舞いに、法正もおのずと心 動かされていきます。 かくして、劉備は益州に入りました。当然、龐統、張松、法正は、すみやかに劉璋の抑留又は暗殺を薦め ますが…劉備はここでも迂路を選びます。さて、この判断はどうであったのか。 ところで、最後に気になることが。張松は法正達と再び会うことは〜というように書かれたあと、「劉禅 はあわや劉備に会えなくなるところであった」と書かれているのです。ひょっとして、次回は…。
198:左平(仮名) 2008/01/04(金) 23:22 三国志(2007年12月) 今回のタイトルは「劉璋」。とはいえ、序盤に描かれているのは、孫夫人による劉禅拉致事件の顛末です。 最初から政略結婚とは承知していたものの、互いに全く心を許さない、冷え切った夫婦。一応、孫夫人の 方は美貌の持ち主とはなっているのですが…これではどうにもなりません。 この夫婦の仲については多くの作品でいろいろな描かれ方がなされていますが、本作では、互いにとって 不幸以外の何物でもないという感じです。 そんな彼女が、劉備にした最大の嫌がらせ。それが、嗣子・劉禅をさらうことでした。それ以前にもあれ これと嫌がらせ(放恣な振る舞いなど)をしているのですが、劉備達はそれには反応しません。反応して 夫婦関係に何らかの進展があればツンデレということにもなったのでしょうが…。 ただ、彼女の監視役として趙雲を残したことで、益州攻略作戦に負の影響を与えたというのですから、孫 呉にとっては意味のある婚姻ではあったわけです。 そして、孫夫人が荊州を去ります。あの冷静沈着な趙雲が取り乱す(恐らく、本作で趙雲が取り乱すのは この一回のみ)という中、諸葛亮は落ち着いています。 なぜなら、劉備は全てを―家族を含めて―ためらいなく捨てられる人物なので、このくらいのことでは堪 えないことを知っているから。三顧の礼から四、五年に過ぎないのですが、諸葛亮は劉備のことをよく理 解しています。 では、なぜ趙雲は取り乱しているか、ですが、それはちょっと違う意味があるようです。 (途中から張飛も加わりますが)趙雲の必死の捜索にも関わらず、劉禅はなかなか見つかりません。もう だめかと思われたその時! …ともあれ、何とか劉禅を取り戻すことができました。二度までも自分を救ってくれた趙雲の姿が、幼い 劉禅に強く焼き付けられたことは言うまでもありません。 さて、ところは変わって、益州。張松や法正の勧めにも関わらず、劉備はなかなか動きません。そうこう しているうちに、曹操の方に動きがあった…ということで、荊州への引き揚げを示唆。 このことがきっかけとなり、張松たちの策謀が露見。張松は処刑されます。 この件については、単に劉備の優柔不断が招いた失策…と思っていたのですが、そうではないのでは、と いう視点が。張松は、晋文公における里克の如き存在であったのではないか、というのです。 このような存在は、本人の忠心そのものは真であっても、(重んじれば主を裏切った者を厚遇するのかと みられ、冷遇すると功労者を正しく遇することもできないのかとみられるので)何かと扱いにくいもので あるのも事実。さすがに張松もそこまで思って…ということはないでしょうし劉備もこの故事を咀嚼した 上でかくの如き行動をした…とは思えませんが、そのような視点を提示されると、策略というものの非情 さを思い知らされるような思いがします。自分には到底できそうにない、と。 そして、ついに益州攻略作戦を実行に移す劉備。龐統からは上中下の策を提示されますが、ここは中の策 をとります。あまりに良い策を用いると、後々、その策にとらわれることに―赤壁で大勝をおさめながら 江陵で苦戦した周瑜の如く―なることを恐れたからです。 さて、次回は…?
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