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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
174:左平(仮名) 2006/03/12(日) 21:38 今回のタイトルは「官渡」。三国志における一大ターニングポイント・官渡の戦いに決着がつく時がきました。 あの白馬義従を打ち破った強烈な弩の一斉掃射が曹操陣営に襲い掛かります。反撃しようとしても、相手の方が 物量・精度において上回るため、劣勢を挽回するには至りません。 (射程距離が半里余りといいますから、200m以上ですね。何かのスレで見たのですが、戦国時代末期の火縄 銃の射程が約120mだったそうですから、その威力のほどがうかがえます) さすがの曹操も弱気の虫が顔をのぞかせ、許で防御を固めようかとの書簡を荀揩ノ送りますが、荀揩フ叱咤激励 を受け、気を取り直します。 (俗に「岡目八目」と言いますが、ここでの曹操と荀揩みると、その言葉がよく当てはまっている様ですね) ここで考え出されたのが「発石車」。弩よりも射程距離が長く、かつ、殺傷能力が高い新兵器です。何基くらい 作られたのかは分かりませんが…ともかく、天から岩が次々と降ってくると考えると、敵にとっては一大脅威。 岩の雨を避けようとすると弩の殺傷能力が激減しますから、互いに距離をおいてのにらみ合いとなり、戦いは膠 着状態と相成ります。 地下での攻防はありましたが、袁紹側の策を曹操がはね返すという感じで、決め手とはなりません。 こうなると、どちらかに隙が出来た方が負けとなります。この点、曹操にはツキがありました。背後を衝く恐れの あった唯一の存在・孫策が急死したのです。 経緯については、このスレを御覧になる方々にはご存知の通りですが、その雄々しさ・苛烈さと一方での呆気なさ には、どこか織田信長に似た雰囲気を感じました。 なお、劉備については、関羽の件がありますから袁紹の許を離れましたが、こちらは小勢力ですから背後を脅かす というほどではありません。劉表は中立という名の傍観ですし、その他の勢力は言わずもがな。 一方で、大軍であるだけに兵糧の消耗も大きい袁紹は、その集積地を烏巣に置いていたのですが、ここが隙となり ました。 ここを守るは淳干(う…「ウ【迂−しんにゅう】」が出ないっ!)瓊。要地を任されている訳ですから決して小さい 将器ではなかったのでしょうが、許攸の情報をもとに攻めてきた曹操の軍勢を見ても軽く蹴散らせると見くびって いたのです。 こうして、袁紹は、顔良・文醜・淳ウ【迂−しんにゅう】瓊といった将器、大量の兵糧、それに、万を越える兵(烏 巣の救援を提案するも容れられなかった張コウ【合β】・高覧がそのまま降ったため)を一挙に失い、壊走しました。 それにしても、許攸の情報の真贋の見極め方といい、張コウ【合β】を受け入れる時の言葉(微子啓や韓信をたとえに出してます!)といい、大量の書簡を発見した時の対応といい、曹操、見事の一言です。 人並以上に策謀を弄しながらも、一方で、誠心を持って人にあたるという姿勢を取れているからでしょうね。 とはいえ、まだまだ袁紹は健在。荊州にも一瞬目移りしたものの、諌言を受けてこの誘惑を振り切り、次なる戦いに 臨むことになります。 今回のラストに、久しぶりの名前―趙雲が登場しました。正式に劉備配下になったのです。「それ(趙雲がひそかに 募兵した)ゆえ、劉備のもとには数百の冀州人がいる」。…何か含みがあるのでしょうか。
175:左平(仮名) 2006/04/13(木) 22:41 今回のタイトルは「ギョウ【業β】県」。官渡の戦いから、はや数年が経っていますが、 今回は、ギョウ【業β】攻略がメインとなっています。 建安七年。曹操は、郷里であり、若い頃隠棲していたショウ【言焦】を訪れていました。 住民の歓待を受けにこやかな顔を見せつつも、心中にはふと一抹の寂しさがよぎります。 「あの頃描いていた未来とは違うかも知れないが…過去を振り返ることはできない」。 覇業に向けての歩みはおおむね順調ですが、苛烈な生の中にいる自分を、しかと認識して います。 既に四十の半ばを過ぎました。知命(五十歳)ももうすぐ。おのずと自省に意識が向いた のでしょう。 しかし、その時は呆気なく敗れます。袁紹が亡くなったのです。 その長子・袁譚は青州の、次子・袁熙は幽州の刺史として出されていましたから、父の許 にいた末子・袁尚がすんなりと跡を継ぐ格好にはなったのですが…とはいってもただでは 済みませんでした。 (袁譚・袁尚とも、器量は父にも劣っている様に描かれていますが、本作においては、袁 譚の方がまし、みたいな感じです。袁譚は自省に甘さがある【それ故、配下の質も低い】 のですが、父の跡を継いだ直後に袁尚がみせた冷酷さ【父の愛妾の家族を皆殺し】はない ということ) 曹操という共通の敵がいながら、両者は相戦うことになります。まずは、勢力にまさる袁 尚の方から仕掛けました。ギョウ【業β】の堅い守りを頼りに、曹操に攻められるより先 に…というところなのでしょうが、決着はつきません。 袁譚は袁尚に近い逢紀を殺し、袁尚(というか審配)は袁譚に近い辛評を捕え…という具 合で、配下の人材をも消耗する有様。 当然、曹操がこのような好機を逃すはずもありません。ギョウ【業β】の攻略そのものは けっこう時間がかかりましたが、その間に着々と周囲を攻略し、自身の勢力の涵養に努め ています。 (程Gの胆の太さ、あの曹操がいったん思考停止して意見をそのまま受け入れる荀攸の頭 の回転の速さ。配下がその手腕を存分に振るえる環境づくりの能力の差は大きいですね) 袁譚が(本心ではないのは明らかながら)曹操に降ると、袁尚はいっそう苦境に立たされ ます。ギョウ【業β】は孤立無援になり、蘇由、そして審栄が裏切ることで、ついに陥落 しました。 ここでの審配の最期は、どこかやるせないものがあります。前々回での彼は、「所与の条 件下で最善を尽くす」ってな感じでけっこう格好よく思ったのですが、今回は、どこか醜 悪な感じがしてなりませんでした。 審配自身は変わってはいないのでしょう。しかし…落城に際し、囚われている辛評(及び 一族)を殺したら、処刑されるにあたって自らの忠義を誇るついでに人を罵ったりすると いうあたり、どこか哀しいものがあります。 なお、今回は劉備の動きについての言及はなし。ラストはあの美女の登場でした。
176:左平(仮名) 2006/05/14(日) 00:11 今回のタイトルは「袁譚」。全部とはいかないまでも、今回のかなりの部分が彼の最期に至る過程です。 鄴を陥とし、冀州をほぼ制した曹操は、冀州牧となります(兗州牧は返上)。自らかの地を治めることと したのは、地の利に甘えず、人を治めることこそ肝要と考えたがゆえのこと。 (一方、袁紹は地の利に甘えた感あり。「(山河の天険や玉璧よりも)人こそが宝」というのは、古典を 読めば分かることですが、実践はなかなか難しいようで…。「袁紹は学問をしたことがあるのかな」と いう曹操の呟き、よく考えるとかなり痛烈です) (袁紹のもとには名士がたくさんいたわけですが、活用していたとは言い難いだけに、名士もただの飾り に過ぎぬ、というあたり、虚名に対しても辛いです) そんな中、曹操に降ったことで一息ついた袁譚は、袁尚との戦いを優勢に進める一方、近隣の郡県を攻略 するのですが…曹操がこれをどう思うか、という認識がなかった(若しくはどうにも甘かった)ようです。 これは、名門に生まれた驕りのゆえなのか、彼に(影響を与えられる)諌臣がいなかったゆえなのか。 戦略においては策を弄するも、人と人との契約については偽りを許さない苛烈さを持つ曹操にとっては、 これは、袁譚を滅ぼす格好の名目でした。 この戦いは、曹純、曹休、曹真といった曹操一門の将器を試す絶好の機会でもありました。(今回名前の 挙がらなかった于禁以外の)いわゆる「魏の五将軍」や李典、それに張繍(猛将との評価!)も登場する など、曹操配下武人のオールスターキャスト勢揃いといったところ。一方で、参謀達の出番は特にありま せんでした。小細工無用、ということでしょうか。 袁譚も懸命に抗戦し、血路を開かんと奮闘しますが…最期は存外呆気ないものでした。 ただ、それでも、王修のように、影響は与えられないまでも諫言を呈することのできる配下を持ち、かつ それを虐げたりしなかっただけ、袁譚は、人としてはまっとうだったと言えるかも知れません。 感情移入まではしませんが、ほんのちょっとのことで、生き残れたかもしれないのにな…というところも あります。
177:左平(仮名) 2006/08/25(金) 20:49 [sage] ここ最近、別アドレスに書き込んでるみたいですので…こちらに 書き込みます。 177 : 左平(仮名) 投稿日:2006/06/12(月) 23:32 今回のタイトルは「高幹」。前回に続き、袁氏勢力の減衰過程が描かれる格好です。 壷関攻めに派遣された楽進と李典。自信たっぷりな言動をみせる楽進に疑問を抱く李典ですが、 楽進も、伊達に大口をたたくわけではありません。数多くの戦いに参加し、戦場という場を知悉 しているがゆえの強気です。 実際、いざ戦いになると、奇策等はありませんが、的確に相手の出方をみてとって然るべき対応 をとります。李典にとっては、何となくうまが合わない(理解できない)のですが、しかし、以 降も長くコンビ(あるいは張遼とのトリオ)を組むのですから、不思議なものです。 さて、壷関は関と城から成っている(そういえば、ゲームでもそんな感じだった様な…)のです が、上記の戦いによって、高幹は城に押し込められる格好になりました。こうなると、身を守る 城が却って枷になります。 袁氏は地を重んじたが、それゆえ地によって死ぬ(思考が退嬰的になるという含みがあります) ことになる。曹操の認識は確かです。 逆に、それゆえ、一切のものに―地のみならず妻子・部下にも―とらわれない劉備が不気味に感 じられる、と。 高幹も最後の抵抗を試みますが、既に孤立無援に陥っており(匈奴単于に協力を求めるのですが 高幹についたところで得るものはなし。それでは利に聡い彼らを動かせるはずもありません)、 結局、脱出を試みたところで殲滅されました。袁譚の最期とよく似ています。 荒廃した并州をどう治めるか。ここで梁習の名が挙がります。高幹の秕政による荒廃であるだけ に、優れた行政官が何より必要だったのです。 既に、(同僚の王思の提出した建白書の件で)その気骨を認められていた梁習は、これまでの任 地と同様、目覚しい成果をあげてみせました。 こうして、并州の平定も完了。徐州・青州の海賊も退治し(ここも楽進・李典コンビが活躍)、 さて次は…?
178:左平(仮名) 2006/08/25(金) 20:50 [sage] 1 : 左平(仮名) 投稿日:2006/07/12(水) 23:19 今回のタイトルは「田疇」。前回のラストをうけての烏丸攻めです。 袁氏の息の根を止めるべく烏丸を攻めようとする曹操。しかし、荊州にいる劉備が気にかかります。 夏侯惇・于禁(+李典)を派遣したものの撃退されていますから、劉表ともども本腰を入れて攻め かかられてはやっかい、というのは確かにありました。 夏侯惇・于禁がともに奇策を弄しない将というのは分かるのですが、彼らと戦う劉備が、「彼我の 力量をはかり堅実な戦い方をする」というのが何とも不思議な感じです。 しかし、ここで郭嘉が進言。一応官職には就いてますが実務には関与しない、いわば遊軍的な立場に いるだけに、幅広い視野でみることができたわけです。 かくして、烏丸攻めに出立。しかし、幽州で夏の長雨に遭います。 後の司馬懿による遼東攻めの時も長雨に遭ってますね。当時の気候には余り詳しくありませんが、 この長雨、程度の差はともかく、特定の年に限った話ではないみたいです。中原からするとこの あたりは多雨地帯みたいです。 ここで曹操の頭にある人物の名が浮かびます。それが田疇(字は子泰)。以前、劉虞が都に出した 使者として名が挙がっていましたが、その後のことが語られます。彼の進言により、一気に烏丸の 拠点を突き、時の実力者・蹋頓を倒しました。 何と、ここで張遼の名が挙がってません!正確な理由は分かりませんが、この時期に攻めかかった 時点で勝利が約束されていたということで田疇の功績を高く評価した、ということのようです。 頼みにしていた烏丸が破られたことで、公孫氏のもとに逃れた果てに、袁氏の命運はここで尽きる こととなりました。 かくして、曹操は北の脅威を完全に片付けました。そうなると、次は…というところ。 劉備の進言を容れなかったことを劉表は悔やみますが、当の劉備本人は以外にあっさりとした態度。 以前、劉備を指して、道教的…という評価がなされていましたが、今回は、まるで高僧のよう、 というたとえ方がされていました。徹底的に物事を捨てていくという姿勢がみられると。そして、 それから考えると、世に言う「髀肉之嘆」はどうなのかと、という疑念も。 ただ、さすがに何らかの心境の変化があったのか、劉備はついに名士と言われる人に会うようになり ます。ここで出てくる伏龍・鳳雛。そろそろ、三顧の礼がみられそうです。
179:左平(仮名) 2006/08/25(金) 20:50 [sage] 5 : 左平(仮名) 投稿日:2006/08/12(土) 21:41 回のタイトルは「三顧」。前回のラストで近いうちに、という感はありましたが、さっそくきました。 ただ、最初に語られるのは、孔明と並び称された士元の方。名士(隠士と言ってもいいんですかね)の司馬 徽に認められたことで世に名が現れます。 司馬徽の姿勢がまた興味深いものがあります。褒める人はことごとく激賞するのです。大いに褒めて世に名 を現すことで、事を成す助けになればいい。褒めて育てるという教育方法の実践者、というところでしょう かね。 叔父・諸葛玄と共に荊州に来た孔明は、ここで、孟建(公威)・石韜(広元)・崔州平、そして徐庶と知り 合います。 石韜曰く、「あいつ(孔明)は斉人だから」。石韜・徐庶は潁川の人。潁川は、というと、戦国時代の韓。 韓と斉とでは、法に対する考え方が真逆というほど異なる(韓で法というと韓非子が浮かびますが、ここで 念頭にあるのは術の人・申不害。つまり、君主の立場からみている)そうで、これもあってか、元侠客とも いうべき側面のある徐庶はともかく、孟建・石韜とはやや距離があったようです。 そういえば、孔明が自らをなぞらえたのは管仲・楽毅ですが、二人とも斉と縁のある人ですね。 徐庶の紹介により劉備は孔明のもとを訪ねますが、当初、孔明は劉備に対し、不快感さえ持っていたとさえ いいます(妻子にも配下にも酷薄・信義も何もない・結局のところ何も為していない…なるほど美質という べきものがありません)。 しかし、門前払いしたにも関わらず、劉備はまたやって来ます。孔子が陽虎に仕官を求められた時のエピソ ードにならった断りの文句を徐庶を通じて伝えてもなお、劉備は怒りの色もみせず、再度来るのです。 ここで、孔明は大いに悩みます。郷里の徐州を荒らした曹操にはつきたくない、孫権はどうも癖がある(既 に兄が仕官しているのでその後塵を拝することになるのも…)、そして、劉表は老い、曹操の勢力は急激に 拡大しており、もはやのんびりと世代交代を待っている暇はない…。 そして、ついに決断を下すときがきました。 二人の出会いは互いに感動をもたらすものとなりました。ここでの劉備は、演義における大徳の人でもなけ れば、蒼天航路における侠気の人でもありません。何というか、仏教でいう「空」の人です。 その空の人に実を植え付けたのが孔明でした。 一方、曹操はというと、玄武池を作り水軍の訓練に入っていました。南方の制圧に取り掛かろうとしていた のです。曹操vs孔明という図式ができつつあるようです。
180:左平(仮名) 2006/09/12(火) 20:45 [sage] 今回のタイトルは「甘寧」。最近、人名のタイトルが続いてますね。 南征を図る曹操。荊州をまず併呑し、そこから孫呉を…と考える彼としては孫呉の台頭が遅い方が望ましい。 そのため、江夏を守る黄祖の奮闘に期待するところだったのですが…その願望は、あっさりと砕かれました。 その鍵を握る存在だったのが、この甘寧。 巴郡の出である甘寧は、任侠を気取り、放恣な日々を過ごします。侠気に叶うとみれば罪人を匿い私刑を行う こともしばしば。豪奢を好み…とくると、なるほど、劉備に似ているところがあります。 ※年齢的には、劉備とはそんなに離れていないように思えます。彼がなぜ群雄の一人に名乗りをあげなかった のか…という考察もできそうですね。 そんな生活を二十年程も続けた後、突然書物を読むようになり、荊州に向かいます。さんざん好き勝手に生き てきた末に、ふと倫理道徳に思いを馳せたか、何かしら老いを感じたのか。ともあれ、いったんは劉表に仕え ようとしたものの、儒教道徳に則った君子である劉表は彼を使う術を持たず。となれば、まだ内部が固まって いない孫権か、と見極めますが、黄祖に止められます(そりゃ、数百人ものド派手な一行が通れば目立ちます わね)。 ここで暫くの間くすぶりますが、孫権の江夏攻めの際、なりゆき上、黄祖を守って後拒をつとめたことで孫呉 に名が知られます。蘇飛のはからいで孫呉にわたった甘寧は、直ちにその力量を認められ、黄祖攻めに加わり みごと大功を挙げます。 ※黄祖のキャラがなんとも微妙なところですね。「勇将」「荊州で最高(の武将)」「運だけは強い」。どれ が本当?まぁ、最後は、「事実上の総司令官は蘇飛」なんですけど。 陳舜臣氏の諸葛孔明での黄祖が一番まっとうではあったように思います(孫堅を倒した部下の首を差し出せ ば孫呉もおとなしくなるのでは、という劉表に対し、自分が責を負う、ってなあたり)が…結構、書きよう がありそうです。 前に、どこかで「黄祖は半独立勢力では?ってな」話も聞きましたが… 後半は、諸葛亮が登場。黄祖亡き後の江夏太守の任についたのは…劉表の嫡子・劉K。その経緯が語られます。 親異常に乱世には不向きな人として描かれてますね。
181:左平(仮名) 2006/09/18(月) 00:14 三国志の第四巻が発売されました。早速購入、読了。 しかし、ここらの密度は濃いですな。一巻で四年程度しか経過しておりません。
182:左平(仮名) 2006/10/04(水) 22:28 三国志の第五巻が出ましたので、先週、購入しました(第五巻の時に第四巻と 共に広告載せるのなら、一緒に出しても良さそうな気もしますが…)。 土曜に買ったので、即日読了したのですが…あれ?「張繍」の回、典韋の最期 が詳しく描かれてる…。
183:關龍白 2006/10/10(火) 15:43 「張繍」の回は全部で33ページもありますね。 他は28,9なので追加したんじゃないでしょうか?
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