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228:左平(仮名) 2009/02/22(日) 17:43:48 ID:qOqvofCv0 続き。 さて…場面変わって、永安。一応戦いは済んだのですから、皇帝たる劉備は首都・成都に帰るべきところですが、そう しないまま、病に臥します。 復讐戦も成らず、もはや、すみやかに冥府に行くことのみを願うという有様。ですが、皇帝として、せねばならぬことが あります。後事をいかにするか、ということです。 諸葛亮が呼ばれ、後事が託されます。「君の才は曹丕に十倍す…」。禅譲を匂わせる発言がありますが、諸葛亮は、後嗣・ 劉禅を全力で支えることを誓うのでした。 …この場面をいかにみるか。本作では、「劉備は、かつて自分が陶謙からされたように、諸葛亮に国を譲るべきだったの ではないか(それでこそ、捨て続けてきた劉備の生涯の最後にふさわしい)」という指摘があるわけですが、一方で、漢の 正統(※ただし、漢≠後漢であることに注意)が蜀漢にあり、とするためには、皇帝は劉氏でなければならないわけで…。 恐らく、劉備は病で気が弱くなり迷いがあったために、また、諸葛亮は、上記の正統性なくして国が保てないと考えたが故 に、かくの如き結果となったのか、と個人的には思うのですが…。 ともかく、高祖・劉邦を模倣してきたといえる劉備は、ここに世を去ります。
229:左平(仮名) 2009/03/22(日) 00:57:07 ID:+yelLx660 三国志(2009年03月) 今回のタイトルは「使者」。主に蜀漢と呉の修交の経緯が描かれます。 劉備が崩じ、嫡子の劉禅が跡を継ぎました。しかし、当年十七の、かつ、実績のない幼弱の新帝を戴く弱小国、となると、 その前途には厳しいものがあります。 さらに、丞相として全権を握ることとなった諸葛亮もまた、(その実績の割には)さほど知られておらず、威に欠けるの では、と見られています(魏の重臣達から臣従勧告の書状が送られたのもこの頃。劉備の死に動揺している今なら、あわ よくば…というつもりだったのでしょう)。 並の人物であれば浮足立つところでしょうが、諸葛亮はいっこうに動じません。魏からの書状を黙殺することで、蜀漢の 正統性(蜀漢こそ漢の正統を継ぐ王朝である【厳密には漢≠後漢ですが】)を主張したのです。 それが劉備の本意であったかは、今となっては分かりませんが…少なくとも、この時点で蜀漢が生き残るには、これしか なかったと思われます。ニュアンスに多少の相違はあるでしょうが、『攻撃こそ最大の防御』ってなところですね(とは いえ、呉との戦いによる国力の消耗は大きく、しばしの雌伏を余儀なくされるのですが)。 ただ、このままでは、蜀漢は魏・呉の双方を敵に回すことになりかねません。ただでさえ国力にハンデがあるのに二正面 作戦をとるのは愚の骨頂。 となると、呉との関係の修復が必要なわけです。その大役を仰せつかったのは…ケ芝でした。 荊州出身のケ芝は、乱世を避けて益州へ避難したわけですが、ここで「位は大将軍に至る」ってな占いを受けます。自分は 単に乱世を避けているだけなのに…ということで、この占いは特に信じなかったようですが、これが概ね当たったわけです から、面白いものですね。 呉に至ったケ芝は、呉王となった孫権に同盟による両国の利害を説き、その信頼を勝ち取ることに成功します。演義では、 宮中に大釜を引っ張り出して(釜茹でにしかねない…と脅すことで)ケ芝の度胸を試す…ってな場面もありましたが、その ような大仰な演出は不要でした。 何より、孫権自身、自国に迫る魏の脅威を痛切に感じているだけに、三国鼎立による力の均衡の重要性を深く認識していた のです。 しかし、外交においてこれほどのバランス感覚を有する孫権が、戦場では凡庸な将と化すのも不思議なものです(『子産』 での子罕が似たような感じですね)。 長くなるので続きます。
230:左平(仮名) 2009/03/22(日) 00:59:15 ID:+yelLx660 続き。 さて、ケ芝には、もう一つの使命がありました。張裔なる人物を探し出し、帰国させることです。 ケ芝の知る限りでは、彼は「益州南部で叛乱を起こした雍闓に捕らえられ、呉に送られた」冴えない人物に過ぎません。 また、孫権の認識も、似たようなものでした(実際、軍事的手腕については実績らしいものはありませんしね)。 彼の帰国は特に支障なく行われると思われたのですが…帰国前の会見で、その才幹の一端が漏れました。そのために、 ケ芝達は危うい思いをすることになり、孫権は、人材を見抜くことの難しさを思い知らされることになります。 ただ、いかに張裔の才幹を惜しんだとはいえ、君主たる者がひとたび交わした約束を反故にするというのはいかがなもの かと…。諌める人はいなかったのでしょうか。 ともあれ無事に帰国した張裔は、以降、諸葛亮の信奉者となります。諸葛亮自身は徒党を組む人ではなかったでしょうが、 協力者がいる方が何かとやりやすいのは確か。その意味では、この修交は、蜀漢にとっては実に有意義なものになりました。 さて、一方の魏では、呉の不誠実に対して曹丕が怒りを募らせ、ついにその討伐を命じます。群臣達の諫言も空しく、また しても呉との戦いが始まろうとしています。 この頃、郭氏が皇后となっていました。父に深く愛された彼女は、先の皇后の甄氏とは異なり、夫のパートナーたりうる 明朗な女性でした(曹丕のもとに来た時点で三十。となると、美貌だけの女性ではないのは言うまでもないですね)。 曹丕の、二人との出会いがもしも逆であったなら、どうだったのでしょうか…。
231:左平(仮名) 2009/04/25(土) 02:53:37 ID:FJO82zTv0 三国志(2009年04月) 今回のタイトルは「南中」。諸葛亮が動き始めます。が…その前に、曹丕の、再度の親征です。 人からすれば思いつきのようでも、曹丕としては、それなりに考えての親征。しかし、君臣の心が一致しているとは 言えない現状では、どれだけの意味があるのか(表立って反対意見を述べたのは劉曄くらいですが…)。 こちらが、皇帝自ら大軍を率いて出てきたのだ。当然、呉も国を挙げて応戦するに違いない。曹丕は(群臣の殆ども) そう考えたわけですが、劉曄が予見したとおり、そうはならず、肩透かしを食った格好です。 孫権にはまことの礼が無い。ひどい言われようですが、ここまでの外交姿勢をみると、一面の事実ではあります。 敵の総大将が出てこないし、皇帝自身も、前線からは離れている。となると、魏軍の戦意はいま一つ。徐盛の偽城壁 などもありつつ、戦いは膠着状態に入ります。 自身は出ない。とはいえ、魏の大軍(そしてその背後にある国力等の要素)を目の当たりにすると、厚顔な孫権も さすがに不安になったのか、占術の達人・趙達を呼び、話を聞きます。 趙達は、曹丕が既に去ったことを伝えますが、一方で、庚子の年に呉は衰える、と気になる予言をします。それは、 この時点から五十八年後(実際には、この時から五十六年後なので、これより二年前の記録と混同された?)。 さすがに孫権自身は生きてはいないでしょうが、呉にとっては暗い予言です。趙達の予言の確かさをみると、これも 当たるでしょう。孫権は、あえて遠い未来は無視することにしました。「今のことで精いっぱい」というわけです。 さて、成果なく帰還した曹丕の耳に、悪い噂が入ります。親友でもあり、この当時、荊州を任せていた夏侯尚が、妾を 寵愛し正室(曹氏)を軽んじているというのです。 かつて杜襲に「(曹丕の)益友にあらず」と諌められたとはいえ、文武兼備の名将ということもあり狎れ親しんでいた 人物の醜聞。曹丕にとって衝撃ではあったでしょうが…いきなり部下を遣って妾を殺させるというのもあまりな話です。 最愛の女性を喪った夏侯尚の悲嘆は激しく、後を追うように亡くなりました。 長くなるので続きます。
232:左平(仮名) 2009/04/25(土) 02:55:25 ID:FJO82zTv0 続き。 瀕死の夏侯尚を見舞った後、曹丕は、「それだけの男であったのか」と呟きます。不思議と、ここの書かれ方は淡々と していますが、それだけに、人情というものを解さない曹丕の寒々とした感覚が感じられます。 …どうして、曹丕には、こうも眉をひそめたくなるような話しかないのか。これでどうして『文』帝なのか。建国から まだ数年。清々しいはずのこの時期において、早くも不快感があります。王朝は、しばしば、初代の帝王の性格に影響 されるものですが、魏の早い衰亡は、既に予定されているのか…。 一方、今回のタイトルの「南中」ですが…。魏vs呉の図式が確定したことで、ようやく、諸葛亮自身が動ける状況が 整いました。 蜀漢にとって、劉備が臥してからの南方での叛乱は、いわば内戦。いずれはけりをつけねばならない問題です。ただし 内戦ということは、叛乱者達を鏖殺するというわけにもいかないわけです。 (軍を動かさねば鎮圧はできませんが、今回は、政治的な対応が求められる性質のもの) 李恢の活躍もあり、朱褒らの叛乱は、無事、鎮圧されました。 え?何人か忘れてないか、って? えっとですね…。孟獲は出てきました。「漢人にも人望がある」「さほど体躯は大きくないが精悍な顔つきをしている」 という感じで(彼こそが、こたびの事態の収拾の鍵を握る人物、といった感じの扱われ方です)。 ただ、張巍は出ず。李恢の活躍ぶりが目立っていました。
233:左平(仮名) 2009/05/24(日) 01:23:54 ID:85J6nSxv0 三国志(2009年05月) 今回のタイトルは「曹丕」。本作において個人名をタイトルにする場合、初登場か何らかの見せ場が、というところなの ですが、「曹操」「劉備」と続くと、なんというか…。 今回は、まず、鮑について描かれます。前にもあったように、曹丕の不興を買い、しばし遠ざけられていた鮑ですが、 「(宮中の綱紀粛正ができるのは)かの者しかおりません」ってな具合に群臣から推挙されますと、曹丕としても、登用 しないわけにもいきません。 実際、これで宮中が締まったわけですが、裏を返せば、王朝の創業から数年(この時点では西暦225年)で早くも緩み が生じていたともいえるわけです。 曹丕は再度呉と戦おうとします。鮑達は懸命に諫めますが、聞く耳を持たず、またしても出兵します。しかし、行軍の 鈍さをみると、彼自身、どこまで戦おうとしていたのかよく分かりません。戦略的意義のない戦いをすることに何の意味 があったのか。 そんな中、些細な事件がありました。これが、後で尾を引くことになります。 洛陽に戻った曹丕の耳に、一つの讒言が入りました。先の些細な事件がもとで鮑を憎むようになった者からのものです。 直ちに罪に問いますが、(当然ながら)廷尉達の答えは微罪(罰金等)。これに不満を持った曹丕は、おのが本意を示し 鮑を処刑させます。 しかし…。曹丕ならば「春秋」は知悉しているはず。その中の叔向の逸話を思い起こせば、社稷の柱石たる鮑(曹操の 覇業の影に鮑の父・鮑信の支援あり)は、たとえ死に値する罪ありとしても許すべき存在であるはずです。ましてや、 その罪状があやふやなものであるならばなおのこと。 おのが恣意を通した曹丕。しかし、群臣達を失望させたであろう、このような行いをしたとなれば、いわゆる春秋の筆法 では…。 長くなるので続きます。
234:左平(仮名) 2009/05/24(日) 01:25:16 ID:85J6nSxv0 続き。 その事態は、極めて急に起こりました。鮑の処刑からほどなく、曹丕が崩じたのです。 病に臥してから一月足らず。当年齢四十の壮年で、武芸にも長け、持病もない彼の急逝は、当然ながら、波紋を投げかけ ました(春秋の筆法で言えば、鮑を殺した報い、ということでしょうか)。 幸い、まだ意識がはっきりしている間に立太子は為されましたので、この点は良かったのですが、太子に曹叡が選ばれた ことには、群臣達に多少の驚きがありました。先の、とつくとはいえ、皇后との間に生まれた嫡長子。なんの問題もなさ そうですが、実母の死に方(死を賜った)は、尾を引いていたようです。 まあ、太子の過去はともかくとしても、一度は地方王になり、中央からは離れたものと思われただけに、その賢愚は未だ 定かならず。 ひとり新皇帝に呼び出された劉曄は、まる一日語り合い、その力量を概ね把握しました(一方で、曹叡もまた、群臣の中 で最も優れていると判断した劉曄を通じて、群臣達の賢愚や時勢を把握したものと思われます)。 秦始皇・後漢光武に近いがわずかに及ばない。劉曄の見立ては、そのようなものでした。 呉との小競り合いに対しての対応をみると、少なくとも、皇帝としては曹丕より上と思わせるに足るスタートを切ります。 さて、魏・蜀漢とも代替わりをした一方、呉は、引き続き孫権です。 自分とは親子ほども年の離れた魏の新帝。しかも、その器量をみるに、魏に揺るぎはありません。また、(魏に備える為 ではありますが)蜀漢と同盟関係になっていますので、攻めるわけにもいきません。 直ちに呉に危難が及ぶわけではない。しかし国威発揚の機も期待できない。そんな中、呉艦隊期待の大型艦の進水という イベントがありました。そう、谷利の見せ場です。 大型艦の進水にはしゃいだか、停滞する現状に苛立つあまりの気晴らしか。一国の主としては軽率な言動を見せた孫権に 対し、厳しく、しかし真摯に諌めた谷利。それをしかと受け止めた孫権。 もう一人の皇帝が現れるのは、そう遠い日のことではありません。
235:左平(仮名) 2009/06/21(日) 01:20:53 ID:VtX07A/g0 三国志(2009年06月) 今回のタイトルは「孟達」。この名がまた出てきたということは…。諸葛亮がついに動き始めます。 「これを読んで感涙せざる者は人にあらず」。千古の名文として知られる「出師表」。「危急存亡の秋」という言葉は、 この時点の蜀漢にはややそぐわないところがある(南征に成功したことで国力はまずまず充実している)ものの、その 未来図が決して明るくないことを思うと、あながち過剰な表現というわけでもありません。 かつて、蜀の地において皇帝を名乗り強盛を誇った公孫述は、時勢に乗り損ねて光武帝に敗れ、滅びました。覆車の轍 を踏まない為にも、漢の再興という政権の正統性を維持する為にも、ここで戦う必要があると考えたわけです。 ただ、ことがことだけに、失敗は許されません。そこで諸葛亮は、ある人物に目を付けました。孟達です。 曹丕にいたく気に入られ、要地・上庸を任された孟達ですが、彼にとって、魏は居心地がよい所とは言えませんでした。 裏切り者の常とはいえ、魏の人々からは冷たい目で見られていることを、痛いくらいに感じていたためです。 「武皇帝(曹操)は…」。 かつて曹操は、降った敵将を重く用いました。もとは呂布の配下であった張遼などは、天下に名を轟かせる名将にまで なりました。魏の人々にとって、張遼は、「旧主を見限った元敵将」ではなく「魏の誇るべき名将」なのです。 しかし…。曹操の生きた非凡な時は既に去り、人々は平凡な道義を振りかざします。そんな中では、孟達のような人物 の居場所はないのです。 ただ…。曹操の創業の時は終わったのですが、今、帝位にある曹叡もまた、凡庸な人物ではありません。司馬懿を宛 に配置したのは、呉・蜀漢の双方に目を光らせるための措置。中央から遠ざけるというのとは違うのです。そのこと を孟達が気付いていたら、どうだったでしょうか。 孟達を寝返らせる。諸葛亮からその案を聞かされた費詩は、孟達を「小人に過ぎない」と断じました。彼が魏に奔った 経緯を考えるとやや酷な物言いのようですが…結局、それが…。 長くなるので続きます。
236:左平(仮名) 2009/06/21(日) 01:22:24 ID:VtX07A/g0 続き。 諸葛亮と孟達との書簡のやりとりは続きますが、孟達はなかなか動きません。互いに「相手が動いたら連動する」という 発想に陥っていたためです。それに異を唱えたのは、魏延でした。 ここでの魏延はただの武人ではありません。「もし孟達が先に動いたなら、魏との戦いを始めるという栄誉は孟達のもの となり、我らの大義は損なわれる。丞相は失敗しないよう慎重になる余りに、この戦いの原点をお忘れではないか」。 このようなことをずばり指摘してみせたのです。 先帝・劉備に見出され、蜀漢の柱石たる張飛をおいて要地・漢中を任された名将・魏延。諸葛亮も、彼を軽くみることは しませんでしたが、武将を用いる力は、劉備には及びませんでした(一方で、蒋琬のエピソードをみると、文官を用いる 力は諸葛亮の方がまさっているのですから不思議なものです)。 このままずるずると年を越しては、自身の威令が利かなくなり、来るべき戦いにおいて支障をきたす恐れがある。魏延の 指摘を聞いた諸葛亮は、ついに決断を下します。 信頼する配下・郭模をあえて魏に奔らせ、孟達が動かざるを得なくなるよう仕向けたのです。郭模(および家族の)身の 安全は保障されるでしょうが、蜀漢のために蜀漢を裏切るという辛い任務です。 この苦肉の策は効きました。もともと孟達を嫌っていた申儀が、これにより、孟達謀反の確かな証言を得たからです。孟 達に対し、朝廷から召喚命令が出ますが…もちろん行くはずもなく。 しかし、その割には孟達の動きは鈍いままです。それもそのはず。彼が戦うであろう司馬懿のいる宛は遠く、また、洛陽 との使者のやり取りを考えると、準備期間は十分あると考えられたからです。 司馬懿もそのことは承知しているので、孟達の動きを鈍らせるよう策を施します。 西暦227年冬。魏・蜀漢の戦いは、水面下では、既に始まっています。
237:左平(仮名) 2009/07/25(土) 02:14:54 ID:wQjkGeU20 三国志(2009年07月) 今回のタイトルは「箕谷」。いよいよ、魏vs蜀漢の戦いが始まるわけですが…。 孟達がぐずぐずしているところへ、司馬懿が急襲を仕掛けます。まさに「神速」。完全に虚を突かれた形になったため、 兵の士気の差も歴然たるものがありました。 それでも十日余り持ちこたえたあたり、孟達の将器もそこそこはあったとは言えるのでしょうが…諸葛亮からの援軍も しっかり防がれると、最早、打つ手はありません。 併せて、(魏から見て最前線で監視の目も緩くなりがちなことから)勝手気ままに振る舞っていた申儀も逮捕。魏の西南 方面がしっかりと平定された格好に。 諸葛亮からすると、思いっきり出ばなをくじかれた形になります。とはいえ、「攻撃は最大の防御」ともいうように、蜀 漢が生き延びるには、魏と戦うしかありません。 しかし、国力差はいかんともし難いものがありますし、何より、曹叡と司馬懿(ら群臣)との連携がしっかりとしている 以上、うかつなことはできません。 こうしてみると、蜀漢・呉にとっては、もう少し曹丕に生きていてもらった方が良かったのか?ってな感じですね。 何度も戦場に立ったことがあり、武芸にも秀でていた曹丕より、実戦経験の殆ど無い曹叡の方が軍事的手腕に優れる というのも、不思議なものです。 必然的に、諸葛亮達が考える進攻ルートは、慎重なものになります。諸将も概ね賛同しますが、ひとり異見を持つ人物が いました。そう、魏延です。 漢中太守、ということは、魏との戦いの最前線にいるということ。前線の事情に明るい彼には、この戦いを有利に進める 成算がありました。長安急襲です。 長安は魏でも有数の要地でありますが、守る夏候楙には軍略の才乏しく、ひとたび攻めかかれば脆いもの。兵糧の備蓄も ありますから、補給の心配もありません。 しかし、敵中に孤立し、殲滅される危険性がある以上、諸葛亮としては、受け入れられない提案でした。 長くなるので続きます。
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