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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
242:左平(仮名) 2009/09/26(土) 03:05:46 ID:sq1CW+Zq0 続き。 ここで白羽の矢が立ったのは、前線にいない鄱陽太守・周魴です(前線の太守が策をめぐらしても警戒されて いるため難しい、との判断)。山越等の賊との戦いの経験もあり、なかなか優秀な人物ではありますが、これ はいかに言っても困難な使命です。 何度も策を練っては却下され、ついには問責の使者が来て、剃髪して詫びるということも(演義では、曹休を 欺くための策の一環でしたが、ここでは、本当に策が思いつかないが故の剃髪)。上司の無茶な命令にこたえ られずに謝罪を強いられる部下…。何か、身につまされます。 ようやく策ができ、孫権の了承が得られました。ここからが、大戦の始まりです。 周魴の内通という機密情報。曹休は、この情報を己の内にしまい込みます。曹叡に報告すると…と思ったので しょうか。 数に劣る呉軍としては、賈逵の援軍が来る前に曹休の軍を殲滅したいところ。ここは、陸遜や朱桓といった、 呉の最精鋭が当たります。 周魴の内通が偽りであったと悟った曹休は激怒しますが、十万という大軍を率いていることもあり、総攻撃を 掛けます。 軍勢を分断されて苦戦を強いられますが、戦意は高く、劣勢とはいえ軍としての形は崩さないあたり、慎重さ に欠けるなどと言われはしても、ひとかどの将帥であることは確かです。 とはいえ、敵の術中にはまり敗れたのには違いありません。曹休は、撤退を余儀なくされます。 援軍に向かう途中でこのことを知った賈逵。さて、どうするか。
243:左平(仮名) 2009/10/25(日) 22:42:15 ID:5TLCoJWz0 三国志(2009年10月) 今回のタイトルは「陳倉」。曹操等には及ばぬまでも、諸葛亮の軍事手腕に一定の成長が見られます。 まずは前回の続きから。曹休の敗退を知った賈逵は、彼が向かうであろう夾石に軍を進めることにします。そこ には、撤退する曹休を待ち構える呉軍がいましたが、賈逵はこれを難なく蹴散らし、無事、曹休と合流すること ができました。 全体的には魏の敗戦とはいえ、主だった将帥の戦死もなく済んだのは、ひとえに賈逵の功です。しかし… なぜか、賈逵は曹休には嫌われていました。ともに戦場においては勇将でしたが、二人の勇気の質が違っていた ため、とのことですが…自分の窮地を救ってくれた賈逵に当たり散らすあたり、第三者からみると、どちらの勇 気が優っているか、は言うまでもないような…。 その後、ともに経過報告を奏上しますが、曹休のそれには、敗戦の責を賈逵に押しつけようとするところがあり ました。 どちらが正しいかは分かっている曹叡でしたが、皇帝である彼も、帝室の一員たる曹休には強く出られないため、 この件はうやむやのうちに終わります。 曹休はかくも大事にされていたわけですが、彼のプライドは深く傷つき、憤りの余り、間もなく没します。 初めての敗北が、結果として彼を死に追いやったわけです。敗北から学べなかった武将の悲劇、でしょうか。 …曹操が薨じてから十年足らず。しかし、彼とともに戦ってきた曹氏の多くが既に没し、世代交代しています (曹洪はまだ生きているはずですが、曹丕の時代に一度失脚したためか触れられていません)。 そのため、曹真が一族をとりまとめる立場に立ちます。…ん?この流れは…? 長くなるので続きます。
244:左平(仮名) 2009/10/25(日) 22:45:04 ID:5TLCoJWz0 続き。 一方、勝利した呉ですが、こたびの戦の功労者である陸遜・周魴は篤く賞されます。それはよいのですが…ここに 呉の限界があります(後世の、人気がない原因でもあるような)。 詐術を弄して勝つということは、「敵には何をしてもよい」と考えているわけです。それは、一見正しいようですが、 そこには、人を引き付けるものがありません。人々を引き付けないことには最後の勝利は得られません。 「信なくば立たず」と言います。呉は、君主たる孫権からして、その信が欠けている。それがもたらすものは…。 …ともあれ、赤壁の鮮烈な勝利が、周瑜のみならず、呉という国そのものをも束縛してしまった、という皮肉な見 方もできるわけです。 さて、(遠い東方のこととはいえ)魏が敗れたということは、蜀漢にとっては好機であるわけですから、これ幸い とばかりに、諸葛亮は兵を進めます。 しかし、彼の進攻ルートは、既に曹真らによって予測されており、戦場は、郝昭が守る陳倉になります。この時点 で蜀漢の苦戦は決まっていました。 小さい城とはいえ、先の游楚の勇戦を考えると、条件は格段に良い(籠城の準備も整っており、何より、早い段階 での援軍が期待できる)わけですから、郝昭達の士気は高く、諸葛亮が大軍を持って攻めかかったにもかかわらず 戦果を挙げられぬままに撤退を余儀なくされます(ここでの王双の追撃が魏には蛇足になります。というのは、王 双を討ち取ることで、蜀漢は劣勢を糊塗できたわけですから)。 まだ続きます。
245:左平(仮名) 2009/10/25(日) 22:47:11 ID:5TLCoJWz0 続き。 文章量からすると、やや少なく感じるくらいの陳倉の戦いですが、その中身はなかなか濃いものがあります。攻城 兵器(雲梯、衝車等)の投入、二重城壁、地下道での攻防…。 ただ、郝昭の勇戦は確かですが、ここでは、戦場における諸葛亮の鈍さが強調されているように見えます。 一度ならず二度までも戦果なく撤退した諸葛亮。しかし、「応変の才に欠ける」と評されたとはいえ、彼は愚物では ありません。ついに、あることに思い至ったのです。そう、范雎の遠交近攻の応用―領土の面的確保―です。 魏の予想を裏切る速さで再び兵を起こすと、武将・陳式をして陰平・武都を攻めさせ、これの確保(及び保持)に 成功したのです。 …しかし、「水軍を預かったことがある」「山岳戦もまずくない」くらいにしか書かれていませんが、これだけの戦果 を挙げた陳式、なかなかの将ですね。蒼天で、徐晃相手に堂々としていたあの雄姿も伊達ではないといったところ でしょうか。 しかし、本作での諸葛亮はなかなか扱いづらい存在ですね。私心ない忠臣であり、かつ卓越した行政手腕の持ち主 である一方で、将帥としては意外性に欠け鈍重、皇帝でさえ止められない独裁者でもあるわけですから。 さて、ラスト、ついに孫権が皇帝を称したわけですが…魏・蜀漢両国の反応やいかに。
246:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:52:23 ID:A/4303W/0 三国志(2009年11月) 今回のタイトルは「三帝」。名実ともに、三国の時代となります。 まずは、孫権の皇帝即位を知った蜀漢の反応及び対応が語られます。漢の正統を自任する蜀漢としては、孫権の 皇帝即位は到底是認できないものではあるのですが…ここは、丞相・諸葛亮の現実的判断に従うこととなります。 まずは、中原をおさえている魏との戦いを優先する、ということです。帝位を僭称した孫権の非を糾弾するの は、その後で、と。 しかし、もし、蜀漢が孫権の皇帝即位を非難し同盟を破棄したなら、孫権はすばやく帝位を降りて魏に詫びを 入れ、共同して蜀漢を攻めることもありうる、と(諸葛亮が憂慮した、と)いうのは、これまでの孫権の言動 をみるとありそうなのが何とも。孫権、信用されてませんね。 祝賀の使者として衛尉の陳震が派遣されます。このことは蜀漢の反応を気にしていた孫権を大いに喜ばせました。 諸葛亮の外交には裏がない。それは、一見すると非常に稚拙なようではありますが、実は、最も強固なものでも あります(ある意味で、敵にも味方にも信用されているわけですからね。信用は大事です)。 名の通り、権謀術数の限りを尽くしてしたたかに生き抜いてきた孫権には、この逆説が分かります。彼が諸葛亮 を絶賛したのも、こういうところを認めたからですね。 それにしても、諸葛亮の軍事的手腕については総じて辛口に書かれていますが、内政及び外交手腕については 絶賛といっていい書かれ方です。 「諸葛亮は信と誠の人である。それがすべてといっていい」。 政治には巧みだが軍事には疎い。『子産』の子罕などがそうですが、完全な人はなかなかいないものです。 長くなるので続きます。
247:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:53:41 ID:A/4303W/0 続き。 この祝賀の席で、(かつて対立した)周瑜を賞賛しようとした張昭にちくりと皮肉を言ったり、それに衝撃を 受けた張昭が引退を願い出ると引き留めたりと、孫権、家臣に対しても容易に腹の内を見せません。 諸葛亮と孫権。ともに優秀な為政者には違いないのですが、この差は何なのか。 孫権の皇帝即位の前年に、呂範が他界します。孫権は、彼を雲台二十八将の一人・呉漢(序列第二位)に例 えます。この際、既に亡くなっている魯粛をケ禹(同一位)に例えていることから、死してなお、魯粛への 評価が高いことが分かります。天下平定の計略を示したのは彼一人。その死をもって、孫権の、天下平定の 計略は潰えたということでしょうか。それ以降の、孫権の魏への対応を考えると、そんなふうに思えます。 さて、魏は無反応だったわけですが…宮城谷氏曰く、この時代は四国時代と言えなくもない、ということで、第 四の勢力―遼東の公孫氏―のことが語られます。 (実は、単行本第八巻の付録にもこのあたりのことが書かれています) 西暦229年時点での公孫氏の主は、公孫淵(字は文懿、というのが知られるようになったのは、ここ数年の皆 様の丹念な文献チェックの賜物ですね)。 初代の公孫度の孫で、四代目にあたります(公孫度―康―恭(康の弟)―淵(康の子))。 魏に服属している形なので名目上は侯に過ぎませんが、領内では王、いえ、内心では帝の如く振る舞っています。 そんな彼に、孫権は使者は派遣したわけですが…帝気取りの公孫淵に向かって「なんじを燕王とする」と言った ところで何のありがたみもないわけで…。さすがの孫権も、遠い遼東のことまでは、十分に把握していなかった ということでしょうか。あるいは、衰えの兆候…? (衰えうんぬんは、あくまで個人的な思いであって、作中でそのような書かれ方をしているわけではありません ので、念のため) まだ続きます。
248:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:55:30 ID:A/4303W/0 続き。 そうこうしているうちに、西暦230年。この年、魏は本格的な軍事行動を起こそうとします。蜀漢が対魏戦の 準備を着々と進めていると知った曹真が、機先を制してこれを討つことを考えたのです。 彼我の国力差を考えると、孫資の言うとおり、魏から無理に戦いを仕掛けずともよいのですが、今や魏軍の重鎮 たる曹真の意見をむげに取り下げることもできません(それに、敵に謀られて〜というわけでもありませんし、 蜀漢の攻勢を挫くという意義もある以上、無意味な戦いでもありませんからね)。 結局、秋になって、出撃が決定します。曹真と司馬懿がともに蜀漢に攻め込もうというのですから、大戦になる ことは必定でした…が、折からの長雨のため、軍は進めず。 呉に備えるため、洛陽を発ち許昌に滞在する曹叡に、華歆・楊阜達が諫言を呈します。 最後は、この楊阜のこれまでの生き様が描かれます。 時を遡ること、約二十年。手痛い敗北を喫したものの、曹操が去った後、勢力を盛り返して涼州を荒らす馬超を 倒すべく、姜叙の母達とともに蜂起する、というところまでです。 文官・武官というくくりでは文官なのでしょうが、なかなかどうして、苛烈な半生です。
249:左平(仮名) 2010/01/01(金) 01:32:42 ID:hGkpiVxC0 三国志(2009年12月) 今回のタイトルは「曹真」。曹真についての記述自体はさほど多くないと思うのですが、この後のことがあります からね…。 今回は、前回の続き、楊阜vs馬超です。辛うじて馬超のもとを脱出した楊阜は、姜叙達とともに馬超を打倒すべく 動き始めます。この計画が漏れなかったところに彼らの強運が、そして馬超の不運がありました。 蜂起するのは、馬超が拠点とする冀城にほど近い鹵城。ここを修築し、攻撃に備えるのですが、なぜここなのか? それには、理由がありました。 楊阜達が蜂起!これを知った馬超は激怒し、自ら出撃します。鹵城は小さく攻略にはそう時間はかかるまい。そう 思った馬超は軽装で城を出ました。 …実は、これが狙いでした。冀城から遠く大きな城であれば、馬超も用心していたでしょうが、鹵城が近く、かつ 小さい城であることから、物資等はおおかた冀城に残していたのです。 そして、楊阜の仲間は、冀城内部にもいました。 彼らは、馬超が出撃したのを見届けると、直ちに蜂起。物資を確保するとともに馬超の家族を殺し、迎撃態勢を整 えます。 このことを知った馬超は直ちに取って返し、冀城を落としますが、姜叙の母を殺したことで憎悪の連鎖を生み、楊 阜達の戦意をさらに高めることになりました。 結局、馬超は鹵城を落とすことはできず、南に落ちてゆくことになります。 ※後に曹操から賞賛された際、先見の明があったことをたとえるのに楊敞の名が出ましたが、霍光の妻〜となって います。「楊敞の妻」が正しいので、誤記だと思うのですが…。単行本待ちですね。 長くなりますので、続きます。
250:左平(仮名) 2010/01/01(金) 01:34:13 ID:hGkpiVxC0 続き。 ともあれ、その後の地方勤務も含めて高く評価された楊阜は、曹叡の代になって、中央に呼ばれます(彼の登用自 体は、曹丕の時代から検討されていたようになっています)。 このような経緯で中央に召された楊阜は、曹叡に対し、時として厳しい諫言を行います。土木建設事業を好む、と いうのが微妙なところではありますが、為政者としての資質において父・曹丕を上回る曹叡は、楊阜の諫言をよく 聞き入れ、施政に生かしていきます。 制度上は、皇帝の賢愚に関わりなく国政の運営が行われるようになっているとはいえ、やはり皇帝の資質は重要で あります。名君が現れれば国は活気づき暗君が現れれば国は沈滞する。今も昔も変わらない真理がここにあります。 前述のとおり、軍事的な視点も持ち合わせているであろう楊阜の目には、悪天候が原因とはいえ、こたびの戦いの 戦況が思わしくないことが見て取れました。 曹真の、時勢のみる目に衰えがあるのか?今の蜀漢は、弱くもなく、乱れてもいない。そんな相手を倒すのは容易 ではない。なぜ、今なのか…、と。 結局、長雨が止まぬ中、ついに撤収命令が下され、曹真達は傷心のうちに撤収することになります。この時、曹真 は、重い病の床に臥していました。出師を願い出た自分が、病であるからといって引くことはできない。その意地 が、かえって病状を悪化させたのでしょうか。 皮肉なことに、曹真達が撤収してからは、雨は降りませんでした。天には、まだ蜀漢を滅ぼす意思はない。国力面 では圧倒的な差をつけているとはいえ、相手に天の加護があるのか、という意識は、今後の魏にとっては、厄介な ものとなりそうです。 まだ続きます。
251:左平(仮名) 2010/01/01(金) 01:42:33 ID:hGkpiVxC0 続き。 撤収から数ヵ月後、曹真は息を引き取ります。不調に終わったとはいえ、先の蜀漢攻めは、呉が大規模な軍事行動 を起こせないうちに…と判断してのもの。彼もまた、楊阜と同様、国を思って行動する忠臣でありました。 とはいえ、ここで曹真をも失ったことは、魏にとっては、不吉な影を投げかけることになります。 さて、呉の方は、といいますと…。 念願の帝位に就いたとはいえ、彼我の国力差に変化があったわけではありません。帝位をより盤石なものにするため にも、孫権としては、軍事的な成果を挙げる必要があります。 呉にとって、目の上の瘤となっているのは、合肥。この頃、満寵の指揮のもと合肥新城が築かれたことで、ますます 攻め辛くなっています。 が、この頃、満寵も酒に溺れいささか衰えがみられる…という話があったことや、魏の主力が対蜀漢戦に向けられて いることから、孫権は、合肥攻略を実行に移します。 おおっぴらに合肥攻略を知らしめて魏軍を集めさせ、やがて兵を引いたその時に攻撃を仕掛けるというものです。策 そのものはなかなかのものだったのですが… …結果は、みごと失敗でした。満寵、酒は飲んでも飲まれてはおらず、孫権の策を看破していたのです。というか、 孫権が自らの策に溺れた感がありますが。 (孫権はきっと策を弄しているに違いない、と思われ警戒されていた) それでも懲りない孫権。満寵が駄目なら今度は、とばかりに、彼と仲が良くない王淩に策を向けます。こちらはいく ばくかの成果あり。 王淩、まっすぐな人なだけに、策には弱いみたいです。
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