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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
257:左平(仮名) 2010/02/24(水) 00:12:40 ID:???0 [sage ] 続き。 夷州・亶州の探索もそうですが、水軍を擁するとはいっても、所詮は河川・湖沼といった波の穏やかなところにしか対応 できない代物です。外洋の過酷さには耐えられません。孫権がそのことを認識していなかったことが、このあたりの呉の 失態につながっているようです。 そのため、呉が遼東に使者を派遣したということは、(呉の船が魏領内の港に寄港することで)あっさりとばれてしまい ます。 さて、これをどうしたものか。皇帝の意向は殲滅ですが、魏にしても海上での戦いは未知の領域。と、なると…。 ここで田豫の名が浮上します。かつて劉備や公孫瓚に仕えたこともある歴戦の名将は、山東半島の突端、成山でひたすら 呉の船団を待ち続けます。 利を得るよりも害を除くことを重視する田豫は、諸将の不満の声を聞き流し、暴風雨にさらされ、成山で難破した呉の船 団をやすやすと捕獲・撃破しました。 正使を捕斬したわけですから、一定の成果を挙げたわけです。 しかし…田豫は、青州刺史・程喜の讒言を受けます。詰めが甘かったため船団が積んでいた財宝類の確保ができなかった、 というのです。 (この時点では程喜は清廉な人物とみられていたとはいえ)曹叡がこの讒言を聞き、田豫の功を軽く見たというのは、何 かいやな感じがします。 この「悪風」、単に呉の船団を襲った暴風雨を示すのではないような。そんな感じがあります。
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