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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
266:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:52:17 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年05月) 今回のタイトルは「流馬」。いよいよ西暦234年。魏と蜀漢との一大決戦の時が近づきつつあります。 …とその前に。この年、山陽公、すなわち後漢最後の皇帝であった献帝・劉協が逝去しました。既に、曹丕の時に、どの ような礼をもってするか決められていたようで、粛々と葬礼が執り行われました。後嗣は嫡孫。劉協の享年が五十四です から、成人していたかどうかは分かりませんが…ともあれ、山陽公の家は、この後も続きます。 この何回かは、主に遼東情勢が書かれていましたが、この間、蜀漢はどうしていたかというと…ひたすら力を蓄えること に専念していたようです。過去の出師は、その多くが兵糧不足のために撤退に追い込まれたことから、三年がかりで充分 な備蓄が為されました。 その一方で、諸葛亮自ら兵の訓練に当たります。第一回の出師の時からすると、将兵とも、見違えるほどの成長を遂げた のです。 第一回の出師の時点では凡将だった諸葛亮が、今回は、将兵を手足の如く動かせる名将と呼ばれるほどになっています。 そして、その成長は、単に自身の能力だけではありません。人材を使うことにも目が向くようになっているのです。 この頃、劉冑なる人物が叛乱を起こします。これまでなら諸葛亮自ら赴くことも考えられたところですが、このことを 知った諸葛亮は、馬忠を遣わすこととしました。 馬忠、字は徳信。もとの姓名は狐篤(狐は母方の姓)。姓名とも変わったという珍しい経歴を持つ人物です。
267:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:53:32 ID:???0 [sage ] 続き。 馬忠が中央に知られたのは、上司の閻芝の命を受け、兵五千を率いて劉備の救援に赴いた時のこと。この時劉備は、黄 権を失ってしまったが狐篤を得たと喜んだといいます(ところで、閻芝はどうだったんでしょう)。 行政官としては叛乱が鎮定されてほどない郡をみごとに治め、将としてもそつのない馬忠は、まさに文武兼備。諸葛亮 にも気に入られ、文武の職を歴任します。 人材の重要性を感じる諸葛亮。それは、馬忠にも当てはまります。この時、馬忠の配下にいたのが、張嶷。若かりし時 の話から、胆力があり武勇に秀でたことがうかがえますが、その軍事的才能には目を見張るものがあります。 別の叛乱の際には、馬忠をして「われがゆくまでもない」と丸投げされてみごと鎮定に成功します。 こうしてみると、蜀漢にも、それなりに人材が出てきていることがうかがえます。戦う体制が整い、魏に勝てるという 確信がある。物語的には、盛り上がる展開です。 いわば満を持した状態で蜀漢が動き始めたことを知った曹叡は、珍しく不安を覚えます。明らかに、これまでと異なる 動きを見せている蜀漢。こたびの戦いの重要性は、双方とも理解しています。 曹叡は、司馬懿に迎撃を命じますが、「急がずともよい」と付け加えます。
268:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:54:26 ID:???0 [sage ] 続き。 当然、司馬懿もそのあたりのことは承知しています。次は充分な兵糧を準備してから動くだろうから…三年ほど後だな、 という見立てはおおむね的中しました。ただ、この間に魏がしたことは、迎撃体制の構築でした。 蜀漢が動くのに応じて…ですから、どうしても受身の形になります。 戦いに赴く司馬懿の目に、鳥の群れが映ります。「往時、鳥は天帝の使いであったな」。この鳥達は何を意味している のでしょうか。それは、まだ分かりません。 互いに経験を積んできた諸葛亮と司馬懿は、戦い方もものの考え方もよく似ていますが、一つ異なる点があります。 「同じ将のもとで兵が成長するか」ということです。 諸葛亮の率いる兵は、街停の頃が幼児なら今は成人というほどに成長しています(例として挙げられているのが呉起や 白起。史上有数の名将の名がここで挙げられています)。一方、司馬懿にはそのような意識はありません。 ただ、そのような例があることは理解しています。 呉の兵は、周瑜が生きていた頃より弱い(策に頼りすぎているため策を破られると弱い)のではないか。蜀漢の兵は、 そのようなことはあるまい。司馬懿にとっても、こたびの戦いの持つ意味は重いのです。
269:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:55:06 ID:???0 [sage ] 続き。 蜀漢の軍勢が停止します。これは、野戦で魏との決戦をしようということか。何のひねりもないだけに、かえってその 意図が読めません。 魏の諸将は、打って出ない蜀漢を嘲笑しますが、この沈黙の故、様々な思索が巡らされます。 ついに、魏軍が動きました。郭淮を北に派遣し万一の事態(西方との交通の遮断)に備えたのです。 この時―蜀漢も動きました。北の郭淮に攻撃を仕掛けたかと思うと、返す刀で東に陣取る司馬懿にも攻めかかってきた のです。 みごとな速攻でしたが、戦況は一進一退となります。ここにきて、魏延がサボタージュをしたためです。 かねがね諸葛亮の指揮に不満を抱いていたとはいえ、なぜ、このような大一番で…。 諸葛亮も一度は激怒しますが、そうはいっても魏延の力なくして勝利はない。というわけかどうかは分かりませんが、 この時、先の天子―献帝―の崩御を諸将に告げます。今や、我らのみが正義の軍である、と。 もちろん、魏延もがぜん張り切ります。 しかし、そんな魏延に露骨な嫌悪感を向ける人物がいました。楊儀です。 諸葛亮の信奉者である彼は、勝手な言動がみられる魏延を罵倒します。一方、諸葛亮は、周公旦の故事から、忠臣の 哀しさを語ります。 大勝負のこの時にこのような話が出るあたり、蜀漢の不安材料なわけですが…。
270:左平(仮名) 2010/07/03(土) 02:35:03 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年06月) 今回のタイトルは「満寵」。西で諸葛亮と司馬懿との一大決戦が続く一方、東でも動きがあります。 万全の態勢をもって決戦に臨んだ諸葛亮。魏延のやる気がいまいちなのが気になりますが、将兵の練度、士気、兵糧… どれをとっても負ける要素は見当たらないと確信を持っています。 司馬懿が防戦態勢に入りましたが、最善ではないとはいえ長期戦も望むところ。必ず、魏の方に破綻が生じると余裕を みせます。 そんな中、呉が動き出したとの報告が。一応、呉にも魏への攻撃を要請していたのですが、さしたる驚きもありません。 はなから呉の戦果など期待していないのです。人をあてにすると(公孫淵をあてにした呉のように)失敗する。そう思う 諸葛亮は、今は亡き劉備との出会いを振り返ります。 布衣に過ぎなかったおのれを丞相にまでしてくれた劉備。その劉備もまた一平民から興った。無から有を為した奇蹟。 「われは奇蹟の立会人であったのか」 現実主義者である諸葛亮にも、感傷的になることがあるのです。 一方、魏との戦いに臨むことになった孫権ですが、どうも気乗りがしない様子。蜀漢が兵糧の備蓄に努めた三年間、呉は というと、いたずらに兵力と兵糧を空費(夷州・亶州の探索、公孫淵への使者の派遣は、いずれも一万の軍勢を数ヶ月に わたって運用し、その大半を喪失)していたため、軍を動かすゆとりがなかったのです。 まさに秕政。孫権もその失敗は自覚しているため、蜀漢からの要請に対しても、すぐに兵を出すと言えませんでした。 続きます。
271:左平(仮名) 2010/07/03(土) 02:35:33 ID:???0 [sage ] 続き。 情けない。そう思う孫権ですが、問題はそれだけではありません。どうしても合肥を落とす策が見当たらないのです。 満寵がいまだに南に睨みをきかせている以上、彼に勝たねばならないわけですが、その満寵、いまだ衰えをみせません。 満寵さえいなければ…。孫権以外にもそう思う者はおり、一度は都に召還されます。佳酒を振る舞われますが、大量に 飲んでもその挙止に乱れはなく、衰え無しと判断され、引き続き任にあたることになります(疲れを覚えた満寵が何度 も転任願を出しても、余人をもって代え難しということで、皇帝直々に慰留されます)。 そのため孫権は、十万と号する大軍をもって、かつ、三方から魏領内に侵攻するという、大がかりな作戦を決行します (孫権自身が合肥を攻める軍勢を率います)。 この軍の運用自体はなかなかのものでしたが、何せ相手は百戦錬磨の満寵です。読まれている…どころか、これを逆手 にとって孫権を殺せないか、と奇策(兵力の少ない合肥新城をあえて放棄してさらに侵攻させ挟撃する)を考える余裕 さえあります。 さすがにこれは危険すぎるとして却下されましたが、単に孫権を撃退するだけならそんな策を使うまでもない、という わけですから、戦う前から、呉は劣勢におかれていると言えます。 この時、少なからぬ魏の将兵が休暇中だったので、兵力的な差はかなりのものがあったのですが…。 続きます。
272:左平(仮名) 2010/07/03(土) 02:36:48 ID:???0 [sage ] 続き。 合肥新城、と書きましたが、この城は、満寵自身の献策によって移転したもの。当然、容易には落とせません(だから こそ、あえてそれを放棄するという奇策に対して、曹叡は危険すぎるという判断をしたわけです)。 それゆえ、孫権は大型の攻城兵器を用意させますが、完成までには時間がかかります。そこを、満寵に付け込まれます。 われは張遼将軍には及ばぬが…などと謙遜しつつも、少数の手勢を用いての夜襲はみごと成功。攻城兵器は焼け落ち、 さらに孫権の甥・孫泰をも倒します。 …正直、皇帝の甥がこんな形で戦死というのは、予想外でした。 孫権の怒りは凄まじく、苛烈な攻撃が続きますが、満寵、そして合肥新城の守将・張頴は冷静にこれに対処。そうこう しているうちに曹叡自らが親征を行うとの知らせが入り、さらにそれを裏付ける魏兵(実は先遣隊)の登場に、孫権の 戦意はすっかり喪失。結局、戦果を挙げることなく軍を退くこととなりました。 仏教の庇護者でもある孫権には、独特の諦観とでもいうべきものがあるようです。 西部戦線は司馬懿に任せておけば問題ない。孫権の遠征も、曹叡にしばしの休息を与えただけに終わったと言えるよう です。孫権の軍事的センスのなさも、ここまで来ると相当なもの。満寵は、孫権を殺す機会を失ったのではないか、と 残念がっていますが、案外、これで良かったのかも(ここで孫権が亡くなった場合、孫登がすみやかに帝位を継承した はずですから、後のごたごたもなかったのかも)知れません。 ただ、陸遜・諸葛瑾の軍は、この時点では孫権の撤退を知りません。さて、どうなる…?
273:左平(仮名) 2010/08/02(月) 00:45:51 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年07月) 今回のタイトルは「秋風」。ついに、その時が来ました。 まずは、孫権による合肥攻略が失敗したところの続きから。中軍を率いる孫権がさっさと撤退してしまったため、東軍・ 西軍もまた、撤退を余儀なくされます(最も大きい中軍が真っ先に撤退してしまっては戦略も何もありません)。 東軍を率いる孫韶は、齢十七でおじの後を継ぎ、長年にわたって国境地帯を守り抜いてきた名将。彼我の力を正しく把握 し、そつのない戦いのできる人物ですが、ここでは特に見せ場はありません。 一方、西軍は、当代屈指の名将・陸遜が率いているだけあって敵中深く侵入することに成功していましたが、これがあだ となり、孤立状態に陥ります。 とはいえ、主将の陸遜も、副将の諸葛瑾も、取り乱すことはありません。おのが知略への自信と、学問によって培われた 胆力が、冷静な判断力を保たせているのです。ここで慌てて撤退すれば、それこそ敵の思うつぼになるということは承知 しています。ここは、策をもって粛々と撤退すべし。 陸遜が攻めかかるとみせて魏軍に迎撃態勢をとらせると、諸葛瑾が動かしていた軍船に素早く上船。攻撃がなかったこと にほっとした魏軍は追撃態勢に入るのが遅れたため、難なく撤退に成功します。 見せ場はなかったとはいえ、大きな損害もなく撤退に成功したわけですが、陸遜には満たされないものが残ります。軍功 が挙げられなかったことに物足りなさを感じること自体は分かるのですが…。 続きます。
274:左平(仮名) 2010/08/02(月) 00:46:52 ID:???0 [sage ] 続き。 長江を下る陸遜は、突如、狩りをしようと言いだします。しかし、まだ呉領内には入っていません。何を狩るというの でしょうか。 …狩りというのは、魏領である江夏の諸県を襲撃することでした。特に石陽のそれは、城外に市が立って賑わっていた ため、多くの庶民を巻き込む惨いものとなりました。 結果、少なからぬ数の捕虜を得ましたし、襲撃後の慰撫もあって投降する者も出たことから、一定の戦果を挙げたとは いえるのですが…後世の史家たる裴松之は、これを悪行であると批判します。 個人的には、裴松之の批判に同意。天下統一を掲げる勢力が同じ天下に属する非戦闘員を虐殺するのは、非道の行い としか言いようがありません。戦略的にもこれといった意義がないだけに、擁護の余地もありません。 とはいえ、このことと後の悲劇との関連性は、いわゆる春秋の筆法以上のものではないでしょうね。孫権自身、こう いう行いに倫理的嫌悪感を覚えるということもなさそうですし。 一方、諸葛亮は、そのようなことはしなかったようです。将帥としての力量は陸遜に劣りますが、為政者としての格は 明らかに諸葛亮が勝ります。 続きます。
275:左平(仮名) 2010/08/02(月) 00:48:02 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛亮と司馬懿の決戦は、完全に膠着状態。互いに負けない自信はありますが、うかつには動けません。蜀漢の全権を 握る諸葛亮はいくらでも待てますが、司馬懿はどうなのでしょうか。 …こちらも、いくらでも待てる状態でした。皇帝・曹叡自身が、決戦を急ぐ必要はないと判断していたからです。また、 使者として派遣された辛毗も、的確な戦略眼を持った人物ですから、ここは動くべきではない、ということを認識して います。 諸葛亮が司馬懿に巾幗を贈り、司馬懿がこれに激昂したというのも、将兵の士気を保つため以上のものではありません。 そんなこんなで数ヶ月が経過したのですが、秋、八月。諸葛亮が体調を崩します。 食欲不振から始まって粥くらいしか食べられなくなり、やがて病臥。余りにも早い症状の悪化は、スキルス胃癌あたり を思わせますが、詳細は分かりません。 丞相病む。この急報が成都にもたらされると、宮中は震撼します。特に皇帝・劉禅の取り乱しようは相当なものがあり、 直ちに李福が見舞の使者として遣わされます。 全権を握る丞相・諸葛亮を失ったら、蜀漢はどうなるのか。即位以来、ずっと政務を任せきりにしていた劉禅には為す すべがありません。曹叡と劉禅。年齢的には近い二人ですが、その力量は天地ほども異なります。 続きます。
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