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405:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/11/08(木) 05:33:38 ID:???0 [sage ] 続き。 しかし、諸葛誕の本気をみた呉の動きは早かったのですが、魏の動きも相当に早いものでした。荊州には、何事にもそつの ない王基がいます。彼が、寿春の異変に気付かないはずもありません。中央に出撃を乞うや否や、直ちに兵を率いて寿春の 近郊に至り、包囲網を敷いていきます。 いかに王基といえども手が回りきらなかったか、あるいは兵法に従いわざと空けておいたのか、包囲網には僅かな隙があり ました。呉は、ここから援軍を寿春に入れることには成功したのですが…諸葛誕にとっては、二重の意味で有難迷惑でした。 一つは、城内に大軍が入ったことで兵糧の消耗が早まること。もう一つは、城内に入った将が、仲の悪い文欽であったこと です。 このあたり、孫綝の采配のまずさが感じられます。彼の采配のまずさは、これだけではありませんでした。勇将・朱異の 使い方も、その一つです。 当初、朱異が向かっていたのは、寿春ではありませんでした。彼に与えられた命は、孫壱を討て、というものだったのです。 孫壱というのは、孫静の孫の一人で、当時、沙羨侯でした。父、兄、そして彼自身、呉の臣として、何ら問題はありません でしたが、孫綝に敗れて亡くなった呂拠や滕胤と姻戚関係があったため、孫綝に睨まれていたのです。 孫壱は、朱異が自分を殺すために来たことを察知し、呉に見切りをつけて魏に亡命しました。魏で厚遇されたところをみる と、呉の帝室の一門の人間の亡命は、魏からしても慮外のことだったようです。 続きます。
406:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/11/08(木) 05:35:58 ID:???0 [sage ] 続き。 孫壱を取り逃がしたことでケチが付いたのか、これまで魏相手によく戦っていた朱異が連敗しました。十分な兵力を擁し、 兵の士気も決して低くなかったのに、です(朱異自身、なぜ負けるのか分からない、という感じです)。 これに取り乱さないところはさすが、といったところですが、魏軍が相当に手ごわいということが分かった以上、うかつ には動けません。朱異の軍勢は、動かなくなりました。 従軍していた陸抗は、かつての廉頗に似ている、と感じました。強敵相手には、うかつに動くよりもいったん静止した方 が良いこともあるのです。しかし、これまで遮二無二突撃していた朱異の突然の静止は、孫綝に、あらぬ疑いを持たれる 恐れがあります。 陸抗は朱異に諫言しましたが、朱異は孫綝を警戒していなかったため、召還命令に応じて孫綝を訪ねた際に、申し開きを することも出来ぬまま、殺されてしまいます。 孫綝は、そのまま兵を引き揚げてしまったため、寿春は孤立しました。犬猿の仲の諸葛誕と文欽が、同じ城内にいて、劣 勢の中、焦燥感を募らせていきます。
407:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/11/08(木) 05:41:36 ID:???0 [sage ] 追記。 初動は素早かった孫綝でしたが、結局、事態を悪化させただけでした。諸葛誕も、まさか、呉(というか孫綝)がここまで 役立たずだとは思わなかったでしょう。独力で戦った方がましだったのでは?とさえ思えます。 しかし、孫峻といい孫綝といい、戦いにおいてはどうしようもないくらいに無能なのに、宮廷内の権力闘争においてはなか なか鋭敏なのが、また…。 また、諸葛誕が反旗を翻した動機が、演義とは異なり、恐怖によるものとされていますが、政敵に対する司馬氏のやり方を みると、無理からぬことと思います。 「敵に対してはどんなことをしてもよい」というのは、一見正しいようですが、後々のことを考えると…ということがあり ますからね。
408:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 22:57:43 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年11月) 今回のタイトルは「全氏」。呉の名門・全氏に、一体何が…。 寿春の城内では、諸葛誕の部将である蒋班・焦彝が、朱異の死と孫綝の撤退を知り、ある献策をしようとしました。 孫綝が撤退したとなると、寿春は孤立します。城内の兵がこのことを知って恐慌状態に陥る前に、城内の全兵力をもって 打って出よう、というのです。 しかし、タイミングが最悪でした。諸葛誕のそばに、文欽がいたのです。猛将とはいえ、魏の包囲網の堅さをいやという ほど味あわされた文欽は、当然ながらこれに猛反発。普段は文欽とは犬猿の仲の諸葛誕も、ここでは文欽に同調したため、 献策は容れられませんでした。 蒋班・焦彝は、諸葛誕の決起の大義を信じて、ここまで付き従ってきました。もちろん、ある程度の勝算もあってのこと です(魏の南部に属する寿春付近は長雨が降る時期があるため、長期にわたる包囲網の維持が困難。よって、長雨の時期 まで持ちこたえれば敵が撤退することが見込まれる)。 しかし、この年は、いつまで経っても雨が降りません。諸葛誕は、巫祝に降雨を祈願させましたが、それも効きません。 こうなると、この決起は、天に認められないものなのか、という疑問が生じてきます。 やがて、朱異の死と孫綝の撤退が城内の将兵に知れ渡ると、士気は目立って低下しました。他の将兵と同じく、意気消沈 していた蒋班・焦彝には、士気を高揚させる術もありません。 献策が容れられなかったこともあり、二人は、降ることを考えます。 降るとはいっても、ことは容易ではありません(ただ降っただけでは、不忠として斬られる恐れもある)。幸い、敵の軍 中につてを発見した二人は、内密に降る意向を伝えさせます。 続きます。
409:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 22:59:46 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛誕の部将、それも、副将ともいうべき二人が降る、という知らせを受けた司馬昭は、これを受諾。二人は機をうかがい、 降ることに成功しました。 司馬昭からすると、労せずして諸葛誕の戦力を削ぐことができたわけですが、さらに大きな知らせが舞い込んできました。 全輝・全儀の兄弟が、魏に亡命してきたというのです。 全氏は、全輝・全儀の祖父にあたる全jが父とともに孫氏に仕えて以来、呉の重臣として活躍してきました(全jは、孫権の 娘・孫魯班を娶っている)。 その全氏から、よもや敵国・魏に亡命する者が出ようとは。司馬昭ならずとも、驚くべき事態です。 訴訟がこじれたため、呉にいられなくなった、ということですが、ことは、全輝・全儀の二人に留まりません。なぜなら、寿 春の城内には、兄弟の叔父にあたる全懌が(他にも、全氏一門の者が多く)いたからです。 孫綝が撤退したことで、呉の援軍は縮小しています。しかし、呉帝室の連枝とも言える全氏がいる以上、呉は全軍撤退すると いうわけにもいきません。ですが、その前提が覆るとしたら…。 司馬昭は、彼らにも寛容をもって接します。敵国の者であった我らに対し、なんという厚情…。感じ入った二人は、全面的な 協力を約束しました。 司馬昭は、彼らに、あることを依頼します。 続きます。
410:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 23:01:50 ID:???0 [sage ] 続き。 城内の全懌達に、魏に降るよう説得してもらいたい、というのです。 全jの死後、家督を継いだ全懌が魏に降るとなれば、その影響は計り知れないものがあります。将兵の犠牲を減らすのに、 これほどの策はそうそうないでしょう。 とはいえ、寿春の城内には、全氏以外の将兵も多くいますから、ことは慎重を要します。 幸い、全輝・全儀に付き従ってきた従者の中には、全懌達と面識がある(そして、信頼されている)者が多くいました。 彼らを使って、慎重に、連絡を取り合います。 全輝・全儀が魏に亡命した。このことは、全懌達にとっても、大きな衝撃でした。鍾会の策で、呉国内の全氏が皆殺しに されるかも…という危機感を持たされたのも効きました。 そうでなくても、孫綝が撤退したことで、見殺しにされるのではないか、という疑念が生じているところです。これまで 呉において重きをなしてきた全氏の危機。全懌は、難しい判断に迫られます。 彼一人であれば、そんなに難しいことではないでしょうが、ここには、彼らが率いてきた数千の兵がいるのです。当然、 皆が皆、魏に降ることをよしとするとは限りません。 さて、どうするか。 続きます。
411:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 23:03:56 ID:???0 [sage ] 続き。 全懌は、ついに、魏に降ることを決意しました。息子達や、従兄弟の全端も、ともに亡命します。 しかし、自分たちだけが城外に出るのでは、置き去りにされた兵がどうなるかわかりません。全懌は、兵達と一緒に、 城外に出ました(もちろん、司馬昭に事前承認を得た上で、です)。 数千の兵が、堂々と城外に出て、包囲している魏軍からも、城内の諸葛誕・呉軍からも攻撃を受けることなく、戦場 から離脱したのです。 何とも不思議な光景ですが、これにより、全氏の兵は、無事に死地を脱しました。 城内から全氏の兵が消えた。ようやくことの重大さを理解した諸葛誕達は、これまでの防戦体制から一変、決死の総 攻撃を試みます。 その攻撃の凄まじさは、冷静な王基でさえあわや、というところでしたが、数か月の籠城を経た後で数倍の敵による 包囲網を突破するのは、やはり無理がありました。 再び城内に追いやられた諸葛誕は、疑心暗鬼が募り、ついに文欽を殺害。その子・文俶にも危険が迫ります。
412:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 23:05:00 ID:???0 [sage ] 追記。 全j以外の全氏は、ゲーム等では、目も当てられないような低数値にされがちですが、今回の全懌は、父の全jや 兄の全緒にも見劣りしない人物として描かれていたように思います。 数千の兵の命を守るため、あえて難しい方法を選んだ全懌の行動は、見事なものでした。 寛容をもって接した司馬昭の勝利と言えるでしょう(それだけに、諸葛誕の決起の遠因となった曹爽派の処断には すっきりしないものを感じるのですが)。 また、孫綝の軍事的手腕のなさが、あらためて浮き彫りにされました。魏の内紛に介入したはいいが、ただ将兵を 失っただけでした。 それにしても、全氏が亡命せざるを得なくなるほどにこじれた訴訟とは、いったい…。
413:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/01/01(火) 00:22:54 ID:???0 [sage ] 今回は三国志は休載でした(文藝春秋の90周年特別号、ということです)。
414:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/02/08(金) 06:51:20 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年01月) 今回のタイトルは「孫亮」。諸葛誕の決起がついに決着します。とともに、呉に動きが…。 文俶達は、寿春城内の小城に起居していましたが、ここに諸葛誕の軍勢が迫ります。数百も手勢があれば、諸葛誕を 殺して父の仇を討てる、と思った文俶でしたが、兵達は恐慌を来たし、我先にと逃げ散る有様。 これをみた文俶は、何を思ったか、城壁を越えて脱出し、不倶戴天の敵であるはずの司馬昭の陣に駆け込みます。 司馬昭も驚いたでしょうが、彼は、何より政治家でありました。普通ならば即刻処刑しているところを、敢えて許した のです(戦いの序盤で降ったなら処刑していたであろうが、窮した今であれば、許す方がよい、と判断した)。 自身のみならず、兵達にも気遣いをみせる司馬昭に感じ入った文俶は、城内に投降を呼びかけます。 そろそろか。司馬昭は陣を進め、ついに、城内に兵が突入しました。いよいよ、諸葛誕に最期の時が迫ります。 この時、彼にはなお千を越える兵がつき従っていました。もはやこれまで。我が首を差し出せば…。しかし、ここまで ついてきた兵達は、たれ一人としてこの場を去ろうとはしませんでした。 決起は失敗し、謀叛人として死ぬ。甚だ不名誉なことではありますが、それでもなお、これほどの人々がついて来て くれることに、諸葛誕は感激します。そして、ついに…。 諸葛誕は、魏への忠義を唱えて決起しましたが、かつて浮華の徒として曹叡から遠ざけられたこと、(文欽と不仲 だったとはいえ)毌丘倹の決起に同調しなかったことを考えると、それにはいくらかの修辞があったのではないか、 とされています。 ただ、司馬昭の意を受けた賈充と面会した際のやりとりをみると、決起せざるを得なかったのか、とも思えます。 (司馬師には殺されないが司馬昭には殺されると思った、ということですが、これって、賈充のせいでは…) 続きます。
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