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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
415:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/02/08(金) 06:52:48 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛誕は戦死し、決起は鎮定されました。彼に最期まで付き従った兵達は、たれ一人として助命を願うことなく、 処刑されました。哀しい場面ですが、ある種の美学があります。 城内に残された呉の将兵達は、司馬昭の寛弘に感じ入り、多くはそのまま降りました。年を越えて続いたこの戦いは、 司馬昭の完全勝利に終わったのです。 司馬昭は、この余勢をかって呉に侵攻しようか、とも思いましたが、ここは王基の諫言に従い、兵を引きました。 大勝の後、調子に乗ってさらに戦いを続けて惨敗を喫する、という例は、遠くない過去にも何例もあるだけに、この 判断は賢明でした。 魏においては、結果として、司馬昭の力がますます強くなる(相対的に皇帝・曹髦の力は弱くなる)こととなりました。 では、呉は、どうなのでしょうか。 普通、これほどの敗戦ともなれば、総司令官たる孫綝の責任が問われます。そうでなくても、自責の念にかられ、降格を 申し出るなりするものですが、孫綝は、自分には全く責任はないと言わんばかりのふてぶてしさを見せます。 これには、皇帝・孫亮も怒りを隠せません。そうでなくても、孫綝がのさばるこの現状は、呉にとって望ましからぬもの なのです。孫亮は、孫綝の勢力を削ることを考えます。 皇帝自らが兵を率いて孫綝を拘束する。臣下に任せず、自ら大事に当ろうというわけですが、それには、中軍を預かる全 尚(皇后の父)の協力が必要でした。ただ、彼の妻は孫綝の一族。それだけに、慎重に事を進める必要がありました。 続きます。
416:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/02/08(金) 06:54:14 ID:???0 [sage ] 続き。 いよいよ計画が固まった頃合いを見て、孫亮は、全尚にことを打ち明け、協力を求めました。もちろん、妻には極秘で あると念押しをして。 しかし、彼女に感付かれた全尚は、このことを話してしまいます。彼女は、直ちに急使を孫綝に派遣。孫綝は、間一髪の ところで命拾いをしました。 そして、逆に孫亮を包囲。皇帝が昏乱であるとして、廃位を宣言します。 追記。 今回は、人の美しさと醜さとが、かなり強烈に描かれていました。 前者は、諸葛誕に殉じた兵達です。彼らは、諸葛誕から何かしらの恩徳を受けたのではあるのでしょうが、最後は、そう いった利害を超えて、敬愛していました。 後者は、言うまでもなく、孫綝。あれほどの惨敗を喫しながら、恥じ入ることさえしないのは、厚顔無恥というほかあり ません。しかも、かような小人が、まっとうな皇帝を廃するというのですから、他人事ながら、腹立たしいことです。 …ちと感情的になりましたが、かような小人が得てしてのさばるのですから、人の世はままならぬものです。 それはそうと、ここまで、司馬昭はかなり好意的に書かれているように思えますが、そろそろ、あの事件が描かれるはず。 どう描かれるのでしょうか。
417:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/03/07(木) 23:01:31 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年02月) 今回のタイトルは「孫綝」。孫権の晩年から続いた呉の混乱が、ようやく終息します。 孫亮が気付いた時には、宮殿は包囲されていました。打って出ることもままならず、玉璽を差し出すことしかできません。 全尚の不甲斐なさを詰りますが、空しいことは分かっています。 全紀(全尚の子)は恥じて自害し、全皇后(全尚の娘)は、廃位後も孫亮と辛苦を共にしました。子供たちは全うだった のに、ひとえに、全尚が…。 聡明な皇帝を廃位するという、董卓以上の暴挙を為した孫綝ですが、さすがに、自分が皇帝に…とまではいかず、孫権の 他の皇子を擁立しようとします。とはいっても、孫権がもうけた男子七人のうち、上の四人は既に他界し、末子の孫亮は 廃位されたところ。残っているのは、五男の孫奮と六男の孫休の二人です。 結局、おとなしいとみられた孫休が選ばれました。 知らせを聞いた孫休は、当初、迷いました。弟が廃された後、兄の自分を立てようというのですから、正常な事態でない ことは火を見るより明らか。孫綝の傀儡になることは分かりきっているのです。 一地方王としての静かな日々を捨てるに相応しいものではない。そうなのですが…しかし、ここで断ると、思いやりの心に 欠ける孫奮が即位する…。 それはならぬ。このとき、孫亮は、私事よりも国事をとる決断を下しました。ただ、龍に乗ったが尾がないという夢は、 何を意味するのか。このことは気になります。 続きます。
418:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/03/07(木) 23:02:38 ID:???0 [sage ] 続き。 当初、ゆっくりと都に向かっていた孫休ですが、道中で出会った老人の言葉をうけ、急行します。そして、いよいよ即位。 あのおとなしかったお方が、かくも堂々と…。さすがは皇子であらせられる。側近たちを感心させる変貌を見せます。 かくして即位した孫休ですが、この時点では、孫綝の傀儡でしかありません。まずは、彼らに地位や恩賞をばらまいて、 敵意を抱かれないようにしなければならないのです。 そして、この一点については、孫休は孫亮に勝っていました。孫綝たちは、すっかり安心して、参内するようになったの です。これは、好機でもありました。 とはいえ、皇后冊立等、孫綝のいうことを聞かないこともありますから、猶予はわずかしかありません。孫休の味方に なる者がいればよいのですが… いました。張布です。即位時から、いずれ孫綝と戦うことになるであろう、と覚悟していただけに、両者が結びつくのは 早いものでした。 ただし、主要な地位のほとんどを孫綝たちに占められているだけに、打つ手は限られます。というか、手段のみならず、 時期も限られます。 孫綝を除き、国政を正すのは、詰まるところ、運任せなのです。張布は、死を覚悟しました。 続きます。
419:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/03/07(木) 23:04:20 ID:???0 [sage ] 続き。 臘日。この日こそが、孫綝を除くことができる、唯一のときでした。 この日、参内を前にした孫綝は妙な不安を抱きますが、すみやかに退出できるよう図った上で、参内することとしました。 参内をせかす急使が何度も来たことにもう少し不審を抱いてもおかしくないところですが、これは、ここまで孫休が孫綝 の警戒心を削ぐことに成功していた、ということでもあります。 参内し、手筈通り、退出するはずだったその時…! 張布の手勢が孫綝を縛り上げました。孫綝は、してやられた、と苦笑 しつつ、孫休に助命を乞いますが、かつての呂拠・滕胤のことを持ち出されては、ぐうの音も出ません。 孫綝は首を打たれました。享年二十八。その一族は族滅され、呂拠・滕胤(及び諸葛恪)の名誉は回復されました。 かくして、呉は、一応皇帝の尊厳が取り戻されたわけですが…魏はそうはいきませんでした。次回は、その顛末が語られる のでしょうか。 追記。 孫綝は、軍事・政治共に無能でしたが、危機を察知することには長けていました。この時も、察知してはいたのです。それを 打ち破るあたり、孫休も無能ではありません。 行状芳しからぬ孫奮を除き、孫権の息子達は有能ですね。 ただ、(本人の意思の賜物でもあるとはいえ)運頼みになった感があります。このあたりは、どうなるのでしょうか。
420:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:20:32 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年03月) 今回のタイトルは「好戦」。魏と蜀漢の好戦的な人々の話、といったところでしょうか。 まず最初に、孫休が孫綝を滅ぼした(西暦258年)時点での、各国の皇帝の年齢について触れられています。魏は、曹髦18歳。 呉は、孫休24歳。蜀漢は、劉禅52歳です。 魏と呉は、若年の皇帝が廃されて新たに若年の皇帝が擁立された、という点では共通していますが、その後の情勢は異なるものと なりました。それは、ひとえに、皇帝を制する実力者の力量の違いによるものでしょう。呉の方は、前回までで語られた通りです が、魏の方は、というと…。 その頃、魏の若き皇帝・曹髦は、現状に苛立っていました。先代(斉王・曹芳)が廃された経緯は承知しているとはいえ、自分も また、司馬氏に実権を握られたまま、政務に関われないでいたからです。 曹髦は曹芳とは異なり、酒色に走ったりはしませんでしたが、「潜龍」の詩(龍が現れたが、天に昇らないため、瑞祥ではないと 皮肉った)などをみると、相当に不満が溜まっていたことは分かります。 「(曹髦は)理屈をよくこねる」などと書かれているところをみると、やや辛く評価されているのかな…と思えます。確かに、皇 帝という至尊の地位にいるとはいえ、ままならない現実に苛立つのは、人としての風格に欠けると言えるのではあるのですが…。 曹髦の側近に、三人の王氏がいました(といっても血縁関係にあるわけではない)。王沈、王業、そして王経です。王経は、前に、 姜維に大敗を喫した人物として登場していましたが、軍事的な能力には欠けたものの、他に才能があるとみられていたようです。 その三人に向かって、曹髦は、重大な決意を打ち明けます。今から兵を率いて、司馬昭を討つ、というのです。 既に魏の軍事力のかなりの部分は司馬氏に握られていますから、全くもって無謀なことではありました。三人は必死に止めました が、曹髦は効く耳を持ちません。 続きます。
421:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:29:19 ID:???0 [sage ] 続き。 この時、曹髦はかなり昂奮していました。普段は、学問を好む理知的な人物という感じですが、実のところは、かなりの激情家で あったのではないでしょうか(ただし、全く理性が吹っ飛ぶというわけではない)。 確かに、これは無謀なことです。しかし、これまで異常なほどに正当性にこだわってきた司馬氏が相手である以上、勝算がゼロと いうわけでもないのです(皇帝の尊厳が保たれているのであれば、皇帝自ら陣頭に立てば臣下は手出しができないはず。となれば、 司馬氏を倒すとまではいかなくとも、何らかの形での実権回復も見込まれる)。 諫言が聞き入れられないのをみた王沈・王業は、司馬昭に報告。王経は、この場に残ってなおも説得を試みたようですが…ついに 曹髦自らが出撃するという事態に至ります。 まずは、皇太后のもとに向かいます。一応、皇太后の同意も得られればそれに越したことはない、というところでしたが、既に、 曹髦と皇太后の関係は著しく悪化していましたから、これは、事実上の決別でした。 (武装した(不仲の)皇帝がいきなり現れたのですから、皇太后が恐怖したのも無理はないのですが) 当初は、曹髦が見込んだ通りでした。まず現れた司馬伷(司馬昭の異母弟)は、陛下に手出しは出来ぬ、というふうで、ほとんど 無抵抗でした。これに気を良くした曹髦はなおも進撃しますが、ここで、賈充が立ちはだかります。 賈充には、皇帝への敬意はありません。彼が敬意を持つのは、あくまで司馬昭。賈充は、皇帝を眼前にして戸惑う兵達を叱咤し、 攻撃を命じます。 本気で戦えば、司馬氏配下の将兵の方が圧倒的に強いので、曹髦率いる軍勢は押されます。そしてついに、成済が、曹髦を突き 殺しました。 続きます。
422:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:32:49 ID:???0 [sage ] 続き。 最悪の事態も覚悟していた司馬昭でしたが、さすがにこの結末に対する衝撃は大きいものがありました。叔父の司馬孚が直ちに 哭泣して(皇帝と司馬氏の間に深刻な対立があったわけではないと)アピールしたこと、皇太后が曹髦を悪逆であったと罵った ことで、ひとまず落ち着きを取り戻したのですが、何かすっきりしないものが残ったのも、また事実です。 実権がなかったということもありますが、曹髦は、決して悪しき皇帝ではありませんでした。傍目には生意気な若造と思えたと しても、見ようによっては、意欲ある(そして、十分な学識もある)青年だったわけですし、何より、これといった乱行もあり ません。 曹髦を止められなかったために、ほとんどとばっちりという感じで王経は処刑されましたが、母とともに従容と死についた彼は 多くの人々から敬われました。むしろ、彼を見殺しにした王沈・王業の方が、その薄情さを曝したとも言えます。 廃帝という扱いにされたとはいえ、曹髦は皇帝です。その葬列があまりに貧弱なのを見た人々は、魏の終わりが近いことを痛感 したことでしょう。 ともあれ、一応の事務処理は済んだと思われましたが…なおも問題がありました。陳泰が来ないのです。 父祖と同様、名臣として知られる彼に認めてもらえないことには、司馬昭としても不安なのです。陳泰にしても、表立って批判 的なことは言いませんでしたが、その発言をみれば、この件を是としているわけではないことは明らか。 陳泰は、皇帝弑逆を命じた賈充を処刑するよう求めますが、司馬昭はこれを拒否。結局、下手人の成済を、その一族もろともに 殺害することでごまかしました。 続きます。
423:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:38:50 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、次の皇帝を擁立する必要が生じたわけですが…。もう、我の強い人物はこりごりです。結局、おとなしいとみられた曹奐 (燕王・曹宇の子)が選ばれました。 一方、蜀漢の方は、というと…。姜維は、さして成果の上がらない出兵を繰り返していました。姜維の相手はケ艾ですが、彼は 魏の一刺史に過ぎません。一国の大将軍の相手が刺史で勤まるのですから、もはや、国力の差は如何ともしがたいものとなって いました。 そして、内政面においても、宦官やそれと癒着した者達が実権を握るようになっていました。魏や呉のような大規模な内紛こそ なかったものの、じり貧状態であったのです。 これをみた司馬昭達は、蜀漢を一気に滅ぼすべく、入念な準備に取り掛かります。蜀の地に入る複数のルートから一斉に侵攻 するのです。 追記。 今年出る単行本で完結という話がありました。ということは、あと1、2回。いよいよ、本作のラストが見えてきました。 曹髦の非業の最期は、多くの人々に暗い影を落としました。魏の帝室たる曹氏からみれば、いよいよその衰運が明らかになった ことを示すものでしたし、遠からず帝位に就くであろう司馬氏からみれば、その正当性を大きく傷つけるものであったからです。 また、臣下からみれば、高位にある人々の節義に疑いを抱いたことでしょう。 司馬昭が切り捨てられなかったことをみると、賈充が司馬氏にとって必要な人材であったのは確かでしょうが、なぜこのような 判断を下したのか、よく分かりません。 そこまで描かれることはなさそうですが、これこそが、司馬氏のたてた王朝があっけなく瓦解した一因であるように思えてなら ないのですが…。
424:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:17:31 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年04月) 今回のタイトルは「劉禅」。ついに、三国の一角が潰えるときがきました。 鍾会を総司令官とする蜀漢への侵攻作戦については、前線にいる姜維は薄々感付いていました。しかし、蜀漢の中央には厭戦 気分が横溢したこともあり、迎撃態勢の構築は不十分でした。 宦官の黄皓の影響はあったにせよ、皇帝たる劉禅に緩みがあったことは否めません(ただ、この時点で在位四十年。歴代皇帝 の中でも長い部類ですから、無理からぬところではある、という点も言及されています)。 そして、ついに侵攻作戦が開始されました。蜀漢領内への侵入自体は容易で、(粗漏のあった許儀を斬る等)軍紀にも厳しい 魏軍の進撃は、まずは順調に進みました。 面白いことに、鍾会には諸葛亮や蔣琬への敬意があり、侵攻作戦の一環とはいえ、蔣琬の子・蔣斌に丁重な書簡を送ったりも しています(返信も受けています)。姜維にも同様の書簡を送ったのですが…これは無視されました。 姜維は、優れた人材として、名指しで諸葛亮に絶賛されたことを終生の誇りとしていました。それゆえ、諸葛亮に敬意を抱く (という姿勢を見せる)とはいえ、彼が守り通した蜀漢を侵さんとする鍾会には、強烈な敵意を隠しません。 政治的な感覚はない(それゆえ成果に乏しい戦いを繰り返すことになった)とはいえ、優秀な武将です。領内への侵入を許し はしましたが、険阻な蜀の地の利を生かし、鍾会の大軍を巧みに食い止めます。 続きます。
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