★『宮城谷三国志』総合スレッド★
48:2002/11/02(土) 17:03AAS

左平(仮名)

◆三国の始祖 そろい踏み  今回の宮城谷三国志◆

今日は木曜。「蒼天」が読めます。また、10日。「宮城谷三国志」が読めます。
省22
49:2002/11/02(土) 17:03AAS

左平(仮名) 2002年10月10日木曜日 21時05分

前回、孫堅の生年について、調べもせずに「『後漢書』にありましたか?」なんて言いましたが、よく見ると、正史の三国志を丁寧に読むと、そういう事になるのでしたね。
…うっかりしてました。
50:2002/11/02(土) 17:03AAS

むじん     2002年10月10日木曜日 23時23分

おぉ〜。第五氏の由来、初めて聞きました。三国志にも第五伯魚とか第五文休の名前が見えますけど、第一氏から第四氏は見たことないです。

皇甫規は皇甫嵩の叔父さんにあたります。字は威明。段ケイ・張奐とともに「三明」と称されました。
51:2002/11/02(土) 17:04AAS

左平(仮名) 2002年10月10日木曜日 23時46分

むじんさん、情報ありがとうございます。叔父でしたか。

それにしても、皇甫規・段ケイ【ヒ+火+頁】・張奐で「三明」ですか。皆優れた武将ですが、軍事以外にも優れていたという事でしょうか。
52:2002/11/02(土) 17:04AAS

ぐっこ 2002年10月12日土曜日 00時04分

簡単にいえば、皇甫規(威明)・段ケイ(紀明)・張奐(然明)と、揃って明が付いてたんですよ、字に。しかも三者とも涼州出身だったため、涼州三明、と。
皇甫規は奥さんがらみでも割と有名ですが、段ケイは後に悪人道を歩み、張奐は蒼天航路で大活躍、と。張奐なんかは、名文家でもあったみたいですよー。

省9
53:2002/11/02(土) 17:11AAS

左平(仮名)

◆今後の「三国志」の進展は? 宮城谷昌光氏インタビュ−◆

今月の「オ−ル讀物」に、宮城谷氏へのインタビュ−が掲載されていました。いろいろ興味深いものがありました。いくつか、ピックアップしてみます。
省17
54:2002/11/02(土) 17:11AAS

ぐっこ 2002年10月23日水曜日 23時16分

やや、連載開始1年半にしてようやく曹操や孫堅が「誕生」したという、人類史上でもまれに見るスローペース三国志の続報!
宮城谷先生、五本も…。日に7枚って、けっこうなペースと思います。たしかエッセイの中で「小説は才能よりも持続力、言い換えれば執念で書くもの」と言う類の名言を残されてましたが…

省9
55:左平(仮名)2002/11/10(日) 19:25AAS
◆第一次党錮の禁(途中) 今回の宮城谷三国志◆

搓c后失脚の理由…皇帝の寵愛をめぐって、竇氏と言い争いになった為だとは…。
桓帝、皇帝としてもですが、一人の男としても、小さい…あまりにも、小さい…。
(後宮に六千もの美女を集めたといいますが、たった一人の女も満足に愛せないとは)
「桓」という謚が泣くぞ!!
省12
56:★ぐっこ2002/11/11(月) 00:04AAS
>黄巾の乱以前に、こんなにも乱が頻発していたのか
逆に言うと、黄巾の乱がどれだけ凄絶な規模のものだったかが
伺えますよね…。
乱…というより、小規模の乱や寇禍の類は、殆ど日常的に続発し、
それを制圧する西方部隊というのは、後漢後期からやや特殊なポジション
にいたカンジで…。董卓の特異性なんかも、そのあたりから説かれそうで
省8
57:左平(仮名)2002/12/10(火) 21:03AAS
◆党錮→党錮、羌と侠  今回の宮城谷三国志◆

まずは、あらすじから。
宦官達による清流士人の弾劾は、結局のところ、なかば失敗に終わります(第一次党錮の禁)。終身禁錮とする事で朝廷から追放したものの、彼らに名を成さしめたわけですからね。追放された方に世間の同情と尊敬が集まり、政府の存在意義をも疑わせる様な状態になったわけですから、結果の如何にかかわらず、王朝の命運は尽きようとしている、と言えるでしょう。そんな中、桓帝は崩じます。「怠惰」の一言で片付けられる「桓」帝。子作りにさえ怠惰だったのか?とツッコミ入れられる「桓」帝…。こりゃ、あきませんわ。名と実が全く合っていませんもの。
で、迎えられたのが霊帝ですが、彼の賢愚のほどは、今回の時点ではまだ判然としません。そもそも、然るべき皇族自体が払底していたというのですから。こんな政権を担当する、大将軍・竇武。お疲れ様です(皇太后となった娘も、ろくな人物ではない様で)。李膺・陳蕃を復帰させるのも当然でしょう。そして、宦官打倒の計画を練りますが、皇太后にはその意味が分からないまま、天文が乱れたその日、ついに!事件が!

省11
1-AA