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205:左平(仮名) 2008/03/14(金) 23:22:26 ID:licQjHdd 続き。 かくして、張遼・李典とが八百の決死の士を率いて、夜明けとともに出撃しました。 「ゆくぞ」 宮城谷氏の描く勇将達には、無駄なりきみというものがありません(そういえば、文章中に「!」が使わ れることが全くといっていいほどありませんね)。ここでの張遼も例外ではありません。 余りにも少数だが脱走兵のように無秩序ではない。「敵将の内通か」そう思う者がいてもおかしくはない ところではありましょう。 しかし、張遼に「通るぞ」と言われて思わず敬礼する呉兵…。想像すると、何ともおかしいものです。 呉の陣内深く入り込んだところで…!いよいよ攻撃開始です。さすがは決死のつわもの達。油断しきって いた呉軍は大混乱に陥り、孫権自身も、半ば以上冷静さを失っていました(いつの間にか戟を持っていま すがそれを振り回すわけでもなく)。 なるほど、これほど劇的な戦いも稀でしょう。「寡をもって衆を制す」とはまさにこのこと。十万の大軍 がわずか八百の小部隊に翻弄され、しかも相手はほとんど無傷。彼我の戦意の差はいかんともしがたく。 しかも、撤退時にもまた張遼に翻弄されましたから、孫権にとっては踏んだり蹴ったりです(谷利はきっ ちりと登場しました)。 最後は、ところ変わって西方の情勢の説明。曹操の圧倒的な力の前に、三十年ばかり続いた小王国は潰え、 梟雄・韓遂もこの世を去ります。 漢中の張魯に、曹操の手が迫るわけですが…。
206:左平(仮名) 2008/04/14(月) 23:26:58 ID:6n1ZaDHe 三国志(2008年04月) 今回のタイトルは「魏国」。今回は、けっこう時間が経過してます。 最初は、韓遂の死から語られます。韓遂の首に向かって曹操が「白髪も少なくなったではないか」とコメント …ってことは、韓遂は禿頭? はて、肉体面の描写ってそうはないはずですが…どのようにイメージされたのか興味深いところではあります。 そして、漢中の張魯攻めとなります。 約三十年にわたって独立王国を保っていた張魯。普通であれば、衆を恃んで一戦しそうなところですが、彼は 随分と現実的な思考をする人物で、曹操来るの知らせを聞くと、すみやかに投降するよう指示を出します(勿 論、弟の張衛のように、それを拒む者も中にはいます)。 張衛に同調する人々も結構多く、曹操も苦戦覚悟だったのですが…何とも意外な形で決着がつきました。 さて、張魯のこの決断には、孔子の玉版なるものが少なからぬ影響を与えたとのこと。王莽や光武帝のあたり でよく出てくる讖緯の思想がこの頃にもなお相当な影響力を持っていたことが伺えます。 しかし…老荘思想を根底におく道教の原型・五斗米道の教主たる張魯が、(偽りとか裏切りを嫌うという教義 からすれば当然とはいえ)本作においては老荘的な感覚で行動する劉備を嫌っている、というのは面白いもの です。 思わぬハプニングによるものとはいえ、大した損害もなく漢中を制したことに、曹操が上機嫌だったのは言う までもないでしょう。 ここで、ここまで目立たぬ存在であった司馬懿が登場します。「隴を得て蜀を望」んではどうか、というわけ です。 しかし、曹操はその進言を容れませんでした。純軍事的に考えれば利も理もある進言ですが、この時の曹操の 中では、欲望の自制、ということがあったようです。 ただ、それは一方で、冒険を嫌うという、老いの兆候であったのかも知れません。 長くなったので、ここで分けます。
207:左平(仮名) 2008/04/14(月) 23:27:57 ID:6n1ZaDHe 続き。 今回の後半の主題は、曹操の後継者の選定問題です。先にちらりと書き込みましたように、曹操は、嫡子・曹 丕の力量は認めながらも、彼の言動への感動がないことから、むしろ、何かしらの可能性を感じさせる―とは いえこの時点ではまだ顕在化していないのでリスクが大きい―曹植を立てた方が良いのではないか、という思 いが芽生えているのです。 なかなかの才覚を持つ(歴史上は敗者であることを考えると一廉の人物であったことは確かな)丁兄弟の進言 もあり、ますます迷いは深まります。結局、当初の予定の通り、曹丕が太子に立てられたわけですが…。 おっと、今回、曹操は魏王に就任しております。今回の書き出しは建安二十(西暦215)年時点だったわけ ですから、この一回で二年ばかり経過してます。
208:左平(仮名) 2008/05/16(金) 18:03:18 ID:pY4qHwSK 三国志(2008年05月) 今回のタイトルは「兄弟」。前回のラストから考えると、あの兄弟のことだな、とは見当がつくのですが… どうもそれだけではないようです。 初めに語られるのは、邢顒。田疇のもとにいたこともある彼は、厳格かつ実直な人物であることから、曹植 につけられます(ともすれば緩みがちな彼を戒めるために…ということです)。 ただ、曹植にはその意味はいまいち理解できていないようで、そのために劉禎の諫言(さすがは建安七子の 一人。かなりの名文)を受けるのですが…これもいまいち効かず。 前回は丁兄弟が語られましたが、今回は、曹植を支えようとしたもう一人の人物・楊脩が登場します。「慎 ましい〜」と評される一方、救愛にも似た曹植の誘いに応じたように、かなりの情熱家でもあり、また、顕 揚欲もあるというあたり、なかなか複雑な人物です。 彼の父が、以前に、曹操によって失脚したということもありますから、魏国をかき乱すという意図もあった のかも(彼にとっては、それは匡正の行為なのですが)…。 ともあれ、曹植が、王命を受けた門番を斬る、馳道の無断利用などといった失態をしでかしたこともあり、 魏国の太子―曹操の後継者―は曹丕に決まりました。 さて、曹操と卞氏との間には他にも子がいるわけで…曹丕と曹植の間、曹彰のことも忘れてはなりませんね。 学問が大嫌いで将軍たらんとした曹彰は、田豫たちの助けもあり、みごと烏丸討伐を成し遂げました。 遠征時の田豫の進言や凱旋時の曹丕の助言を素直に聞く、敵を完膚なきまでに叩きのめさないことには住民 の安寧は得られないと的確に判断する、というあたり、将軍としてはなかなかの力量を持つ人物です。 早くから、自分が何者であるか(将才はあるが政治には向かない→将軍向き)を見切っていたのでしょう。 学がない分、ちょっと足りないところもありますが、颯爽とした好漢です。 曹植も、自分が何者であるか(文才はあるが実務には向かない→詩人向き)を見切ることができれば、彼の ためにも、魏国のためにも良かったのでしょうね。 ただこちらは、なまじ曹操も自分の後継者になり得るやも…と迷っていただけに、事態はよりいっそうこじ れたわけですが。 長くなったので、ここで分けます。
209:左平(仮名) 2008/05/16(金) 18:06:16 ID:pY4qHwSK 続き。 後半は、漢中攻防戦です。さまざまな手を打つも、めぼしい戦果が挙げられない劉備は、後方の諸葛亮に増 援を求めます。 前線にはいないだけに状況把握が不完全な諸葛亮は、楊洪に意見を求めます。 李厳と激論を交わす(その後その李厳から推挙される)ということのあった楊洪、諸葛亮の諮問に対して出 した回答は…。 増援の派遣、でした。ただし、ただ派遣するというわけではありません。これこそ、蜀の存亡をかけた一戦 である。そういう気迫のこもった回答から、諸葛量は、彼の器を理解するのでした。 とはいえ、ただ人手がいるだけではどうにもなりません。ここで黄権が進言します。これこそ、この戦いの 帰趨を決めるものとなるわけですが…。 さて、この前に気になることが。劉備と関羽との連携がいまいちのようです。関羽からの報告がない(荊州 の情報は公安経由で細々とあるだけ)というのです。 これが、今後の展開にどう影響するのか。
210:左平(仮名) 2008/06/20(金) 22:27:27 ID:a7pA1sHW 三国志(2008年06月) 今回のタイトルは「霖雨」。激動の建安二十四(219)年です。 黄権の進言。それは、火を用いて張郃と夏侯淵とを分断し、各個撃破することでした。軍を分けた劉備は両 陣営を急襲。張郃は冷静に対応できましたが、ここで夏侯淵が、僅かな手勢のみで飛び出してしまいました。 多勢に無勢。と、なると…。 …曹操の旗揚げ以来の将・夏侯淵の最期は、意外なほど呆気ない書かれ方でした。戦いが済んで首実検して みたら、その中に夏侯淵のものがあった、ってな具合です。 もっとも、魏軍もそうやすやすとは崩れません。張郃と郭淮とが冷静に対応し、さらなる攻撃を阻止したの です。 とはいえ、魏の西方を司る元帥がいなくなったわけですから、ことは重大。ついに、曹操自身がゆくことに なり、曹操vs劉備の直接対決と相成ります。 ただ、そうはいっても、双方決め手に欠け、にらみ合いになります。これ以上留まっても、得るものはなし。 ついに曹操は撤退を決めます。 当然(?)、鶏肋の話もあり、楊脩の機智と死とが語られます。ただ、曹植の太子擁立に失敗した時点で、 失望していたようですから…この話にも、少し違った含みがあるのかも知れません。 かの楊震の末裔であるだけに、天地に恥じることはしていなかったのでしょうが、権力に囚われ、人をみる のが甘かったのか。結果論かも知れませんが、少し切ないものもあります。 そして、劉備は漢中王を名乗ります。これを、「ある意味、後漢王朝からの決別」であると指摘されている わけですが…これは盲点でした。まさしく、私の「思考の死角を突かれ」ました。 そうです。中国史をみると、王国名をそのまま帝国名にしているという例が多いわけで、漢も、もとをたど れば、高祖・劉邦が楚の懐王によって漢王に封ぜられて生まれた王国。本来は、漢の皇帝≒漢王なわけです。 神聖ローマ皇帝≒ローマ王の如し…で合ってましたっけ? と、なれば、漢帝国内に漢王はただ一人。ところが、劉備はその漢王を名乗ったわけです。 劉備自身は漢の帝室の血を引くと名乗っている(そして敵からも否定はされていない)点から、自らの政権 に正当性を持たせるため、漢の継承者を自認しているには違いないのでしょうが…。 長くなったので、ここで分けます。
211:左平(仮名) 2008/06/20(金) 22:28:00 ID:a7pA1sHW 続き。 劉備が王位に就くにあたり勧進がなされたわけですが、当然、関羽の名もあります(こういうものは現在の 署名等と同様、面と向かってせねばならないというわけではないので、おかしくも何ともないわけですが)。 ただ、本作においては、関羽の想いは劉備のそれとはやや異なっているように描かれているだけに、その時、 どのような心境でいたか…。 ともかく、関羽は、軍を北上させます。 「今年は長雨になる」。関羽はそれを予感していたわけですが、魏においても、温恢がそのことに気付いて いました。ただ、それが荊州方面の魏軍の共通認識になっていなかったために…。 今回のラスト付近の龐悳の戦いぶりは、悲愴の一言でした。ビジュアル的にも、実に絵になる場面です。 馬上にあっては決して後れを取らない勇将なれど、折からの豪雨に伴う堤防の決壊のため白兵戦を余儀なく される。 関羽の軍勢は安全な船上から容赦なく矢玉の雨を降らせるのに対し、龐悳たちはわずかに水没を免れた堤上 でそれをかわしながら戦わねばならない。 そして、降り続く雨。雨は、将兵の気力も体力も奪い取っていきます。 援軍がいつ来るかは知る由もなく、彼我の圧倒的な差の前に、降ろうとする者が現れます。龐悳は、自らそれ を討つという苛烈さを示しつつ、兵を鼓舞してなおも戦いを続けます。 関羽が説得を試みますが、龐悳も毅然として言い返します。 それぞれに義があり、理がある。しかし、溺死よりは…と降る者が増え、ついに、なお戦い続ける者が龐悳と 二、三名になり…。 今回でこの場面ということは、建安二十四(219)年も暮れ近く。気が付くと、曹操の命尽きる時も迫って いるわけですよね…。
212:左平(仮名) 2008/07/19(土) 21:16:32 ID:EIpoYnVD 三国志(2008年07月) 今回のタイトルは「関羽」。荊州を巡る攻防は、新たな段階に突入します。 わずか四人となった龐悳の軍勢。堤上に孤立し、もはや生きることを捨てた彼らの前に、一艘の小舟が流れ 着きます。 あたりは闇夜。物音をたてずに包囲網をかいくぐり、これなら…とわずかに助かる希望が生じたその時…! 龐悳、そして名も記されぬ三名とも、さぞや無念であったことでしょう。 最期まで戦い続けた龐悳。関羽もその将器を評価しますが、両者は決して交わりません。惜しいところでは ありますが、これが戦というものか。 その直後、関羽が放った偵察網に特大の獲物がかかりました。于禁率いる援軍が、雨中に孤立していたのです。 このままでは全滅は避けられない。于禁は、将としての、一つの決断を示します。 『降る』 この一事をもって、于禁の声望は地に堕ちます。しかし、降るに至った経緯とその後の彼の振る舞いをみると、 それはあまりに酷な話です。 作中では、于禁は、「兵を助けてくれるなら」という条件のもとで降っています。そして彼は、(後の話ですが) 劉備にも孫権にも仕えることなく、魏に復帰しているのです。 何かを救う為に敵に降ったが、節義を損なうことなく帰参した…。これは、関羽と同じです。何が二人を分けた のか。それは、何とも分かりません。 曹操は于禁の投降を嘆きますが、曹操の心身の衰えが、その判断に影響したということはないのでしょうか…。 援軍が壊滅した、となれば、樊城の曹仁は孤立します。しかし、副将の満寵ともども、降ったり撤退するつもりは 毛頭ありません。その理由は、(曹仁には)二つあります。 一つは、戦略上の意義。樊城に曹仁ある限り、関羽といえども軽々しく北上はできませんが、いなくなれば後顧 の憂いなく存分に北上される恐れがあります。 もう一つは、彼の矜持。いかにやむを得ない事情があったとはいえ、江陵から撤退したことは、彼の中ではトラ ウマとなっていました。ここでも撤退したら、二度と立ち直れない。そう、恐れていたのです。 食糧庫も水没し、状況は日々刻々と厳しくなっていきますが、これを乗り越えなければならないのです。 長くなったので、ここで分けます。
213:左平(仮名) 2008/07/19(土) 21:17:29 ID:EIpoYnVD 続き。 ここで、傍目には唐突にですが、孫権が登場します。 実のところ、孫権は、半ば手詰まりの状態になっていました。どうやっても、北上作戦がうまくいかないのです。 無理もありません。「張遼」の回をみてのとおり、あんなぶさまな敗北があったのでは…。 しかも、魯粛も世を去り、国家戦略を語れる人材がいないのです。劉備が漢中王を名乗った際に諮問しても、たれも 答えられないという有様。 いや、一人いました。「男子三日会わざれば刮目して待つべし」の呂蒙です。北上作戦の不利と荊州奪取の有利とを 比較し、後者の作戦を実行するよう、孫権に勧めたのです。 確かに、北上して徐州を取っても、直ちに魏との一大決戦となれば、勝てる見込みも低い上に大軍を張り付けねば なりませんから、やりくりがつきません。 一方、呉が長江を生命線とする以上、本拠地の楊州の上流にあたる荊州の確保は喫緊の課題。 魏が、直ちに呉に兵を向けることがないのを確認した上で、その作戦は開始されることとなります。 対関羽で、魏と呉とが手を組んだ。このことを極秘にすべきか公表すべきか。ここらへんの駆け引きは、なかなかに 面白いものがあります(というか、私などには、一回読んだくらいではよく分かりませんでした)。 知らぬは関羽ばかりなり…ということはありません。この知らせは、関羽の耳にもしっかりと入っています。ただ、 自身(とその作戦)に自信があるだけに、それを突かれることになるわけです。 ラストは、関羽vs徐晃。ただ、ここのくだりをみると、春秋時代の君子の如く振る舞おうとする関羽に対し、当代 の将軍として振る舞う徐晃、という感じで、少しおかしくも思えたのは私だけでしょうか。 …とここまで書いてみて、(個人的にですが)蒼天での陸遜が嫌いなわけが少しみえてきました。 関羽は左伝の愛読者として知られます。そして、(本作においては)左伝に描かれる君子の如くあろうとしています。 恐らく、于禁の投降を受け入れたのもそのためでしょう。戦場にも「礼」はあるのです。 蒼天での陸遜は、それを嘲笑していました(直接の理由は輜重の体制の不備なのですが、その原因は于禁とその軍勢 を捕虜として受け入れたためなので、捕虜を保護すること自体を嘲笑っているようにみえた)。 その、敵への敬意のなさが、気に入らなかったのかな、と。
214:左平(仮名) 2008/08/23(土) 21:23:38 ID:tI77SrF2 三国志(2008年08月) 今回のタイトルは「徐晃」。魏から見た、荊州での関羽との戦いに決着がつきます。 「関羽を捕らえた者には〜」のくだりに隠微な意図がある、との指摘には、考えさせられるものがあります。戦場で 関羽と会って話をし、何もしなければあらぬ疑念を招きかねないという危惧がそこにはあるからです(先の、馬超の ところでの韓遂がまさにそうでした。もっとも、ここで例として挙げられたのは崔琰ですが)。 曹仁・徐晃の力量を信頼しているにもかかわらず、曹操が無理を押して出陣しようかと何度も考えたことを思うと、 そういうのを一笑に付すわけにもいかないんですよね。 もっとも、そんな徐晃の思いはともかく、ここでの関羽は、悠々と引き揚げていきます(豊かな、とかふくよかな声 で〜という書き方をされているのをみると、関羽の存在感の大きさが分かります)。 そう、まだ、関羽の優位が完全に覆されたわけではないのです。 ただ、徐晃の将器も相当なものです。巧みに陣を構築し、じりじりと接近していきます。そして、ついに関羽の陣の 目と鼻の先の所にまで到達するのです(なぜか、【そういう表現はないはずなのですが】双方塹壕を掘ってこもって いるようなイメージを持ってしまいました)。 関羽は焦ってはいないものの、敵陣を崩す機を見いだせないままにここまでの接近を許したとなれば、不利なのは免 れません。 その後の激戦の末、負傷した関羽は陣を放棄し、再び船上の人となります。しかし、不思議なもので、徐晃の勝利で あるにもかかわらず、なお関羽にはゆとりがありました(なので、劣勢という感じがちっともしないんですよね)。 ところが、後方の士仁・糜芳が呉に降ったため、それどころではなくなり、ついに撤退を余儀なくされます。 かくして、魏は、何とか樊城・襄陽を守り切りました。 当代一の勇将・関羽との戦いに勝利し、かつ、その軍紀の確かさを以て、徐晃が、前漢の名将・周亜父の如しと称賛 されたのも宜なるかなというところです。 長くなるので続きます。
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