★『宮城谷三国志』総合スレッド★
219:左平(仮名)2008/10/12(日) 23:03:24 ID:LpP4Hk8EAAS
三国志(2008年10月)

今回のタイトルは「新制」。太子の曹丕が跡を継ぎましたから、前回のラストから続けて、今回、漢から魏への禅譲
を描く…と思っていましたが、半ば外れました(明らかに魏帝国成立後のエピソードもありましたが)。

さて、蒼天を読まれた諸氏はお気付きでしょうが、ここまで、描かれていない人物がいましたね。そう、魏諷です。
今回、後漢王朝が斃れる前のわずかな痙攣、という形で、その叛乱について、初めに少し触れられました。ただし、
主眼は、魏諷ではなく、そのために一時失脚した鍾繇です。

鍾繇が、魏諷の台頭に一役買っていた以上、何らかの処罰に服さねばならないわけですが、彼は、曹丕には好かれて
いました。かつて、名玦を献上し、かつその時の態度が良かった(この玦はしかるべきところにおさまった…と、曹
丕を持ち上げている)ためです。
ただ、財を持ちそれにとらわれると禍を招くと悟っていた鍾繇に対し、(いかに美辞麗句で飾っても)人の財を奪っ
た曹丕の、人としての器量に疑問符がついたのは否めません。

続いて、夏侯惇(不臣の礼…)、程c(公への叙任…)、曹洪(かつて借財を断られたのを根に持ち…)など、群臣
達について描かれます。
特に、曹洪については、彼の助命のために賢婦・卞太后が動いたことが触れられています。これまで、一切政治的な
言動をとらなかった彼女が動いたのは、ひとえに、曹洪の比類なき勲功(徐栄に敗れた曹操を生還せしめたこと)と、
功臣を微罪で処刑でもすれば、人心が曹丕から(のみならず魏から)離れる、と判断したためです。
さすがの曹丕も、(郭后を通じて)母の想いを察したか、処刑はしなかったのですが、だからといって無罪放免という
わけでもなかったので、人心はやや離れた、という具合。
父・曹操が薨じてから一年もしないうちに大規模な軍事行動。これを戒めた霍性の諫言を聞かず、彼を死に追いやると
いうこともありました。
長くなったので続きます。
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