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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
221:左平(仮名) 2008/11/23(日) 21:56:57 ID:9ZYiSxeo 三国志(2008年11月) 今回のタイトルは「禅譲」。いよいよ、魏帝国が興ります。そして、対抗すべく…。なお前回のラストは、今回の流れ とは特に関係ないようです。 父の(というか、曹氏の本貫の)譙に立ち寄った曹丕のもとに、皇帝からの使者が来訪します。曹丕に帝位を譲る、と いうのです。 禅譲。それはかつて、堯が舜に対して、舜が禹に対して為した、とされてはいますが、孔子の言行を記した『論語』に は触れられていない代物。あるいは、血統によらずして帝王の地位に就こうとした者達によって、戦国時代あたりに作 られた概念ではないか…と。と、なれば、こたびの禅譲は、史上初の…! 正直、目から鱗(が落ちる思い)でした。ここらあたり、自分はこれまで、陳舜臣氏に影響されていたな、という感も あります(禅譲というものを軽く考えていました)。 ※確かに、実権の所在を思うと壮麗な茶番ではあるのですが、伝説的な堯・舜・禹の例しかないものが、まさに『今』 為されようとしている…となれば、以降のものとはいささか性格が異なってもおかしくありませんね。 後世からみれば茶番でしかなくても、当時、その時代を生きた人からみれば真剣にやっているわけですから。 人は、自らの属するもの(時代、国、など)からは、完全に自由では有り得ない。とでも申しましょうか。 ここぞとばかりに、と言っては何でしょうが、群臣は荘重な上奏を次々と行い、曹丕も丁重に固辞する姿勢をみせます。 面白いのは、群臣が熱に浮かされたかのように騒げば騒ぐほど、曹丕は醒めているかのように書かれているところ。 しばし、皇帝と曹丕の、意地の張り合いの様相を呈しましたが…ついに曹丕はこれを受諾。晴れて、禅譲の儀式が執り 行われることと相成りました。 皇帝から山陽公となった劉協は何を思ったか。それは分かりませんが、彼にとって、玉座は決して座り心地の良いもの ではなかったのは、概ね間違いないでしょうね。 確かに、彼を擁立した董卓は、余りに敵を多く作り過ぎました。その、血塗られた手によって座らされた以上、その座 もまた血塗られたものであり、神聖な皇帝としての正当性に疑義を持たれてもやむを得なかったでしょう。その後の十 四年が、安らかなものであれば救われるのでしょうが…さてどうなのか。 長くなったので続きます。
222:左平(仮名) 2008/11/24(月) 19:44:34 ID:oWPH1hn9 続き。 さて、劉協に代わって帝位に就いた曹丕ですが、為さねばならないことは山積しています。気鬱になってもおかしくは ありません。武芸にも秀でた彼にとって、狩猟は数少ない気晴らしでした。 もともと狩猟は軍事訓練の性質も持ってはいるのですが、遊興としての面もあるわけで…。となると、回数が増えると これを諌める者が出るのも当然ですね。 やはり、出ました。鮑です。曹操の、おそらく唯一の盟友・鮑信の忘れ形見でもある彼は、その縁故・そして自身の 力量を以て、確固たる地位を築いているわけですが、なぜか(作中では、理由は書かれていないようですが)曹丕には 好かれていませんでした。はっきり言って嫌われてます。 曹丕からすれば、数少ない気晴らしに文句をつけられたように思ったのでしょうね。当然、聞き入れられません。 まあ、鮑も、曹丕に帝位に就くよう勧めた群臣の一人ですから、「汝らが帝位に就けと言っていたから帝位に就いた というのに、朕のすることに口を挟むか!」てな思いもあったのでしょうが。 …人としては、分かるんですけどね。ただ、帝王たる者がそれではいけません。 酷な言い方ですが、「曹丕は父・曹操には及ばない(それは本人もおそらく承知していた)。ならば、それを自覚して 次代に範を垂れれば良かったものを…」というわけです。 「恐れという感覚をもたぬ者は、真の勇気をもたぬ者である」。重く響きます。 一方その頃、蜀では…。「皇帝が位を追われ、殺害された」という(誤)報がもたらされます。劉備は、これを受け、 自らが帝位に就こうとします。劉氏の血胤たる自分には、帝位に就く正統性がある、というわけです。 これに対し、ひとり醒めている人物がいました。費詩です。 関羽と面識があった彼は、なるほど関羽の志は清いものであった、と感じるのでした。 曹操と対極にあることでここまできた劉備。しかし、益州侵攻以来、それが変質してきている…。生き残ることを考え るとやむを得なかったのでしょうが…。(後世の美化のゆえ、同一視はされませんが)袁術と同じ僭称者となった劉備。 何か、焦っている…?
223:左平(仮名) 2008/12/20(土) 15:30:20 ID:G2aSbWbi 三国志(2008年12月) 今回のタイトルは「報復」。蜀漢を中心に、動きがみられます。 晴れて?皇帝となった劉備が最初にしたこと。それは…呉を討つことでした(本作では、その動機はあくまで関羽を殺 されたことに対する報復として扱われています。地政学的な意図も考えられるところですが、劉備という人のありよう を思うと、こういうふうになるということでしょうか)。 趙雲・秦宓の諫言も聞き容れず、着々と準備にとりかかります。 話は変わりますが、ここで許靖の名が再び出てきました。実務面ではこれといった事績は挙げられていませんが、それ なりに気骨のある清廉な人物という感じで、割に好意的な書かれ方ですね。 所詮結果論…なのかも知れませんが、許劭に比べ、穏やかに天寿を全うできた分、勝っています。 あと、呉皇后(呉懿の妹)のことも。もともと、劉焉の子・劉瑁に嫁していたわけですが、夫が廃人となって早世した 後、寡婦となっていたところを劉備に…というわけで、波乱に富んだ生涯です(個人的には、劉備に嫁した時点で何歳 くらいだったのかが気になりますが。彼女と劉備の間に子は生まれたのか?等…)。 劉備とともに、呉との戦いに意欲的だった張飛(、そしてその死)をみるにつけ、関羽を喪ったことの衝撃は、相当に 大きかったようです。途中、劉備・関羽・張飛の関係が(他作品に比べ)やや希薄にみえたものですが、やはり、「義 は君臣といえども情は父子【兄弟?】の如し」ってなところでしょうか。 一方、呉の方は、というと…。こたびの戦いにおける最大の功労者・呂蒙が亡くなります。周瑜・魯粛に続き、軍事上 の偉材であった呂蒙を喪うわけですから、かなり堪えています(それはそうと、余計な気を使わせたくない、というの は分かるのですが、病室の壁に小さな穴を開け、そこから呂蒙の病状を覗くというのはどうも…。村上豊氏の挿絵も、 普段のほのぼの【?】調とはやや異質な感じに見えます)。 長くなりますので、続きます。
224:左平(仮名) 2008/12/20(土) 15:32:15 ID:G2aSbWbi 続き。 さて、呂蒙が亡くなり、また、魏・蜀漢の双方を敵にするわけですから、呉にとっては一大事です。孫権は、ここでも したたかに振る舞います。 蜀漢に対しては、言動に棘のない諸葛瑾を配置し、魏に対しては、(名目だけとはいえ)臣下の礼をとり攻撃される隙 を見せません。ただ、それらが十分な効果を挙げたか、というと…。 客観的に考えると、ここでは蜀漢は呉と戦うべきではないわけです。ですが、相手は劉備。良きにつけ悪しきにつけ、 人の常識に当てはまらない人物です(今回は、『皇帝としては』すべきでないことを敢えてしている…という含みを持 たせています。彼にとって、皇帝位というのは、何かの区切りではあってもそれ以上のものではない)。 また、魏としても、呉と蜀漢とが戦うというのであれば、この機に乗じて一気に呉を滅ぼし(蜀漢は後からゆっくりと …)という策もあったわけです。 ここでは、劉曄(その智謀は、あの郭嘉に近い!と)がそれを考えています。しかし…帝位について間もない曹丕から すると、それは受け入れ難いわけで…。 さて、呉が(名目だけとはいえ)臣下の礼をとったことで、于禁が魏に送還されたわけですが…曹操の陵墓に描かれた 己の無残な姿に打ちひしがれ、そのまま亡くなります。 生きて名誉回復を遂げた荀林父や孟明視には及ばなかったとされるわけですが…このあたりもまた、曹丕の器量に疑問 符が付けられるところなんですよね…。 ラスト。呉領内に進攻した蜀漢の軍勢は、補給に不安を感じ、補給路の確保にかかります。こ、これは…。
225:左平(仮名) 2009/01/24(土) 00:45:51 ID:ySonixWe 三国志(2009年01月) 今回のタイトルは「白帝」。西暦222年(ラスト付近は223年ですが)の情勢です。 関羽の仇を…という戦いなわけですから、呉の内憂たる異民族(ここでは五谿蛮)の協力は、ないよりあった方がいい …ってなわけで、馬良がその使者となり、無事成功します。 そうして、軍を進めるわけですが…いま一つ、動きが鈍いようです。「勝つ」戦いではなく、「負けない」戦いをして いる?ように見える、と。この戦いの、そもそもの始まりを思うと、あり得ないことではあるのですが…。 馮習、張南等の部将の名が見えます。一応、ひとかどの人物ではあるようですが、「他国に名の知られた将ではない」。 なるほど、演義では黄忠を入れたくなるわけです(【漢中攻防あたりの実績があるであろう】呉班、陳式の名もあります から、それなりの陣容ではあるんですけどね)。 これに対する陸遜は、というと…こちらも、いま一つ目立ちません。劉備が存外手堅く軍を動かしたため、付け入る隙が 見つからなかったのです(陸遜の余裕の台詞も、「この時点では」単なる強がり)。 そのため、戦いはひとまず膠着状態に入ります。 そして数か月が経過。お互い(!)、士気は落ちていました。ただ、蛇の如く長い陣を敷きつつも、各陣営間の連携が いま一つ機能していない蜀漢の方が、脆いところがあります。 これに気付いた陸遜は、火計を仕掛け、混乱したところを一気に衝きます。 これで、呉の軍事的勝利は確定。しかし、劉備の逃げ足は凄まじく(逃げることについては劉備にまさる天才はいない、 って…)、結局、取り逃がします。 しかし、ここで劉備を倒したとしても呉の危機はまだ終わらない、下手をすれば魏が蜀漢を併呑して事態はいっそう悪化 …ってなことも有り得るわけですから、呉としてはこれで良かったのでしょうけど。 長くなりますので続きます。
226:左平(仮名) 2009/01/24(土) 00:48:14 ID:ySonixWe 続き。 (個人的な感想ですけど)確かに鮮やかな勝利ではあるのですが、本作での陸遜は、余りぱっとしないように思えました。 火をもって大軍を壊滅させたわけですが、長社の戦いの時の皇甫嵩や赤壁の戦いの時の周瑜のような鮮やかさがどうも感 じられないのです。 魏が出てくるであろうことは予測しており、迎撃の算段も立ってはいるようですが、さらにその先は、となるとどうなの でしょうか。 後には丞相にもなっているわけですから、政治的な感覚もあるはずですが…。 さて、劉備はこの戦いで、もう一つの失策を犯していました。臨機応変の才を持つ黄権を自身の側から離していたのです。 劉備が敗れた結果、黄権は孤立。将兵を生かす為には、魏か呉のいずれかに降らざるを得なくなります(漢中攻防を勝利に 導いた名将の認識は、甘くありません。そして、その判断が、彼らを生かしたのです)。 結局、魏に降りますが、その進退はみごとなものでした。 しかし、孟達と黄権。生きるため、心ならずも魏に降り厚遇されたというところまでは同じなのに、その後の運命は相当に 異なるものになりました。降る時の態度をみてもそこまでの差が出るのがどうも解せぬのですが…。 さて、この頃の魏ですが…皇后の甄氏が亡くなります。ただの死ではありません。これ一つとっても、曹丕の行いに不快な ものがあります(結果、嫡子・曹叡の精神に「ひびが入り」ます。それがどれほどのものだったか。それは、まだたれにも 分かりません)。 そして、魏と呉の戦いが始まります。緒戦は、魏が優勢のようで、曹休・曹真といった将の活躍があります(曹仁・徐晃の 名も出ます)。さて、ここからどう動くか。
227:左平(仮名) 2009/02/22(日) 17:41:04 ID:qOqvofCv0 三国志(2009年02月) 今回のタイトルは「劉備」。とはいえ、前半は、魏vs呉の戦いの続きです。 戦いは、やや魏有利に進んでいます。とはいえ、長江をまたいでの戦いということもあってか、戦線が何方面かに分散して いるためもあってか、そうそう目を見張るような派手な会戦があるというわけではありません。 ○張遼あり、ということで、この方面では呉はほとんど動きません。張遼が病身であるにも関わらず、です。たった一人の 将にここまで怯えるのも何ですが、あの戦いからまだ十年も経っていないんですよね。 ○一方、曹仁は、敵兵力(この頃、敵将は周泰から朱桓に交替)が劣るとみるや、兵を四つ(曹仁、曹泰、常雕、王双、諸葛 虔ら)に分散し、速攻を仕掛けます。 やや傲慢なところがあるとはいえ、朱桓もなかなかの将。素早く反攻し、常雕らを討ち取り王双を捕らえる働きを見せます。 名将・曹仁にしては、(戦術的には誤っているわけではないとはいえ)やや焦りがあった、とも。 ○前線の将には、手柄ほしさに逸る危惧が。董昭、曹丕に適切な助言をし、十分に備えさせます。 結局、目立った成果はなく、魏は撤退します。防衛に成功したという点では呉の勝利ではあるのですが…。双方、特に得る ものもなかったようです。 魏…呉への侵攻としては中途半端な感がありますが、とりあえずは、魏の威を知らしめたと言い繕える程度の成果ではあり ます。しかし、ともに病によるものとはいえ、曹仁・張遼という名将が亡くなったのは、結構な損失です(曹仁56歳、 張遼の年齢は不詳ながら50代くらいか。あと十年は活躍してもおかしくないかと)。 慣れない気候で病状が悪化したのだとしたらなおさら痛いです。張遼の死の知らせを聞いた曹丕はいたく嘆いたといい ますが、病身にもかかわらずこの遠征に連れ出したわけで…。 呉…張遼の幻影に怯えた、というのも何ですが、魏撤退後にもやらかしていました。既に武装解除していた文聘と遭遇した にもかかわらず、策を(というか文聘の肚の座り具合を)恐れ、さらに、撤退するところを、追撃してきた文聘にして やられるという有様です。ここまでくると、孫権の戦下手も筋金入りですね。 そういえば、今回、陸遜の名を見なかったような…。 長くなるので続きます。
228:左平(仮名) 2009/02/22(日) 17:43:48 ID:qOqvofCv0 続き。 さて…場面変わって、永安。一応戦いは済んだのですから、皇帝たる劉備は首都・成都に帰るべきところですが、そう しないまま、病に臥します。 復讐戦も成らず、もはや、すみやかに冥府に行くことのみを願うという有様。ですが、皇帝として、せねばならぬことが あります。後事をいかにするか、ということです。 諸葛亮が呼ばれ、後事が託されます。「君の才は曹丕に十倍す…」。禅譲を匂わせる発言がありますが、諸葛亮は、後嗣・ 劉禅を全力で支えることを誓うのでした。 …この場面をいかにみるか。本作では、「劉備は、かつて自分が陶謙からされたように、諸葛亮に国を譲るべきだったの ではないか(それでこそ、捨て続けてきた劉備の生涯の最後にふさわしい)」という指摘があるわけですが、一方で、漢の 正統(※ただし、漢≠後漢であることに注意)が蜀漢にあり、とするためには、皇帝は劉氏でなければならないわけで…。 恐らく、劉備は病で気が弱くなり迷いがあったために、また、諸葛亮は、上記の正統性なくして国が保てないと考えたが故 に、かくの如き結果となったのか、と個人的には思うのですが…。 ともかく、高祖・劉邦を模倣してきたといえる劉備は、ここに世を去ります。
229:左平(仮名) 2009/03/22(日) 00:57:07 ID:+yelLx660 三国志(2009年03月) 今回のタイトルは「使者」。主に蜀漢と呉の修交の経緯が描かれます。 劉備が崩じ、嫡子の劉禅が跡を継ぎました。しかし、当年十七の、かつ、実績のない幼弱の新帝を戴く弱小国、となると、 その前途には厳しいものがあります。 さらに、丞相として全権を握ることとなった諸葛亮もまた、(その実績の割には)さほど知られておらず、威に欠けるの では、と見られています(魏の重臣達から臣従勧告の書状が送られたのもこの頃。劉備の死に動揺している今なら、あわ よくば…というつもりだったのでしょう)。 並の人物であれば浮足立つところでしょうが、諸葛亮はいっこうに動じません。魏からの書状を黙殺することで、蜀漢の 正統性(蜀漢こそ漢の正統を継ぐ王朝である【厳密には漢≠後漢ですが】)を主張したのです。 それが劉備の本意であったかは、今となっては分かりませんが…少なくとも、この時点で蜀漢が生き残るには、これしか なかったと思われます。ニュアンスに多少の相違はあるでしょうが、『攻撃こそ最大の防御』ってなところですね(とは いえ、呉との戦いによる国力の消耗は大きく、しばしの雌伏を余儀なくされるのですが)。 ただ、このままでは、蜀漢は魏・呉の双方を敵に回すことになりかねません。ただでさえ国力にハンデがあるのに二正面 作戦をとるのは愚の骨頂。 となると、呉との関係の修復が必要なわけです。その大役を仰せつかったのは…ケ芝でした。 荊州出身のケ芝は、乱世を避けて益州へ避難したわけですが、ここで「位は大将軍に至る」ってな占いを受けます。自分は 単に乱世を避けているだけなのに…ということで、この占いは特に信じなかったようですが、これが概ね当たったわけです から、面白いものですね。 呉に至ったケ芝は、呉王となった孫権に同盟による両国の利害を説き、その信頼を勝ち取ることに成功します。演義では、 宮中に大釜を引っ張り出して(釜茹でにしかねない…と脅すことで)ケ芝の度胸を試す…ってな場面もありましたが、その ような大仰な演出は不要でした。 何より、孫権自身、自国に迫る魏の脅威を痛切に感じているだけに、三国鼎立による力の均衡の重要性を深く認識していた のです。 しかし、外交においてこれほどのバランス感覚を有する孫権が、戦場では凡庸な将と化すのも不思議なものです(『子産』 での子罕が似たような感じですね)。 長くなるので続きます。
230:左平(仮名) 2009/03/22(日) 00:59:15 ID:+yelLx660 続き。 さて、ケ芝には、もう一つの使命がありました。張裔なる人物を探し出し、帰国させることです。 ケ芝の知る限りでは、彼は「益州南部で叛乱を起こした雍闓に捕らえられ、呉に送られた」冴えない人物に過ぎません。 また、孫権の認識も、似たようなものでした(実際、軍事的手腕については実績らしいものはありませんしね)。 彼の帰国は特に支障なく行われると思われたのですが…帰国前の会見で、その才幹の一端が漏れました。そのために、 ケ芝達は危うい思いをすることになり、孫権は、人材を見抜くことの難しさを思い知らされることになります。 ただ、いかに張裔の才幹を惜しんだとはいえ、君主たる者がひとたび交わした約束を反故にするというのはいかがなもの かと…。諌める人はいなかったのでしょうか。 ともあれ無事に帰国した張裔は、以降、諸葛亮の信奉者となります。諸葛亮自身は徒党を組む人ではなかったでしょうが、 協力者がいる方が何かとやりやすいのは確か。その意味では、この修交は、蜀漢にとっては実に有意義なものになりました。 さて、一方の魏では、呉の不誠実に対して曹丕が怒りを募らせ、ついにその討伐を命じます。群臣達の諫言も空しく、また しても呉との戦いが始まろうとしています。 この頃、郭氏が皇后となっていました。父に深く愛された彼女は、先の皇后の甄氏とは異なり、夫のパートナーたりうる 明朗な女性でした(曹丕のもとに来た時点で三十。となると、美貌だけの女性ではないのは言うまでもないですね)。 曹丕の、二人との出会いがもしも逆であったなら、どうだったのでしょうか…。
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