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246:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:52:23 ID:A/4303W/0 三国志(2009年11月) 今回のタイトルは「三帝」。名実ともに、三国の時代となります。 まずは、孫権の皇帝即位を知った蜀漢の反応及び対応が語られます。漢の正統を自任する蜀漢としては、孫権の 皇帝即位は到底是認できないものではあるのですが…ここは、丞相・諸葛亮の現実的判断に従うこととなります。 まずは、中原をおさえている魏との戦いを優先する、ということです。帝位を僭称した孫権の非を糾弾するの は、その後で、と。 しかし、もし、蜀漢が孫権の皇帝即位を非難し同盟を破棄したなら、孫権はすばやく帝位を降りて魏に詫びを 入れ、共同して蜀漢を攻めることもありうる、と(諸葛亮が憂慮した、と)いうのは、これまでの孫権の言動 をみるとありそうなのが何とも。孫権、信用されてませんね。 祝賀の使者として衛尉の陳震が派遣されます。このことは蜀漢の反応を気にしていた孫権を大いに喜ばせました。 諸葛亮の外交には裏がない。それは、一見すると非常に稚拙なようではありますが、実は、最も強固なものでも あります(ある意味で、敵にも味方にも信用されているわけですからね。信用は大事です)。 名の通り、権謀術数の限りを尽くしてしたたかに生き抜いてきた孫権には、この逆説が分かります。彼が諸葛亮 を絶賛したのも、こういうところを認めたからですね。 それにしても、諸葛亮の軍事的手腕については総じて辛口に書かれていますが、内政及び外交手腕については 絶賛といっていい書かれ方です。 「諸葛亮は信と誠の人である。それがすべてといっていい」。 政治には巧みだが軍事には疎い。『子産』の子罕などがそうですが、完全な人はなかなかいないものです。 長くなるので続きます。
247:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:53:41 ID:A/4303W/0 続き。 この祝賀の席で、(かつて対立した)周瑜を賞賛しようとした張昭にちくりと皮肉を言ったり、それに衝撃を 受けた張昭が引退を願い出ると引き留めたりと、孫権、家臣に対しても容易に腹の内を見せません。 諸葛亮と孫権。ともに優秀な為政者には違いないのですが、この差は何なのか。 孫権の皇帝即位の前年に、呂範が他界します。孫権は、彼を雲台二十八将の一人・呉漢(序列第二位)に例 えます。この際、既に亡くなっている魯粛をケ禹(同一位)に例えていることから、死してなお、魯粛への 評価が高いことが分かります。天下平定の計略を示したのは彼一人。その死をもって、孫権の、天下平定の 計略は潰えたということでしょうか。それ以降の、孫権の魏への対応を考えると、そんなふうに思えます。 さて、魏は無反応だったわけですが…宮城谷氏曰く、この時代は四国時代と言えなくもない、ということで、第 四の勢力―遼東の公孫氏―のことが語られます。 (実は、単行本第八巻の付録にもこのあたりのことが書かれています) 西暦229年時点での公孫氏の主は、公孫淵(字は文懿、というのが知られるようになったのは、ここ数年の皆 様の丹念な文献チェックの賜物ですね)。 初代の公孫度の孫で、四代目にあたります(公孫度―康―恭(康の弟)―淵(康の子))。 魏に服属している形なので名目上は侯に過ぎませんが、領内では王、いえ、内心では帝の如く振る舞っています。 そんな彼に、孫権は使者は派遣したわけですが…帝気取りの公孫淵に向かって「なんじを燕王とする」と言った ところで何のありがたみもないわけで…。さすがの孫権も、遠い遼東のことまでは、十分に把握していなかった ということでしょうか。あるいは、衰えの兆候…? (衰えうんぬんは、あくまで個人的な思いであって、作中でそのような書かれ方をしているわけではありません ので、念のため) まだ続きます。
248:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:55:30 ID:A/4303W/0 続き。 そうこうしているうちに、西暦230年。この年、魏は本格的な軍事行動を起こそうとします。蜀漢が対魏戦の 準備を着々と進めていると知った曹真が、機先を制してこれを討つことを考えたのです。 彼我の国力差を考えると、孫資の言うとおり、魏から無理に戦いを仕掛けずともよいのですが、今や魏軍の重鎮 たる曹真の意見をむげに取り下げることもできません(それに、敵に謀られて〜というわけでもありませんし、 蜀漢の攻勢を挫くという意義もある以上、無意味な戦いでもありませんからね)。 結局、秋になって、出撃が決定します。曹真と司馬懿がともに蜀漢に攻め込もうというのですから、大戦になる ことは必定でした…が、折からの長雨のため、軍は進めず。 呉に備えるため、洛陽を発ち許昌に滞在する曹叡に、華歆・楊阜達が諫言を呈します。 最後は、この楊阜のこれまでの生き様が描かれます。 時を遡ること、約二十年。手痛い敗北を喫したものの、曹操が去った後、勢力を盛り返して涼州を荒らす馬超を 倒すべく、姜叙の母達とともに蜂起する、というところまでです。 文官・武官というくくりでは文官なのでしょうが、なかなかどうして、苛烈な半生です。
249:左平(仮名) 2010/01/01(金) 01:32:42 ID:hGkpiVxC0 三国志(2009年12月) 今回のタイトルは「曹真」。曹真についての記述自体はさほど多くないと思うのですが、この後のことがあります からね…。 今回は、前回の続き、楊阜vs馬超です。辛うじて馬超のもとを脱出した楊阜は、姜叙達とともに馬超を打倒すべく 動き始めます。この計画が漏れなかったところに彼らの強運が、そして馬超の不運がありました。 蜂起するのは、馬超が拠点とする冀城にほど近い鹵城。ここを修築し、攻撃に備えるのですが、なぜここなのか? それには、理由がありました。 楊阜達が蜂起!これを知った馬超は激怒し、自ら出撃します。鹵城は小さく攻略にはそう時間はかかるまい。そう 思った馬超は軽装で城を出ました。 …実は、これが狙いでした。冀城から遠く大きな城であれば、馬超も用心していたでしょうが、鹵城が近く、かつ 小さい城であることから、物資等はおおかた冀城に残していたのです。 そして、楊阜の仲間は、冀城内部にもいました。 彼らは、馬超が出撃したのを見届けると、直ちに蜂起。物資を確保するとともに馬超の家族を殺し、迎撃態勢を整 えます。 このことを知った馬超は直ちに取って返し、冀城を落としますが、姜叙の母を殺したことで憎悪の連鎖を生み、楊 阜達の戦意をさらに高めることになりました。 結局、馬超は鹵城を落とすことはできず、南に落ちてゆくことになります。 ※後に曹操から賞賛された際、先見の明があったことをたとえるのに楊敞の名が出ましたが、霍光の妻〜となって います。「楊敞の妻」が正しいので、誤記だと思うのですが…。単行本待ちですね。 長くなりますので、続きます。
250:左平(仮名) 2010/01/01(金) 01:34:13 ID:hGkpiVxC0 続き。 ともあれ、その後の地方勤務も含めて高く評価された楊阜は、曹叡の代になって、中央に呼ばれます(彼の登用自 体は、曹丕の時代から検討されていたようになっています)。 このような経緯で中央に召された楊阜は、曹叡に対し、時として厳しい諫言を行います。土木建設事業を好む、と いうのが微妙なところではありますが、為政者としての資質において父・曹丕を上回る曹叡は、楊阜の諫言をよく 聞き入れ、施政に生かしていきます。 制度上は、皇帝の賢愚に関わりなく国政の運営が行われるようになっているとはいえ、やはり皇帝の資質は重要で あります。名君が現れれば国は活気づき暗君が現れれば国は沈滞する。今も昔も変わらない真理がここにあります。 前述のとおり、軍事的な視点も持ち合わせているであろう楊阜の目には、悪天候が原因とはいえ、こたびの戦いの 戦況が思わしくないことが見て取れました。 曹真の、時勢のみる目に衰えがあるのか?今の蜀漢は、弱くもなく、乱れてもいない。そんな相手を倒すのは容易 ではない。なぜ、今なのか…、と。 結局、長雨が止まぬ中、ついに撤収命令が下され、曹真達は傷心のうちに撤収することになります。この時、曹真 は、重い病の床に臥していました。出師を願い出た自分が、病であるからといって引くことはできない。その意地 が、かえって病状を悪化させたのでしょうか。 皮肉なことに、曹真達が撤収してからは、雨は降りませんでした。天には、まだ蜀漢を滅ぼす意思はない。国力面 では圧倒的な差をつけているとはいえ、相手に天の加護があるのか、という意識は、今後の魏にとっては、厄介な ものとなりそうです。 まだ続きます。
251:左平(仮名) 2010/01/01(金) 01:42:33 ID:hGkpiVxC0 続き。 撤収から数ヵ月後、曹真は息を引き取ります。不調に終わったとはいえ、先の蜀漢攻めは、呉が大規模な軍事行動 を起こせないうちに…と判断してのもの。彼もまた、楊阜と同様、国を思って行動する忠臣でありました。 とはいえ、ここで曹真をも失ったことは、魏にとっては、不吉な影を投げかけることになります。 さて、呉の方は、といいますと…。 念願の帝位に就いたとはいえ、彼我の国力差に変化があったわけではありません。帝位をより盤石なものにするため にも、孫権としては、軍事的な成果を挙げる必要があります。 呉にとって、目の上の瘤となっているのは、合肥。この頃、満寵の指揮のもと合肥新城が築かれたことで、ますます 攻め辛くなっています。 が、この頃、満寵も酒に溺れいささか衰えがみられる…という話があったことや、魏の主力が対蜀漢戦に向けられて いることから、孫権は、合肥攻略を実行に移します。 おおっぴらに合肥攻略を知らしめて魏軍を集めさせ、やがて兵を引いたその時に攻撃を仕掛けるというものです。策 そのものはなかなかのものだったのですが… …結果は、みごと失敗でした。満寵、酒は飲んでも飲まれてはおらず、孫権の策を看破していたのです。というか、 孫権が自らの策に溺れた感がありますが。 (孫権はきっと策を弄しているに違いない、と思われ警戒されていた) それでも懲りない孫権。満寵が駄目なら今度は、とばかりに、彼と仲が良くない王淩に策を向けます。こちらはいく ばくかの成果あり。 王淩、まっすぐな人なだけに、策には弱いみたいです。
252:左平(仮名) 2010/01/24(日) 01:32:51 ID:94F5vzQz0 三国志(2010年01月) 宮城谷氏が、2月1日から読売新聞で連載されるとのニュースが入りました。タイトルは「草原の風」。主人公は、 光武帝・劉秀(挿絵は、宮城谷作品ではお馴染みの原田維夫氏)。本作は楊震の「四知」から始まってますので、 時代的に繋がってくるかも知れません。 さて、今回のタイトルは「天水」。いよいよ、諸葛亮と司馬懿の直接対決です。ただ、両軍内部に対立の芽が…。 曹真が病に倒れ、蜀漢への備えが薄くなることを危惧した曹叡は、後任に司馬懿をあてます。「司馬」の氏を名乗る からにば文武兼備でなければ、と意気込む彼にとっては、来るべくしてきた任務と言えるでしょう。 それに、彼にとっては、蜀漢は因縁もあります(そのあたりの経緯は「魏国」の回で触れられています)。あの時、 何故、武帝(曹操)は軍を蜀に進めなかったのか。あるいは、「足ることなきを楽しむ」という心境だったのか。 …今となっては、分かりません。ともあれ、その結果として蜀漢が興り、彼は、それを討伐すべく任地に赴くことに なりました。 儒学は軍事を軽侮する(孔子が「信なくば立たず」と言った際、真っ先に軍備を諦めている)。兵法を極める者は 老荘思想的である…。司馬懿は、(それだけではないとはいえ)本質的には儒学の徒のはず。この点は、諸葛亮も 同様でしょう。と、なると…。 入念な偵察によって諸葛亮の進軍ルートをつかんだ司馬懿は、上邽に武将を派遣し、守らせようとします。しかし、 ここで暦年の勇将・張郃が「雍と郿にも派遣すべき」と主張します。ともに交通の要衝とはいえ、進軍ルートからは 外れているし、軍を分けることは、かつての楚vs黥布の例からも、よろしくない。そう判断した司馬懿は、この進言 を退けました。諸葛亮の進軍ルートは予想通り。ここまでは順調ですが…。 長くなるので、続きます。
253:左平(仮名) 2010/01/24(日) 01:34:13 ID:94F5vzQz0 続き。 しかし、戦場は生き物とでも言うべきか。司馬懿の目算はあっさりと狂います。こともあろうに、上邽に派遣した武 将達が野戦に及び敗れたのです。こうなると、蜀漢軍への抑えが利かなくなり、後手に回ってしまいます。 蜀漢軍が上邽に留まっている(周囲の麦を刈り、挑発及び兵糧確保を行った)との知らせを受けると、相手が待ち構 えていることを承知で、向かわざるを得ません。 司馬懿は昼夜兼行で向かい、諸葛亮の予想よりも早く戦地に着きました。かつての諸葛亮であれば、これで動揺した でしょうが…。彼は、将帥として、かなりの成長を見せていました。 かつては(決断の遅さから)袁紹に例えられていたのが、今は(奇策を好まないという点で)関羽に似ている、と 評されています。この数年での急成長がうかがえます。 戦いは、蜀漢軍優勢で進みます。ただ、慎重になる余り本陣を後方に置きすぎていたため、魏軍の動きの把握が遅れ、 決定的勝利を逸しました(この際、司馬懿は、劣勢をみるとあえて本陣を前に出して崩れを防いでいます)。 司馬懿は、渭水を渡ると壊滅すると分かっているため、高地を利用した陣を築き、蜀漢軍の猛攻をしのぎます。 ただ、こうしているのは、勝算あってのことではありません。司馬懿は窮地に陥ります。 やがて、蜀漢軍が退きます。これは誘い出すための陽動。それが分かっているため、追撃は極めて緩慢なものになり ますが、ここでまた、張郃が進言します。 しかし司馬懿はまたしてもこれを却下。前回はそれなりに却下する理由がありましたが、今回はさしたる理由もない ように思われます。張郃は曹操と同じく実戦派。司馬懿は理論派。そのあたりの違いを嫌ったのでしょうか。 まだ続きます。
254:左平(仮名) 2010/01/24(日) 01:36:41 ID:94F5vzQz0 続き。 追撃している、という体裁を整えるためだけの進軍。雍と郿に軍を派遣しておれば、このような事にはならなかった のでは…。それがまた、司馬懿には癪に障ります。 このような状況に諸将は不満を抱きます。勝算のない司馬懿は、その戦意に賭け、攻勢に出ます。…らしくない戦い 方です。 魏軍が攻勢に出た。これを見つめる将、魏延。 彼は、この戦いに先立ち、諸葛亮とは別行動をとって潼関を目指したいと申し出ますが、却下されました。自尊心の 強い魏延に自由行動を許すと、半独立勢力になりかねない、と危惧したためです(ここで董卓の名が出てくるあたり、 諸葛亮の警戒ぶりがうかがえます)。 魏延には言い分があります。天水郡を取ったところで魏は揺るぎもしない。しかし、長安を取ればどうか。中原に蜀 漢の軍が至れば、漢の御代を懐かしむ人々の心を動かすことができるのではないか、と。 かつて劉備は、どれだけ曹操に敗れても、決して屈しなかったではないか。いま、その志をたれが継いでいるという のか。皇帝(劉禅)は成都から動かず、諸葛亮は領土拡張に動くのみ。 諸葛亮を「怯(臆病)」と罵りつつも、その心中には哀しみがあります。「われを知ってくれたのは、ただ昭烈皇帝 (劉備)のみか」。 ともあれ、彼にとっては、眼前の魏軍は壊滅させるべき敵。曹仁、張遼、そして関羽なき今、魏延は恐らく中華最強 の将。その兵の強さも半端なものではなく、魏軍はたちまちにして圧倒されます。 劣勢を見た司馬懿はあっさりと退却し、陣にこもります。巻き添えを食って危い目にあった張郃は激怒しますが、司 馬懿はこれを無視。諸葛亮と魏延の対立は路線対立とでも言うべきもの(双方に理がある)ですが、司馬懿と張郃の それは、どこかすっきりしないものがあります。ここで、長雨。これが、どう影響するか。
255:左平(仮名) 2010/02/24(水) 00:09:07 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年02月) 今回のタイトルは「悪風」。この、意味するところは果たして…。 前回のラストで触れられた長雨が、間接的にですが、今回の諸葛亮と司馬懿の対決に決着をつけることになりました。 例年にない長雨。それとあわせてもたらされた、李厳(改名して李平)からの知らせは、諸葛亮に撤退の決断をさせる には十分すぎました。 長雨で補給路が断たれてしまっては、いかに戦況が有利とはいえ、戦えません。諸将に異存が出なかったのも、無理も ないところでしょう。 もちろん、将帥として成長した諸葛亮のこと、後拒にも抜かりはありません。 蜀漢軍、撤退開始。 この知らせを受けた司馬懿は直ちに追撃を命じますが、ひとり張郃は異を唱えます。魏にとっては、今回の戦いは防衛 戦。撤退する軍勢をことさら追撃する必要はないのです。しかし、司馬懿はこれを却下。不満を抱きつつも、方針が追 撃と決まった以上、それに従うのが武人の務め。張郃は、猛烈に追撃を開始します。 老練な張郃ですが、罠や伏兵を警戒しつつも、猪突猛進。時に忘我の境地に立ってこそ、無類の強さを発揮することが ある。この時の張郃がまさにそれで、結果として、蜀漢軍に少なからぬ損害を与えます。 しかし、国境付近の木門まで追撃した、その時… …蜀漢軍の伏兵の放った矢が、張郃に命中。即死ではなかったようですが、この傷がもとで、張郃は落命します。 将兵は名将の死を大いに嘆き悲しみましたが、司馬懿は、どこか心が軽くなったことを感じます。曹操の戦い方を継承 する唯一の存在であった張郃がいなくなったことで、自分の戦い方への批判者がいなくなった。そういうことでしょう か。 ともあれ、蜀漢軍が撤退したことで、司馬懿は、勝利したという形を作ることができました。曹操以来の名将・張郃と 引き換えにするにはどうかという気がしますが。 続きます。
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