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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
249:左平(仮名) 2010/01/01(金) 01:32:42 ID:hGkpiVxC0 三国志(2009年12月) 今回のタイトルは「曹真」。曹真についての記述自体はさほど多くないと思うのですが、この後のことがあります からね…。 今回は、前回の続き、楊阜vs馬超です。辛うじて馬超のもとを脱出した楊阜は、姜叙達とともに馬超を打倒すべく 動き始めます。この計画が漏れなかったところに彼らの強運が、そして馬超の不運がありました。 蜂起するのは、馬超が拠点とする冀城にほど近い鹵城。ここを修築し、攻撃に備えるのですが、なぜここなのか? それには、理由がありました。 楊阜達が蜂起!これを知った馬超は激怒し、自ら出撃します。鹵城は小さく攻略にはそう時間はかかるまい。そう 思った馬超は軽装で城を出ました。 …実は、これが狙いでした。冀城から遠く大きな城であれば、馬超も用心していたでしょうが、鹵城が近く、かつ 小さい城であることから、物資等はおおかた冀城に残していたのです。 そして、楊阜の仲間は、冀城内部にもいました。 彼らは、馬超が出撃したのを見届けると、直ちに蜂起。物資を確保するとともに馬超の家族を殺し、迎撃態勢を整 えます。 このことを知った馬超は直ちに取って返し、冀城を落としますが、姜叙の母を殺したことで憎悪の連鎖を生み、楊 阜達の戦意をさらに高めることになりました。 結局、馬超は鹵城を落とすことはできず、南に落ちてゆくことになります。 ※後に曹操から賞賛された際、先見の明があったことをたとえるのに楊敞の名が出ましたが、霍光の妻〜となって います。「楊敞の妻」が正しいので、誤記だと思うのですが…。単行本待ちですね。 長くなりますので、続きます。
250:左平(仮名) 2010/01/01(金) 01:34:13 ID:hGkpiVxC0 続き。 ともあれ、その後の地方勤務も含めて高く評価された楊阜は、曹叡の代になって、中央に呼ばれます(彼の登用自 体は、曹丕の時代から検討されていたようになっています)。 このような経緯で中央に召された楊阜は、曹叡に対し、時として厳しい諫言を行います。土木建設事業を好む、と いうのが微妙なところではありますが、為政者としての資質において父・曹丕を上回る曹叡は、楊阜の諫言をよく 聞き入れ、施政に生かしていきます。 制度上は、皇帝の賢愚に関わりなく国政の運営が行われるようになっているとはいえ、やはり皇帝の資質は重要で あります。名君が現れれば国は活気づき暗君が現れれば国は沈滞する。今も昔も変わらない真理がここにあります。 前述のとおり、軍事的な視点も持ち合わせているであろう楊阜の目には、悪天候が原因とはいえ、こたびの戦いの 戦況が思わしくないことが見て取れました。 曹真の、時勢のみる目に衰えがあるのか?今の蜀漢は、弱くもなく、乱れてもいない。そんな相手を倒すのは容易 ではない。なぜ、今なのか…、と。 結局、長雨が止まぬ中、ついに撤収命令が下され、曹真達は傷心のうちに撤収することになります。この時、曹真 は、重い病の床に臥していました。出師を願い出た自分が、病であるからといって引くことはできない。その意地 が、かえって病状を悪化させたのでしょうか。 皮肉なことに、曹真達が撤収してからは、雨は降りませんでした。天には、まだ蜀漢を滅ぼす意思はない。国力面 では圧倒的な差をつけているとはいえ、相手に天の加護があるのか、という意識は、今後の魏にとっては、厄介な ものとなりそうです。 まだ続きます。
251:左平(仮名) 2010/01/01(金) 01:42:33 ID:hGkpiVxC0 続き。 撤収から数ヵ月後、曹真は息を引き取ります。不調に終わったとはいえ、先の蜀漢攻めは、呉が大規模な軍事行動 を起こせないうちに…と判断してのもの。彼もまた、楊阜と同様、国を思って行動する忠臣でありました。 とはいえ、ここで曹真をも失ったことは、魏にとっては、不吉な影を投げかけることになります。 さて、呉の方は、といいますと…。 念願の帝位に就いたとはいえ、彼我の国力差に変化があったわけではありません。帝位をより盤石なものにするため にも、孫権としては、軍事的な成果を挙げる必要があります。 呉にとって、目の上の瘤となっているのは、合肥。この頃、満寵の指揮のもと合肥新城が築かれたことで、ますます 攻め辛くなっています。 が、この頃、満寵も酒に溺れいささか衰えがみられる…という話があったことや、魏の主力が対蜀漢戦に向けられて いることから、孫権は、合肥攻略を実行に移します。 おおっぴらに合肥攻略を知らしめて魏軍を集めさせ、やがて兵を引いたその時に攻撃を仕掛けるというものです。策 そのものはなかなかのものだったのですが… …結果は、みごと失敗でした。満寵、酒は飲んでも飲まれてはおらず、孫権の策を看破していたのです。というか、 孫権が自らの策に溺れた感がありますが。 (孫権はきっと策を弄しているに違いない、と思われ警戒されていた) それでも懲りない孫権。満寵が駄目なら今度は、とばかりに、彼と仲が良くない王淩に策を向けます。こちらはいく ばくかの成果あり。 王淩、まっすぐな人なだけに、策には弱いみたいです。
252:左平(仮名) 2010/01/24(日) 01:32:51 ID:94F5vzQz0 三国志(2010年01月) 宮城谷氏が、2月1日から読売新聞で連載されるとのニュースが入りました。タイトルは「草原の風」。主人公は、 光武帝・劉秀(挿絵は、宮城谷作品ではお馴染みの原田維夫氏)。本作は楊震の「四知」から始まってますので、 時代的に繋がってくるかも知れません。 さて、今回のタイトルは「天水」。いよいよ、諸葛亮と司馬懿の直接対決です。ただ、両軍内部に対立の芽が…。 曹真が病に倒れ、蜀漢への備えが薄くなることを危惧した曹叡は、後任に司馬懿をあてます。「司馬」の氏を名乗る からにば文武兼備でなければ、と意気込む彼にとっては、来るべくしてきた任務と言えるでしょう。 それに、彼にとっては、蜀漢は因縁もあります(そのあたりの経緯は「魏国」の回で触れられています)。あの時、 何故、武帝(曹操)は軍を蜀に進めなかったのか。あるいは、「足ることなきを楽しむ」という心境だったのか。 …今となっては、分かりません。ともあれ、その結果として蜀漢が興り、彼は、それを討伐すべく任地に赴くことに なりました。 儒学は軍事を軽侮する(孔子が「信なくば立たず」と言った際、真っ先に軍備を諦めている)。兵法を極める者は 老荘思想的である…。司馬懿は、(それだけではないとはいえ)本質的には儒学の徒のはず。この点は、諸葛亮も 同様でしょう。と、なると…。 入念な偵察によって諸葛亮の進軍ルートをつかんだ司馬懿は、上邽に武将を派遣し、守らせようとします。しかし、 ここで暦年の勇将・張郃が「雍と郿にも派遣すべき」と主張します。ともに交通の要衝とはいえ、進軍ルートからは 外れているし、軍を分けることは、かつての楚vs黥布の例からも、よろしくない。そう判断した司馬懿は、この進言 を退けました。諸葛亮の進軍ルートは予想通り。ここまでは順調ですが…。 長くなるので、続きます。
253:左平(仮名) 2010/01/24(日) 01:34:13 ID:94F5vzQz0 続き。 しかし、戦場は生き物とでも言うべきか。司馬懿の目算はあっさりと狂います。こともあろうに、上邽に派遣した武 将達が野戦に及び敗れたのです。こうなると、蜀漢軍への抑えが利かなくなり、後手に回ってしまいます。 蜀漢軍が上邽に留まっている(周囲の麦を刈り、挑発及び兵糧確保を行った)との知らせを受けると、相手が待ち構 えていることを承知で、向かわざるを得ません。 司馬懿は昼夜兼行で向かい、諸葛亮の予想よりも早く戦地に着きました。かつての諸葛亮であれば、これで動揺した でしょうが…。彼は、将帥として、かなりの成長を見せていました。 かつては(決断の遅さから)袁紹に例えられていたのが、今は(奇策を好まないという点で)関羽に似ている、と 評されています。この数年での急成長がうかがえます。 戦いは、蜀漢軍優勢で進みます。ただ、慎重になる余り本陣を後方に置きすぎていたため、魏軍の動きの把握が遅れ、 決定的勝利を逸しました(この際、司馬懿は、劣勢をみるとあえて本陣を前に出して崩れを防いでいます)。 司馬懿は、渭水を渡ると壊滅すると分かっているため、高地を利用した陣を築き、蜀漢軍の猛攻をしのぎます。 ただ、こうしているのは、勝算あってのことではありません。司馬懿は窮地に陥ります。 やがて、蜀漢軍が退きます。これは誘い出すための陽動。それが分かっているため、追撃は極めて緩慢なものになり ますが、ここでまた、張郃が進言します。 しかし司馬懿はまたしてもこれを却下。前回はそれなりに却下する理由がありましたが、今回はさしたる理由もない ように思われます。張郃は曹操と同じく実戦派。司馬懿は理論派。そのあたりの違いを嫌ったのでしょうか。 まだ続きます。
254:左平(仮名) 2010/01/24(日) 01:36:41 ID:94F5vzQz0 続き。 追撃している、という体裁を整えるためだけの進軍。雍と郿に軍を派遣しておれば、このような事にはならなかった のでは…。それがまた、司馬懿には癪に障ります。 このような状況に諸将は不満を抱きます。勝算のない司馬懿は、その戦意に賭け、攻勢に出ます。…らしくない戦い 方です。 魏軍が攻勢に出た。これを見つめる将、魏延。 彼は、この戦いに先立ち、諸葛亮とは別行動をとって潼関を目指したいと申し出ますが、却下されました。自尊心の 強い魏延に自由行動を許すと、半独立勢力になりかねない、と危惧したためです(ここで董卓の名が出てくるあたり、 諸葛亮の警戒ぶりがうかがえます)。 魏延には言い分があります。天水郡を取ったところで魏は揺るぎもしない。しかし、長安を取ればどうか。中原に蜀 漢の軍が至れば、漢の御代を懐かしむ人々の心を動かすことができるのではないか、と。 かつて劉備は、どれだけ曹操に敗れても、決して屈しなかったではないか。いま、その志をたれが継いでいるという のか。皇帝(劉禅)は成都から動かず、諸葛亮は領土拡張に動くのみ。 諸葛亮を「怯(臆病)」と罵りつつも、その心中には哀しみがあります。「われを知ってくれたのは、ただ昭烈皇帝 (劉備)のみか」。 ともあれ、彼にとっては、眼前の魏軍は壊滅させるべき敵。曹仁、張遼、そして関羽なき今、魏延は恐らく中華最強 の将。その兵の強さも半端なものではなく、魏軍はたちまちにして圧倒されます。 劣勢を見た司馬懿はあっさりと退却し、陣にこもります。巻き添えを食って危い目にあった張郃は激怒しますが、司 馬懿はこれを無視。諸葛亮と魏延の対立は路線対立とでも言うべきもの(双方に理がある)ですが、司馬懿と張郃の それは、どこかすっきりしないものがあります。ここで、長雨。これが、どう影響するか。
255:左平(仮名) 2010/02/24(水) 00:09:07 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年02月) 今回のタイトルは「悪風」。この、意味するところは果たして…。 前回のラストで触れられた長雨が、間接的にですが、今回の諸葛亮と司馬懿の対決に決着をつけることになりました。 例年にない長雨。それとあわせてもたらされた、李厳(改名して李平)からの知らせは、諸葛亮に撤退の決断をさせる には十分すぎました。 長雨で補給路が断たれてしまっては、いかに戦況が有利とはいえ、戦えません。諸将に異存が出なかったのも、無理も ないところでしょう。 もちろん、将帥として成長した諸葛亮のこと、後拒にも抜かりはありません。 蜀漢軍、撤退開始。 この知らせを受けた司馬懿は直ちに追撃を命じますが、ひとり張郃は異を唱えます。魏にとっては、今回の戦いは防衛 戦。撤退する軍勢をことさら追撃する必要はないのです。しかし、司馬懿はこれを却下。不満を抱きつつも、方針が追 撃と決まった以上、それに従うのが武人の務め。張郃は、猛烈に追撃を開始します。 老練な張郃ですが、罠や伏兵を警戒しつつも、猪突猛進。時に忘我の境地に立ってこそ、無類の強さを発揮することが ある。この時の張郃がまさにそれで、結果として、蜀漢軍に少なからぬ損害を与えます。 しかし、国境付近の木門まで追撃した、その時… …蜀漢軍の伏兵の放った矢が、張郃に命中。即死ではなかったようですが、この傷がもとで、張郃は落命します。 将兵は名将の死を大いに嘆き悲しみましたが、司馬懿は、どこか心が軽くなったことを感じます。曹操の戦い方を継承 する唯一の存在であった張郃がいなくなったことで、自分の戦い方への批判者がいなくなった。そういうことでしょう か。 ともあれ、蜀漢軍が撤退したことで、司馬懿は、勝利したという形を作ることができました。曹操以来の名将・張郃と 引き換えにするにはどうかという気がしますが。 続きます。
256:左平(仮名) 2010/02/24(水) 00:10:57 ID:???0 [sage ] 続き。 凱旋した司馬懿及び諸将には褒詞が授けられ、褒美や昇格といった栄誉が授けられました。このあたりの要領の良さが、 司馬懿が「政治的な人物」であるということでしょうか。 張郃についても、「壮候」と諡され、爵位は子に受け継がれましたし、何より、皇帝がその死を大いに嘆き、それ故に諌 められるくらいですから、それなりに栄誉は与えられてはいます。 しかし、(個人的には、ですが)どこかすっきりとしません。名将・張郃を使いこなせなかった司馬懿。曹操と比べると スケールダウンしている感は否めません。 …こうなると(「三国志」である以上、無理な話とは思いますが、為政者の堕落した最悪の事例として)王衍の末路まで 描いていただけないものか、と思ったりします。 一方、無事に撤退した諸葛亮ですが、長雨による補給路の遮断が予想ほどではなかったことに疑念を抱き、李平を詰問し ます。この際の李平の応答が諸葛亮を激怒させ、彼を失脚させるに至らせました。 普通、このあたりの経緯は、李平の怠慢(もしくはサボタージュ)とされていますが、真相はどうであったか。李平が諸 葛亮を敬仰していたことから、違う見方が必要では…という指摘がされています。 「無私の人」「法の人」である諸葛亮も人間。結果として、自身の過ちをなすりつけた形になることもある、と。 一方、呉に目を転じると…。孫権、欲求不満の様子。蜀漢と魏とが死闘を演じる中、漁夫の利を狙えそうなものですが、 目立った成果が挙げられません。 夷州(台湾とされています)・亶州(九州南部の島とされています)の探索も、原住民を連れ帰っただけに留まります。 そんな中、再び、遼東の公孫氏に目を付けるのですが…。 続きます。
257:左平(仮名) 2010/02/24(水) 00:12:40 ID:???0 [sage ] 続き。 夷州・亶州の探索もそうですが、水軍を擁するとはいっても、所詮は河川・湖沼といった波の穏やかなところにしか対応 できない代物です。外洋の過酷さには耐えられません。孫権がそのことを認識していなかったことが、このあたりの呉の 失態につながっているようです。 そのため、呉が遼東に使者を派遣したということは、(呉の船が魏領内の港に寄港することで)あっさりとばれてしまい ます。 さて、これをどうしたものか。皇帝の意向は殲滅ですが、魏にしても海上での戦いは未知の領域。と、なると…。 ここで田豫の名が浮上します。かつて劉備や公孫瓚に仕えたこともある歴戦の名将は、山東半島の突端、成山でひたすら 呉の船団を待ち続けます。 利を得るよりも害を除くことを重視する田豫は、諸将の不満の声を聞き流し、暴風雨にさらされ、成山で難破した呉の船 団をやすやすと捕獲・撃破しました。 正使を捕斬したわけですから、一定の成果を挙げたわけです。 しかし…田豫は、青州刺史・程喜の讒言を受けます。詰めが甘かったため船団が積んでいた財宝類の確保ができなかった、 というのです。 (この時点では程喜は清廉な人物とみられていたとはいえ)曹叡がこの讒言を聞き、田豫の功を軽く見たというのは、何 かいやな感じがします。 この「悪風」、単に呉の船団を襲った暴風雨を示すのではないような。そんな感じがあります。
258:左平(仮名) 2010/04/03(土) 11:15:08 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年03月) 今回のタイトルは「遼東」。以前に、「後漢のあとは、三国時代というより四国時代というほうが正しいかもしれない」。 と書かれていましたが、今回は、主に遼東の公孫氏について語られています。 さて、魏には多くの名臣がいたわけですが、今回最初に語られたのは、その一人、陳羣。前回見せ場のあった田豫と同様、 劉備と縁があった人でもあります。 謹厳実直な人となりで知られる彼は、優れたバランス感覚の持ち主であるとともに、帝王の言動の重さというものをよく 理解している人でもあり、まさに国家の重鎮というべき存在。 (なぜ史書に伝わっているのか、と言ってしまうと野暮ではあるのですが)彼の諫言は、密かに行われていたといいます。 なぜ密かに、という疑問があるわけですが…個人的には、「王に戯言無し」ということを意識していたのではないか、と 思います。 個人的な話かつ時事ネタで恐縮ですが、現内閣・与党の面々の言動のひどさを見るにつけ、この言葉がしばしば私の脳 裏をよぎります。彼らは、これまで一体何を学んだのでしょうか。作中では散々な書かれようだった袁紹・袁術でも、 この連中よりももっとましではなかったか、と。 帝王の言葉は極めて重く、また、誤りがあっては取り返しがきかないものです。誤りがあれば当然に正されるべきですが、 誤りがあったこと自体、帝王の尊厳を傷つけるもの。表立って諫言することは、帝王の誤りを明らかにしてしまいます。 それゆえ、諫言は密かに行うものである…。これは、臣下としての、彼の美学とでも言うべきものでしょう。 続きます。
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