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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
250:左平(仮名)2010/01/01(金) 01:34:13 ID:hGkpiVxC0AAS
続き。
ともあれ、その後の地方勤務も含めて高く評価された楊阜は、曹叡の代になって、中央に呼ばれます(彼の登用自
体は、曹丕の時代から検討されていたようになっています)。
このような経緯で中央に召された楊阜は、曹叡に対し、時として厳しい諫言を行います。土木建設事業を好む、と
いうのが微妙なところではありますが、為政者としての資質において父・曹丕を上回る曹叡は、楊阜の諫言をよく
省23
251:左平(仮名)2010/01/01(金) 01:42:33 ID:hGkpiVxC0AAS
続き。
撤収から数ヵ月後、曹真は息を引き取ります。不調に終わったとはいえ、先の蜀漢攻めは、呉が大規模な軍事行動
を起こせないうちに…と判断してのもの。彼もまた、楊阜と同様、国を思って行動する忠臣でありました。
とはいえ、ここで曹真をも失ったことは、魏にとっては、不吉な影を投げかけることになります。
さて、呉の方は、といいますと…。
省22
252:左平(仮名)2010/01/24(日) 01:32:51 ID:94F5vzQz0AAS
三国志(2010年01月)
宮城谷氏が、2月1日から読売新聞で連載されるとのニュースが入りました。タイトルは「草原の風」。主人公は、
光武帝・劉秀(挿絵は、宮城谷作品ではお馴染みの原田維夫氏)。本作は楊震の「四知」から始まってますので、
時代的に繋がってくるかも知れません。
省24
253:左平(仮名)2010/01/24(日) 01:34:13 ID:94F5vzQz0AAS
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しかし、戦場は生き物とでも言うべきか。司馬懿の目算はあっさりと狂います。こともあろうに、上邽に派遣した武
将達が野戦に及び敗れたのです。こうなると、蜀漢軍への抑えが利かなくなり、後手に回ってしまいます。
蜀漢軍が上邽に留まっている(周囲の麦を刈り、挑発及び兵糧確保を行った)との知らせを受けると、相手が待ち構
えていることを承知で、向かわざるを得ません。
司馬懿は昼夜兼行で向かい、諸葛亮の予想よりも早く戦地に着きました。かつての諸葛亮であれば、これで動揺した
省21
254:左平(仮名)2010/01/24(日) 01:36:41 ID:94F5vzQz0AAS
続き。
追撃している、という体裁を整えるためだけの進軍。雍と郿に軍を派遣しておれば、このような事にはならなかった
のでは…。それがまた、司馬懿には癪に障ります。
このような状況に諸将は不満を抱きます。勝算のない司馬懿は、その戦意に賭け、攻勢に出ます。…らしくない戦い
方です。
省22
255:左平(仮名)2010/02/24(水) 00:09:07 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2010年02月)
今回のタイトルは「悪風」。この、意味するところは果たして…。
前回のラストで触れられた長雨が、間接的にですが、今回の諸葛亮と司馬懿の対決に決着をつけることになりました。
例年にない長雨。それとあわせてもたらされた、李厳(改名して李平)からの知らせは、諸葛亮に撤退の決断をさせる
省27
256:左平(仮名)2010/02/24(水) 00:10:57 ID:???0 [sage ] AAS
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凱旋した司馬懿及び諸将には褒詞が授けられ、褒美や昇格といった栄誉が授けられました。このあたりの要領の良さが、
司馬懿が「政治的な人物」であるということでしょうか。
張郃についても、「壮候」と諡され、爵位は子に受け継がれましたし、何より、皇帝がその死を大いに嘆き、それ故に諌
められるくらいですから、それなりに栄誉は与えられてはいます。
しかし、(個人的には、ですが)どこかすっきりとしません。名将・張郃を使いこなせなかった司馬懿。曹操と比べると
省22
257:左平(仮名)2010/02/24(水) 00:12:40 ID:???0 [sage ] AAS
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夷州・亶州の探索もそうですが、水軍を擁するとはいっても、所詮は河川・湖沼といった波の穏やかなところにしか対応
できない代物です。外洋の過酷さには耐えられません。孫権がそのことを認識していなかったことが、このあたりの呉の
失態につながっているようです。
そのため、呉が遼東に使者を派遣したということは、(呉の船が魏領内の港に寄港することで)あっさりとばれてしまい
ます。
省18
258:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:15:08 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2010年03月)
今回のタイトルは「遼東」。以前に、「後漢のあとは、三国時代というより四国時代というほうが正しいかもしれない」。
と書かれていましたが、今回は、主に遼東の公孫氏について語られています。
さて、魏には多くの名臣がいたわけですが、今回最初に語られたのは、その一人、陳羣。前回見せ場のあった田豫と同様、
省20
259:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:16:10 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
陳羣は少なからぬ諫言を行いました。それはしばしば曹叡の心を打ち、受け入れられてきました。ただ、即位から数年が
経ち、その治世に自信がついてくると、ときに聞き入れられなかった事例も出てきます。
ここでは、二件(曹叡の愛娘の葬礼、宮殿造営)挙げられています。
宮殿造営については、秦の滅亡の一因とみる陳羣と国威発揚とみる曹叡との考え方のずれというものがあり、陳羣の真摯
省23
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