★『宮城谷三国志』総合スレッド★
256:左平(仮名)2010/02/24(水) 00:10:57 ID:???0 [sage ] AAS
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凱旋した司馬懿及び諸将には褒詞が授けられ、褒美や昇格といった栄誉が授けられました。このあたりの要領の良さが、
司馬懿が「政治的な人物」であるということでしょうか。
張郃についても、「壮候」と諡され、爵位は子に受け継がれましたし、何より、皇帝がその死を大いに嘆き、それ故に諌
められるくらいですから、それなりに栄誉は与えられてはいます。
しかし、(個人的には、ですが)どこかすっきりとしません。名将・張郃を使いこなせなかった司馬懿。曹操と比べると
省22
257:左平(仮名)2010/02/24(水) 00:12:40 ID:???0 [sage ] AAS
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夷州・亶州の探索もそうですが、水軍を擁するとはいっても、所詮は河川・湖沼といった波の穏やかなところにしか対応
できない代物です。外洋の過酷さには耐えられません。孫権がそのことを認識していなかったことが、このあたりの呉の
失態につながっているようです。
そのため、呉が遼東に使者を派遣したということは、(呉の船が魏領内の港に寄港することで)あっさりとばれてしまい
ます。
省18
258:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:15:08 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「遼東」。以前に、「後漢のあとは、三国時代というより四国時代というほうが正しいかもしれない」。
と書かれていましたが、今回は、主に遼東の公孫氏について語られています。

さて、魏には多くの名臣がいたわけですが、今回最初に語られたのは、その一人、陳羣。前回見せ場のあった田豫と同様、
省20
259:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:16:10 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

陳羣は少なからぬ諫言を行いました。それはしばしば曹叡の心を打ち、受け入れられてきました。ただ、即位から数年が
経ち、その治世に自信がついてくると、ときに聞き入れられなかった事例も出てきます。
ここでは、二件(曹叡の愛娘の葬礼、宮殿造営)挙げられています。
宮殿造営については、秦の滅亡の一因とみる陳羣と国威発揚とみる曹叡との考え方のずれというものがあり、陳羣の真摯
省23
260:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:16:55 ID:???0 [sage ] AAS
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とはいえ、曹叡は決して凡君・暗君の類ではありません。前述の、愛娘への過剰な哀惜も、国政の運営が大きな過失なく
行われているがゆえの余裕ともいえるわけです。

一方、魏人の目の届かない海上では…密かに、南に向かう船団の姿が。それは、呉に向かう、遼東の使節。彼らは、主・
省22
261:左平(仮名)2010/04/03(土) 11:18:12 ID:???0 [sage ] AAS
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ともあれ、呉の使節団は出港しました。時は春。孫権は上機嫌で送り出しました。その末路がいかなるものになるかも
知らずに。
往路は、まずは無難に進み、無事、遼東に到着しました。しかし、どこか様子が変です。呉に臣従するという割には、
遼東側に謙譲の姿勢が見られないのです。
省14
262:左平(仮名)2010/04/25(日) 21:44:15 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「張昭」。呉の重鎮・張昭の最後の見せ場(?)があります。

まずは、前回の続きから。正使・張弥の命をうけ、津に残る軍勢への連絡を託された健脚の二人。普通なら、何とか目的を
果たすところですが…ここでは、あっけなく討たれました。
省21
263:左平(仮名)2010/04/25(日) 21:46:21 ID:???0 [sage ] AAS
おっと…今回は4月です。コピペの修正を忘れてました。

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宮城谷作品のファンであれば、「薛」という字に覚えがあるはずです。そう、孟嘗君・田文の領地です。田文の死後、後継者
争いがあり国は滅ぼされましたが、その一族まで消滅したわけではありません。
省19
264:左平(仮名)2010/04/25(日) 21:47:14 ID:???0 [sage ] AAS
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諫言自体は、薛綜以外にも、陸遜等、数え切れないほど為されましたが、ひとり、肝心な人物の名がありません、張昭です。
自己嫌悪に陥っている孫権、これにかっときたのか、張昭の屋敷の門外に土を盛ります。「出てくるな」というわけです。
これをみた張昭も負けてはいません。「あの愚かな天子は、このように正言を吐く臣下の口を閉じさせたのだ」と、こちら
は門内に土を盛ります。絶対に自らは出ないという意思表示です。
省14
265:左平(仮名)2010/04/25(日) 21:47:45 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

ここで、曹丕の名が。父・曹操に「武」という諡号を付けたわけですが、事績を、そして、生前の曹操の言動を鑑みれば、
「文」と付けるべきではなかったか。この点からも、徳が薄いと言われています。

さて、呉の使節団を殲滅し、正使・副使らの首を魏に差し出した公孫淵ですが、使者の復命に疑心暗鬼を生じ、魏の使者に
省8
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