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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
284:左平(仮名) 2010/10/03(日) 22:21:49 ID:???0 [sage ] 続き。 楊儀の自滅は、実は、彼が嫌った魏延と同種のものでした。有能ではあれど、己の狭量のため、他者と協調できなかった ことが、破滅につながったのです。 ともあれ、彼らのような人材を生かしきれなかった蜀漢には、衰退の兆しが…という具合です。 一方、魏の方ですが…諸葛亮の死に対して安堵感が漂います。 魏からみた蜀漢は、存亡にかかわるほどではないとはいえ、うっとうしい存在でした。ひとたび戦いとなると、数万の 大軍を数ヶ月にわたって貼り付けなければならず、しかも、目立った成果が上がらないのです。 諸葛亮の死によって、ひとまずそれがなくなったわけですから、安堵するのも無理からぬところ。 …そのせいかどうか分かりませんが、この頃、魏では重臣の他界が相次ぎます。結果として、司馬懿の存在感が増して いくことになります。 蜀漢・呉とも、じり貧状態。聡明な曹叡にはそのことが手に取るように分かります。それに安心したか、宮殿の増築が 相次いで行われるようになります。楊阜などの諫言がありますが、こればかりは止まりません。 魏の国力を見せつける等の意味はあるとはいえ、ここまで増築に熱を挙げたのはなぜか。そこには、ある喪失からきた 所有欲があるのではないか、と。 続きます。
285:左平(仮名) 2010/10/03(日) 22:25:49 ID:???0 [sage ] 続き。 曹叡が喪失したもの。それは、母でした。そんな中、実母・甄氏の死について上奏する者が現れます(これが事実で あれば、何者かの策謀があったということになります)。 「この皇帝は、男には優しいが女には厳しい」。甄氏の死によって皇后となり、あわせて曹叡の義母となった郭氏は、 曹叡をそう見ました。 その聡明さをもって曹丕に深く信頼された郭氏の見立ては正しかったのですが、それは、自身にも向けられることに なろうとは…。 郭氏と曹叡の関係は、おおむね良好でした。しかし、この上奏があってから、曹叡が郭氏を見る目が変わってきます。 「我が母を殺したのはあなただ」 たとえ最終的な判断は曹丕が行ったとはいえ、郭氏がそう仕向けたのではないか。曹叡の、郭氏に対する言動から、 そんな黒い情念が漂ってくるようになりました。曹叡の憎悪に慄いた郭氏は倒れ、ほどなく亡くなります。 ただ、いざ郭氏が亡くなると、その憎悪もきれいさっぱりと無くなりました(追悼もきちんとしているし、郭氏の 一族は引き続き厚遇されている)。それが帝王の資質と言えばそうなのかも知れませんが…。 ともあれ、聡明な曹叡がみせた影の部分。これが魏にいかなる影響をもたらすのか。文章表現以上に含みが感じられる ように思えます。
286:左平(仮名) 2010/11/04(木) 00:07:40 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年10月) 今回のタイトルは「燕王」。遼東情勢が一気に緊迫してきました。 魏の元号は、青龍から景初に変わりました。この間、蜀漢・呉とも大きな動きはなく、曹叡は、宮殿の造営に専念…と いう具合です。 まだ統一も為されていない(民の軍役等の負担は続いている)のに宮殿を壮麗にするのはいかがなものか、という諫言 はいくつも出ているのですが、曹叡はこれに対し、処罰はしないものの聞き入れもしません。 諫言に対し処罰することもあった曹丕に比べると、処罰がないだけましではあるのですが、やや独善の傾向が。 とりあえず、国境を脅かす勢力がないと見極めた曹叡は、ここで、遼東に目を向けます。先に、呉の使者を斬って首を 送ることで魏への忠誠を見せたとはいえ、その後の対応には問題があったし、何より、領内の半独立政権の存在は、魏 としては好ましいものではありません。いずれは滅ぼすべき存在である、とみます。 しかし、遼東は、魏にとって脅威というほどの存在ではありません。今は動きがないとはいえ、魏にとっては、蜀漢・ 呉こそが脅威と考える諸臣にとっては、曹叡の判断は、いわば本末転倒。 またしても、多くの諫言があがってきます。 ここで、衛臻の名が。かつて曹操にいち早く協力の手を差し伸べた衛茲の子である彼は、曹氏三代に渡って貴臣として 遇された特別な人物です。その彼の諫言も、結局は受け入れられず、ついに、毌丘倹に(事実上の)公孫淵討伐の命が 下ります。 続きます。
287:左平(仮名) 2010/11/04(木) 00:08:33 ID:???0 [sage ] 続き。 毌丘倹は、この時点では幽州刺史。長く中央の官位を歴任した後でのこの人事は、一見左遷のように見えますが、実は 曹叡の信任は揺らいでいません。幽州刺史になったのは、いわば、公孫淵討伐の殊勲を挙げさせようとした配慮。 そのことが分かっているだけに、毌丘倹はがぜん張り切ります。 魏軍迫る。この知らせを聞いた公孫淵は煩悶します。この時点での遼東は、外交的にも孤立しており、勝ち目はまるで ありません。しかし、ここで降ると、たとえ貴族として遇されるとしても、遼東の地から去らねばなりません。 父祖が守り抜いてきたこの地で斃れるか、この地を捨てて富貴を保つか…。 そして、ついに、戦うことを決断します。 魏の使者を取り逃がしたため、奇襲という手は使えません。魏軍と遼東軍は、真っ向から激突します。魏軍の弩の威力 は凄まじく、遼東の騎兵は次々に斃れますが、公孫淵は無心に戦い続け、戦況は膠着状態となりました。 ここは長期戦に持ち込むべし、とみた毌丘倹は、いったん退きます。しかし、ここから状況は好転することなく、つい に撤退命令が出されます。 ここは、遼東が守り切りました。毌丘倹と公孫淵。今回の描かれ方をみると、ともにひとかどの将帥であると言えるの ですが、どこか決め手に欠けるように見受けられます。 続きます。
288:左平(仮名) 2010/11/04(木) 00:09:10 ID:???0 [sage ] 続き。 何とか守り切った公孫淵。しかし、これで安心というわけにはいきません。遠からず、次の出兵があることは間違い ないからです。兵力も増えるだろうし、将帥も、さらに上級の人物が充てられることは確実。勝てる要素は皆無なの です。 ここで、公孫淵は、必死の外交攻勢に出ます。その使者は、呉にも派遣されました。 呉に派遣された使者の名は伝わっていませんが、その勇気は讃えられて然るべきでしょう。なにしろ遼東は、ほんの 数年前に、呉の使者(及びその軍勢)を殺害したという前科があります。行けば殺されることは必至(それもかなり 残虐に殺される可能性大)。かといって、行かなければ、そして、行っても成果がない場合は、やはり殺されます。 とんでもない無茶振りですが…この使者は、この困難な使命をやり遂げました。 ただ、呉も、遼東を許したわけではありません。遼東は、もはや呉を欺く余裕もない。そう、見極められたがゆえの 対応でした。 兵を出すと言ったものの、それは、あわよくば遼東を征する為の兵。いずれにしても、遼東の命運は、風前の灯なの です。 そして、曹叡は、翌年の再出兵を決めます。 追記。 実は、今回、呉は動いています。朱然に兵を授け、荊州を攻めさせたのです。叔父の朱治の養子となり、孫権の学友 でもあった朱然は、呉の貴臣。ここまで多くの手柄を挙げてきた彼に、孫権は、大手柄を挙げさせたいと思ったので しょうが…ここでは、大敗を喫します(※ただし、朱然伝では勝ったように書かれている)。 関羽や曹真、張郃といった大物相手に、寡兵でよく戦ってきた朱然が、胡質(荊州刺史だし伝もあるので決して無名 ではないのですが、先に名の挙がった諸将に比べると地味)に敗れるというのも、不思議なものです。
289:左平(仮名) 2010/12/06(月) 01:34:35 ID:???0 [sage ] 今回のタイトルは「長雨」。この長雨が止んだ時、それが…。 今回は、魏の皇后達の話から始まります。曹操の正室・卞氏は大皇太后として天寿を全うしましたが、以降の皇后に ついては、というと、悲劇的な末路を辿るケースが相次いでいます。 曹丕の皇后であった甄氏は死を賜り、その後皇后となった郭氏は、曹叡(からの心理的な圧力)によって崩じます。 多くの面において父に勝る曹叡ですが、こと皇后達への扱いについては、さらに性質が悪いようです。 曹叡は、まだ王だった頃に、虞氏という女性を娶りました。本来であれば、彼女がそのまま皇后になるはずでしたが、 そうなりませんでした。曹叡の寵愛は毛氏に移り、彼女が皇后に立てられたためです。 激怒した虞氏は、卞氏に罵詈雑言を投げつけ、宮中を去ります。夫の祖母であり、国母ともいうべき女性にそのよう な暴言を吐くあたり、曹叡が嫌ったのも分かるのですが、彼女の言葉がまんざら的外れでもなかった、という結末に なろうとは…。 皇后となった毛氏は、男子を産むことはありませんでしたが、その日々は概ね穏やかなものでした。一族も立身し、 栄華を享受していたのですが…ある頃から、急激に状況が変わってきました。 その原因は、やはり、他の女性でした。曹叡の寵愛は、郭氏に移っていたのです。毛氏は、必死に情報を集めようと します。後宮の管理者でもある皇后には相当の権限があります。ですが、その権限は皇帝のそれには及びません。 毛氏の動きに不快感を感じた曹叡は、ある事件をきっかけに、毛氏を賜死させます。 続きます。
290:左平(仮名) 2010/12/06(月) 01:35:22 ID:???0 [sage ] 続き。 内においてはそのようなことがあり、また、築山を築くために大臣達に土を運ばせる(このことは董尋という人物に 強諌された)ということもありました。徐々にですが、曹叡という人物のマイナス面が顕在化しつつあります。 そんな中、ついに、遼東攻略が開始されます。将帥は司馬懿。地位といい、過去の戦歴といい、魏としてはこれ以上 ない人選です。このあたり、曹叡が本気であることがうかがえます。 出発にあたっての曹叡と司馬懿のやりとり一つみても、遼東攻略は、既に確実なものといえます(往還、戦闘、休息 を併せて一年と明言)。 既に絶体絶命の公孫淵。取り得る最善の策は「城を捨てて逃げる(その後、野にあって遊撃戦を展開する)」こと。 しかし、先に呉の使者を騙し討ちにした手口をみると、「損して得を取る」ことはできないであろう、と看破されて います。次善の策は「遼水を挟み総力を挙げて迎撃する」こと。恐らくこの策を取ってくるだろうから…それを封じ れば、下策「籠城すること」しか選択肢がなくなる、と司馬懿はみます。 遠征軍の司令官たる者はこうでなくてはならぬ。曹叡は、司馬懿の説明を満足げに聞きます。 いざ出発。戦地に赴く司馬懿は、ふと己のことを思います。今や軍の最高位たる大尉の任に就き、皇帝からは絶対の 信任を得ている。敵は弱小だが、その討滅は皇帝の宿願であり、それを為した暁にはこの上ない栄誉を得るであろう …。今こそ至福のときではないか、と。 とはいえ、禍福はあざなえる縄の如しともいいます。将帥たる者は、最悪の事態をも常に考える必要があるのです。 続きます。
291:左平(仮名) 2010/12/06(月) 01:36:17 ID:???0 [sage ] 続き。 そんな予感のせいばかりでもないでしょうが、司馬懿は、途中(郷里の温県)まで弟と息子を同道させます。温県に おいては、ひとときの休息をとり、旧交を温めます。この時、彼の胸裏には何が去来したのか。 再び司令官の顔に戻ると、軍は北に進みます。幽州に入ると、もうすぐ戦地です。 遼水の対岸には、予想通り、遼東の防衛ラインが構築されていました。守るは、公孫淵配下の将、楊祚と卑衍。もち ろん、この程度のことは想定内です。 司馬懿は、胡遵に兵を授け、南から渡河させます。これに敵が釣られたところで、自身は北から渡河。時間差を利用 した、見事な運用です。 まず、敵に一撃くれてやりました。遼東の兵力は、その殆どがここに集まっているはず。なれば…。司馬懿に迷いは ありません。堅固な防衛ラインには目もくれず、一路襄平を目指します。 楊祚と卑衍は、司馬懿の用兵に翻弄されます。二人には、ここで敵を防ぐという意識が強すぎたため、守るべきもの の優先順位を誤ったのです。 楊祚が追撃を試みますが、これこそが司馬懿の狙い。あっけなく打ち破られます。二人が襄平に帰還した時には、既 に魏軍が迫っていました。 公孫淵は、この迎撃を卑衍に命じます。
292:左平(仮名) 2010/12/06(月) 01:37:00 ID:???0 [sage ] 続き。 もはや打つ手なし。今はただ戦うのみ。卑衍の決死の覚悟が兵にも伝わったか、この戦いは激戦となります。互いに 策もなく、ただただ死力を尽くした攻防が繰り広げられます。 「これが、遼東国の存亡の分かれ目だな」 となれば己の名は歴史に残る…。これぞ武人の本懐ということか。卑衍は微笑を浮かべます。持てる力の全てを出し 尽くした卑衍は、激戦の果てに、ついに斃れました。 司馬懿は、襄平を包囲します。しかし、ここで長雨に見舞われます。撤兵すべしという論が多数を占めますが、曹叡 と司馬懿には、ここは耐え忍ぶべきということが分かります。 物事には、時宜というものがあります。今こそ、遼東攻略のとき。決して退いてはならないのです。 およそ一月後。ついに雨がやみました。このとき、襄平の内部においては既に食料が尽きています。襄平に籠る公孫 淵に残された選択肢は…。 追記: 本作においては、ちょっとしか出ない武将にも、ちょこちょこと見せ場があります。今回は、卑衍。結果だけみると、 司馬懿の用兵に翻弄され続けて終わったわけですが、決死の覚悟で臨み、ついに斃れたその戦いぶりは、将としては 平凡だったにせよ、実に格好いいものでした。 それと、将帥としての司馬懿の成長ぶり。勝つべくして勝っている、としか言いようがありません。なぜ、今、ここ で、このように動くのか。それらがきちんと論理的に語られているのが、実に読み応えがあります。
293:左平(仮名) 2011/01/06(木) 01:10:42 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年10月) 今回のタイトルは「曹叡」。魏にとって、祝賀すべき年が一転… いよいよ遼東国の最期の時が来ようとしています。 この時、襄平には多数の民がいました(数十万と書かれています)。彼らの全てが兵であれば司馬懿の軍勢より遙かに 多いのではありますが、大軍が良いとは限らないのは、本作でしばしば書かれるところ。実際、包囲が長引けば、食糧 の問題は避けては通れません。 ここではさらりと書かれるに留まりますが、襄平の内部で飢餓地獄が発生したことは言うまでもありません。 もはや勝ち目無しとみた楊祚が降り、城郭内に魏兵が入ると、公孫淵は、降伏の可能性を模索します。しかし、時既に 遅し。使者として派遣した相国達はあっさり斬られ、司馬懿の恫喝が(矢文で)送られます。慌てた公孫淵は、再度使 者を派遣しますが、これにより、司馬懿は公孫淵という人物が小人であると見切りました(そしてそれは、ひとり公孫 淵に留まらず、襄平の人々にとっても不運でした)。 なぜなら、先の恫喝には、まだ微かな寛容があったからです。そこには、このようなことが書かれていました。 「春秋の昔、鄭伯は楚子に敗れると、肉袒して降った。爵位が上の鄭伯でさえかような恭順を示したのである。いま、 われは上公であり、なんじは一太守に過ぎない。この使者は老いて耄碌していたのでなんじの言葉を誤って伝えたので あろう」。 もし、公孫淵がかような態度をとって恭順の意を示していたなら、多少の救いがあったでしょう。しかし、それができる 人間であれば、そもそもかような事態には至らないのです。 続きます。
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