★『宮城谷三国志』総合スレッド★
301:左平(仮名)2011/02/27(日) 01:30:30 ID:???0 [sage ]
三国志(2011年02月)

今回のタイトルは「赤烏」。今回は殆どが呉の話ですが、何かもどかしいというか、すっきりしないものがあります。

呂壱の跋扈と失脚。これは、単に呂壱一人の問題なのでしょうか。呉の人々は、そうは思いませんでした。彼が台頭
し得たのは、不完全とはいえ、皇帝・孫権の本音を代弁していたからです。人々は、そこに、孫権の本性を垣間見て、
省19
302:左平(仮名)2011/02/27(日) 01:31:51 ID:???0 [sage ]
続き。

このような履歴を持つ彼のことですから、当然、呂壱の重用について、しばしば諫言を行いました。呂壱を信任して
いた孫権は、当初、「あの歩騭まで讒をなすか…」と思うのですが、徐々に、呂壱への過度の信任に疑問を抱くよう
になります(決め手となったのは、前回書かれたとおり潘濬の諫言ですが、歩騭の諫言もなかなかに堪えたと思われ
ます)。
省22
303:左平(仮名)2011/02/27(日) 01:33:17 ID:???0 [sage ]
続き。

さて、そんな中、麒麟が見つかったという知らせがもたらされました。先に、「嘉禾」の発見をもって「嘉禾」と改
元したわけですが、今回は「麒麟」とはせず、自らも目撃した「赤烏」を元号としました。
麒麟が出るような太平の世でもないのに…ということのようですが、臣下の言葉に不信感を持っているような…。

省17
304:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:21:21 ID:???0 [sage ]
三国志(2011年03月)

今回のタイトルは「蔣琬」。蜀漢の話が出てくるのは、久しぶりですね。

タイトルは「蔣琬」ですが、まずは、前回の続きから。朱然を迎え撃つは、胡質と、蒲忠という将。まず、蒲忠が
突出したことから、戦況が動きます。
省22
305:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:22:42 ID:???0 [sage ]
続き。

「あれは、しくじった」

それは、明帝が崩じてから間もなくのこと。遺詔により、宮殿の造営は「休止」されましたが…一応は再開の可能
性がある以上、動員された人夫は帰るに帰れない状態に陥っていました。これを、明確に取り止めさせたのは、何
省22
306:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:24:31 ID:???0 [sage ]
続き。

司馬懿が出てきた。このことは、当然、樊城を攻める朱然にも伝わりました。こうなると、朱然としては、両方に
備えなければならない分、心理的重圧がかかるようになります。呉軍の動きから、速さが消えました。
一方、司馬懿率いる魏軍は悠然としています。こう書くと長期戦(突出している朱然をゆるゆると困窮させる)か
と思われるでしょうが、実は、短期決戦。
省25
307:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:26:12 ID:???0 [sage ]
続き。

さて、話は変わって、蜀漢の方は、と言いますと…。

文字通り、国政の全てを司っていた丞相・諸葛亮亡き後を託されたのは、それまで目立たない存在だった蔣琬でした。
目立たなかったのは、彼が後方支援的な役割を担っていた(そして、その務めを大過なくこなしていた)からですが、
省23
308:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:27:36 ID:???0 [sage ]
続き。

さて、またも話は変わって呉ですが…。

またしても戦果が挙がらなかったことに孫権は落胆したでしょうが、それどころではない事態が起こりました。
太子・孫登が亡くなったのです。
省24
309:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:28:38 ID:???0 [sage ]
続き。

そんな中、覇気のある諸葛恪は、魏との戦いを申し出ました。その戦略は、まずまず妥当なものであったため、
孫権も承認。再び、戦いとあいなります。
そして、またも司馬懿が…。

省9
310:左平(仮名)2011/05/07(土) 03:45:54 ID:???0 [sage ]
三国志(2011年04月)

今回のタイトルは「駱谷」。司馬懿と曹爽。二人の力量差がこれ以上ない形で出ました。

孫権の承認を得た諸葛恪は、魏との国境付近に軍を動かします。ここでの彼の動きは、父や叔父に軽忽さを心配
されたとは思えないほど堅実なもの。入念な偵察を行い、重要拠点たる寿春への侵攻に手応えを感じます。
省21
1-AA