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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
304:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:21:21 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年03月) 今回のタイトルは「蔣琬」。蜀漢の話が出てくるのは、久しぶりですね。 タイトルは「蔣琬」ですが、まずは、前回の続きから。朱然を迎え撃つは、胡質と、蒲忠という将。まず、蒲忠が 突出したことから、戦況が動きます。 良将・胡質に比べ、将器に劣る(胡質との連携ができていない)蒲忠ですが、まず、要地をおさえるという基本は できています。で、その先鋒が、何と、朱然の本隊と接触。 両軍とも「まさか、敵がここまで…」という場面でしたが、ここは、朱然の判断が勝りました。 退けば、やられる。覚悟を決めた朱然率いる呉軍の猛攻に、蒲忠の軍勢はガタガタに崩され、潰走。さすがの胡質 も、これでは打つ手がなく、撤退。呉軍は、樊城にまで迫ります。 この知らせを聞いた司馬懿は、直ちに出師を請います。その軍勢を率いるは、もちろん、司馬懿自身です。曹爽は これを冷ややかにみましたが、彼ほど軽忽ではない弟の曹羲は、このことを、より深刻に捉えました(といっても、 魏の危機、としてではなく、自分たちの危機、としてですが)。 この当時にあって、魏第一の名将・司馬懿が出師を請う以上、勝利は確実。となれば、その名声はますます高まる こともまた確実。それが、何を意味するか。曹羲には、それが分かるのです。 曹羲は、たとえ兄が魏の実権を掌握しているとはいえ、自分達が司馬懿に勝っているとは思っていません。何しろ、 (主に軍事的な)実績が違います。しかも、それだけではないのです。 続きます。
305:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:22:42 ID:???0 [sage ] 続き。 「あれは、しくじった」 それは、明帝が崩じてから間もなくのこと。遺詔により、宮殿の造営は「休止」されましたが…一応は再開の可能 性がある以上、動員された人夫は帰るに帰れない状態に陥っていました。これを、明確に取り止めさせたのは、何 を隠そう、司馬懿なのです。 明帝は名君でしたが、宮殿造営に熱狂したのは明らかな失策。それが分かっていた司馬懿は、人夫達を帰郷させて 農事に従事させるべきと説き、それが容れられたのです。魏の人々がこれを喜んだのは言うまでもないでしょう。 曹爽は、なるほど実権を握りはしましたが、人心を得る絶好の機会を逸したのです。 このことを悔やんでいた曹羲は、今回の危機を挽回の好機と見ました。それゆえ、兄が出師すべきと説いたのです が…曹爽は、これには乗りませんでした。ここで都を離れれば、司馬懿に実権を奪回される、と恐れたからです。 結局、廟議で結論を出そう、ということになりました。 廟議において、司馬懿は、現在の危機について熱弁を振るいます。かつて樊城は、魏最強の将であった曹忠候(曹 仁)が関羽と激戦を繰り広げた地であることからも分かるように、荊州の要衝です。ここを突破されるようなこと があれば、都・洛陽にまで影響が及ぶ恐れがあるのです。 最初は、何も大傅(司馬懿)おん自らが出られなくても…という雰囲気でしたが、当時の状況を知る者の言葉には 説得力があります。結局、司馬懿自らが出師することに決しました。 続きます。
306:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:24:31 ID:???0 [sage ] 続き。 司馬懿が出てきた。このことは、当然、樊城を攻める朱然にも伝わりました。こうなると、朱然としては、両方に 備えなければならない分、心理的重圧がかかるようになります。呉軍の動きから、速さが消えました。 一方、司馬懿率いる魏軍は悠然としています。こう書くと長期戦(突出している朱然をゆるゆると困窮させる)か と思われるでしょうが、実は、短期決戦。 というのは、朱然の後方には堅実な諸葛瑾がおり補給には不足しない(ゆえに、長期戦にしても困窮しない)ため。 ここで、司馬懿は、「声で呉軍を退かせてみようか」と言います。一体、どうやって。 「声」。それは、司馬懿の(蜀漢の総力を以て攻めてきた諸葛亮と渡り合い、公孫淵を屠った不敗の将という)名声 …だけではありません。 実は、両軍とも間諜が入っているため、将帥の命令は、ある程度敵軍に伝わっています。司馬懿は、これを利用した のです。 ただでさえ、魏第一の名将が精鋭を率いてきているのに、さらに決死の士を募って奇襲をかけてくるかも知れない。 しかも、包囲しているとはいえ、樊城にもほぼ無傷の敵軍がいる。朱然の精神は、徐々に乱れてきます。 いつ来るか分からない奇襲に怯えるうち、呉軍は、戦わずして崩壊しました。朱然も、命からがら逃走するという 有様。司馬懿は、またしても大いなる武勲を挙げました。 一方、東の方でも、魏軍が勝利。王淩の猛攻の前に、全jの軍勢が敗走しました。 一方では策多き司馬懿が勝ち、一方では策のない王淩が勝つ。戦いとは、何とも不思議なものです。 この武勲により、司馬懿の名声はますます高まりましたが、それに奢れば破滅を招く、ということを知る司馬懿は ますます謙譲の姿勢を見せるようになります。 続きます。
307:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:26:12 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、話は変わって、蜀漢の方は、と言いますと…。 文字通り、国政の全てを司っていた丞相・諸葛亮亡き後を託されたのは、それまで目立たない存在だった蔣琬でした。 目立たなかったのは、彼が後方支援的な役割を担っていた(そして、その務めを大過なくこなしていた)からですが、 当初は、この人で大丈夫なのか、と不安視もされました。 偉大なる先人の諸葛亮と常に比較される(そして、劣るとみなされる)のですから、割に合わない務めです。しかし、 蔣琬は、そういった無言の重圧にもめげず、淡々と職務に精励し、徐々に人々の信頼を勝ち取りました。 そうして数年が経ち、ようやく、魏との戦いのことを考えられるようになりました。彼は、諸葛亮の戦略をつぶさに 検証し、より効果的な戦略を練ります。雍州攻略(→魏の、西方との連絡を断つ)ばかりではなく、呉と連携して荊 州方面にも軍勢を差し向けられるよう、拠点を漢中から移すべきではないか、と考えたのです。 もっとも、諸葛亮もそうでしたが、蔣琬もまた、蜀漢の全権を司る立場。備えるべきは、魏との戦いばかりではあり ません。皇帝・劉禅の意向もあり、路線変更は、あくまで漸進的に。費禕や姜維とも、そのあたりの話はしています。 (しかし、費禕との話の中で、魏の雍州刺史・郭淮を「名将ではない」とはまた…) 呉が魏を攻める(ので蜀漢も出師してもらいたい)、という話がきた時、折悪しく蔣琬は療養中。やむを得ず、姜維 が雍州方面に出撃しましたが、これは呉の要請をないがしろにしていないというメッセージ以上のものではないため 大した戦いにはなりませんでした。しかし、この時、呉は出師せず。蜀漢が呉に対して不信感を持ったのは言うまで もなく、翌年、実際に呉が出師した時には、(蔣琬が療養中であったとはいえ)蜀漢は出師しませんでした。 続きます。
308:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:27:36 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、またも話は変わって呉ですが…。 またしても戦果が挙がらなかったことに孫権は落胆したでしょうが、それどころではない事態が起こりました。 太子・孫登が亡くなったのです。 蒲柳の質であることを自覚していた孫登は、そのゆえか、謙虚でかつ人の言葉に耳を傾けるという美質を持って いました。呉の人々は、この太子であれば、と、呉の未来に希望を抱いていました。それが、崩壊したのです。 新たに、三男の孫和が太子に立てられましたが、彼は、二人の兄(孫登、孫慮)に比べれば、才徳ともに劣って いるのに加え、父に愛されなくなっていました。そんな中、弟達のうち、四男の孫覇が王に立てられました。 群臣達は、これを、孫覇が特別視されているからでは、と思うようになります。 孫和か、孫覇か。本人の意思とは関わりなく、呉に不穏な空気が…。 悲報は、こればかりではありません。先の敗戦の直後に、諸葛瑾が亡くなったのです。驢馬のエピソード(本作 では、「之驢」と書き足したのは、子の諸葛恪でなく諸葛瑾自身となっています)からも分かるように、彼は、 機知に富むばかりでなく、謙虚で、人を傷つけずに場をまとめるという、優れた調整能力の持ち主でした。 呉は、かけがえのない人物を、立て続けに喪ったのです。 さて、彼には、(弟の養子に出した一名の他に)二人の子がいました。諸葛恪と諸葛融です。才気煥発な諸葛恪 は、孫権に気に入られていましたが、軽忽なところがあり、叔父の諸葛亮にも心配される始末。 一方、諸葛融は遊び好き。もっとも、それゆえか人当たりは良く、任地が比較的平穏なこともあって、乱世らし からぬのんびりとした生活を愉しんでいました。 続きます。
309:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:28:38 ID:???0 [sage ] 続き。 そんな中、覇気のある諸葛恪は、魏との戦いを申し出ました。その戦略は、まずまず妥当なものであったため、 孫権も承認。再び、戦いとあいなります。 そして、またも司馬懿が…。 追記。 司馬懿の戦いぶりの見事さが際立っています。いかに策が少ないと評価されたとはいえ、朱然は歴戦の将です。 それをあっさりと打ち破るとは…。ついつい、書き込みにも熱が入りました。
310:左平(仮名) 2011/05/07(土) 03:45:54 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年04月) 今回のタイトルは「駱谷」。司馬懿と曹爽。二人の力量差がこれ以上ない形で出ました。 孫権の承認を得た諸葛恪は、魏との国境付近に軍を動かします。ここでの彼の動きは、父や叔父に軽忽さを心配 されたとは思えないほど堅実なもの。入念な偵察を行い、重要拠点たる寿春への侵攻に手応えを感じます。 当然、こうなると、魏としても何らかの対応を考えねばなりません。曹羲は、兄の曹爽に出師を勧めますが、曹 爽はというと、どうも気乗り薄。父・曹真の影響もあり、騎馬での戦いには多少の自信のある彼ですが、呉との 戦いとなると水上戦が予想されるため、不得手な戦いをする気がしなかったのです。 「ここで兄上が行かないと、また大傅(司馬懿)が行きますぞ」 司馬懿と諸葛恪とでは、将器の差は明らか。またも司馬懿に名を成さしめたらどうなるか…。曹羲にはかなりの 危機感がありました。が、曹爽には届きません。 悪政を行っているわけではありませんが、浮華の徒を近付け華美に浸っている曹爽には、(特に軍事的な)名声 が欠けています。今回は、それを払拭する絶好の機会だったのですが…。 曹羲の予想通り、廟議において、司馬懿は出師すべきと主張します。策を好む孫権が一軍(諸葛恪)のみで魏を 攻めるとは考えにくい、と慎重論が多かったのですが、司馬懿は、魏の優位を列挙し、出師が決まりました。 その筋道立った説明を聞いた曹羲は、なおのこと、兄が行くべきであった、と悔やみます。 続きます。
311:左平(仮名) 2011/05/07(土) 03:47:04 ID:???0 [sage ] 続き。 彼我の兵力(高位にない諸葛恪が率いる一軍と最高位の司馬懿が率いる大軍)、時期(冬季は水位が下がるため 呉が得意とする水上戦になる可能性は低い)、将の力量…。司馬懿からすると、負ける要素がまるでない、楽な 戦いです。とはいえ、都にある曹爽の動きが気になる今の彼には、ささいな失策も許されません。それだけに、 慎重に軍を動かします。 一方、諸葛恪はというと、またとない機会を得たことにがぜん意気込みます。司馬懿が出てきたことで、魏との 一大決戦が見込まれるからです。 もちろん、自身の率いる一軍のみでは勝ち目はありません。それとなく、孫権自身の出陣を乞うたのですが… 結果は、柴桑に撤退せよ、との命令でした。 一時は出る気になった孫権ですが、今回の戦いは不利という占いが出ると、あっさりやる気をなくしたのです。 意外なところから、孫権の老いが顕現した形となりました。 武功を挙げる機会を逸したことを、諸葛恪は嘆きますが、皇帝の命とあってはどうにもなりません。 かくして、またも司馬懿は、鮮やかな勝利を収めました。諸葛恪に荒らされた南方を慰撫し、農政に気を配る 等、民政にも意を尽くした司馬懿の帰還は、まさに凱旋。魏の第一人者がたれであるか、これ以上ない形で、 示されたわけです。 続きます。
312:左平(仮名) 2011/05/07(土) 03:48:33 ID:???0 [sage ] 続き。 こうなると、曹爽としては面白くありません。そんな中、側近から、耳寄りな情報がもたらされました。蜀漢の 大司馬・蔣琬の病が篤く、軍を動かせない、というのです。 蔣琬の器量は郭淮より上とされています。それなのに、軍を動かさないのは何故か。動きたくとも動けないから ではないか。そう判断したのです。浮華の徒とはいえ才知はあります。その判断は、おおむね当たっていました。 父・曹真の無念を晴らすという意味でも、騎兵の使える西方で戦えるという意味でも、この情報は、曹爽には魅 力的なものでした。彼は、蜀漢への出師を考えます。 今回は、曹羲は反対しました。西方は、郭淮が大過なく治めており、急ぎ軍を動かさねばならない情勢ではない こと、蜀漢は未だ乱れていないことが、その理由です。しかし、曹爽は、またしても弟の助言を無視しました。 司馬懿も、この出師には反対しました。が、夏候玄が賛成したことにより、出師が決定しました。夏候玄は、曹 爽に近いとはいえ、浮華の徒とは異なり、人格・見識とも高く評価された人物。その彼が賛成するのであれば… というわけです。 不要不急の出師です。司馬孚、司馬師といった司馬懿に近い人々はこの出師を批判しますが、決まった以上は、 彼らにも止められません。 続きます。
313:左平(仮名) 2011/05/07(土) 03:50:04 ID:???0 [sage ] 続き。 曹爽達は、蜀漢への侵攻ルートを、これまで先人達(曹操、曹真、司馬懿)が通らなかったところに設定しました。 これまで使われなかったルートゆえ、備えも薄いであろうと判断したのです。 参謀の一人である楊偉はこれに反対します。そこは険しい道が続き、大軍の運用ができないからです。が、未知の ルートを使うという魅力に抗しきれなかったか、曹爽達は、楊偉の指摘を無視しました。 蔣琬が動けないのであれば、それより劣る者しかいない蜀漢の攻略など…と、曹爽達は敵を侮っていましたが、曹 羲が危惧した通り、蜀漢は、まだ崩れてはいませんでした。人材は、まだ尽きていなかったのです。 最初に魏軍を迎撃したのは王平でした。魏の大軍が予想外のルートから来襲したことにも慌てることなく、地の利 を生かして兵を巧みに動かし、兵力に勝る魏軍を翻弄。 そして費禕。超人的な記憶力と事務処理能力を持った彼は、魏軍の置かれている状況を的確に把握し、敵に全力を 出させないよう、完全包囲を避けつつ、みごと撃退に成功します。 王平の迎撃にあって軍を進められないことに苛立つ魏の軍中にあっては、口論がたびたび起こり、曹爽はそちらに 手を焼く有様。司馬懿からの書状によって危機的状況であることを理解した夏候玄が独断で撤退する等、統率も取 れないまま、いいところなく敗れました。 しかも、徴収された牛馬が多く死んだことで、西方の羌や氐の恨みも買うことになりました。曹爽は、名声を得る どころか、司馬懿に大きく後れを取ったわけです。さて、これからどうするのか…。
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