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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
308:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:27:36 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
さて、またも話は変わって呉ですが…。
またしても戦果が挙がらなかったことに孫権は落胆したでしょうが、それどころではない事態が起こりました。
太子・孫登が亡くなったのです。
省24
309:左平(仮名)2011/03/21(月) 01:28:38 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
そんな中、覇気のある諸葛恪は、魏との戦いを申し出ました。その戦略は、まずまず妥当なものであったため、
孫権も承認。再び、戦いとあいなります。
そして、またも司馬懿が…。
省9
310:左平(仮名)2011/05/07(土) 03:45:54 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2011年04月)
今回のタイトルは「駱谷」。司馬懿と曹爽。二人の力量差がこれ以上ない形で出ました。
孫権の承認を得た諸葛恪は、魏との国境付近に軍を動かします。ここでの彼の動きは、父や叔父に軽忽さを心配
されたとは思えないほど堅実なもの。入念な偵察を行い、重要拠点たる寿春への侵攻に手応えを感じます。
省21
311:左平(仮名)2011/05/07(土) 03:47:04 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
彼我の兵力(高位にない諸葛恪が率いる一軍と最高位の司馬懿が率いる大軍)、時期(冬季は水位が下がるため
呉が得意とする水上戦になる可能性は低い)、将の力量…。司馬懿からすると、負ける要素がまるでない、楽な
戦いです。とはいえ、都にある曹爽の動きが気になる今の彼には、ささいな失策も許されません。それだけに、
慎重に軍を動かします。
省20
312:左平(仮名)2011/05/07(土) 03:48:33 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
こうなると、曹爽としては面白くありません。そんな中、側近から、耳寄りな情報がもたらされました。蜀漢の
大司馬・蔣琬の病が篤く、軍を動かせない、というのです。
蔣琬の器量は郭淮より上とされています。それなのに、軍を動かさないのは何故か。動きたくとも動けないから
ではないか。そう判断したのです。浮華の徒とはいえ才知はあります。その判断は、おおむね当たっていました。
省19
313:左平(仮名)2011/05/07(土) 03:50:04 ID:???0 [sage ] AAS
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曹爽達は、蜀漢への侵攻ルートを、これまで先人達(曹操、曹真、司馬懿)が通らなかったところに設定しました。
これまで使われなかったルートゆえ、備えも薄いであろうと判断したのです。
参謀の一人である楊偉はこれに反対します。そこは険しい道が続き、大軍の運用ができないからです。が、未知の
ルートを使うという魅力に抗しきれなかったか、曹爽達は、楊偉の指摘を無視しました。
省19
314:左平(仮名)2011/06/01(水) 01:56:14 ID:???0 [sage ] AAS
国志(2011年05月)
今回のタイトルは「悶死」。何と言うか…序盤の、腐敗した後漢王朝の醜態をみるような、救いのない回です。
二回前に、呉の太子・孫登が亡くなったこと(それをうけ、三男の孫和が新たに立太子されたこと)が書かれて
いましたが、弟達のうち、孫覇一人を王に立て、のみならず、待遇を太子と同じくしたとなると…。
省23
315:左平(仮名)2011/06/01(水) 01:57:32 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
孫和の何がいけないのか。一方で、孫覇の何が良いのか。ここでは、そのことには触れられていません。少なく
とも、能力や言動など、具体的なものがあってのことではないようで、単に孫和への(あるいは、その母・王氏
への)愛情が薄れた。それゆえの…という書かれ方です。
しかし、それでは、臣下達はどうすれば良いのでしょうか。太子に具体的な問題点がない以上は、太子を尊ばね
省22
316:左平(仮名)2011/06/01(水) 01:58:51 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
事のおこりは、前々回の、王淩との戦いでした。敗走したとはいえ、こちらは朱然ほどの惨敗ではなかったようで、
かえって魏軍を退かせたりもしています。
勇戦して魏軍を退かせたのは全jの息子達でしたが、そのきっかけを作ったのは、張休(張昭の子)や顧承(顧譚
の弟)の奮戦でした。戦後の評価では、張休や顧承の方が高く評価されたのですが…全j達は、この評価に不満を
省22
317:左平(仮名)2011/06/01(水) 02:00:23 ID:???0 [sage ] AAS
続き。
吾粲は、低い身分から累進して太子大傅にまでなった、呉の偉材の一人です。行政・軍事ともに優れた手腕を発揮する
一方、嵐に遭って乗船が沈み、溺れている兵士を、(巻き添えを恐れて他の船が見殺しにする中)自船の危険を顧みず
救出するなど、思いやりの心を持った名臣でした。
彼もまた、この情勢を憂い、孫権にしばしば諫言を呈していたのですが、かえって讒言に遭い、落命したのです。
省20
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