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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
308:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:27:36 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、またも話は変わって呉ですが…。 またしても戦果が挙がらなかったことに孫権は落胆したでしょうが、それどころではない事態が起こりました。 太子・孫登が亡くなったのです。 蒲柳の質であることを自覚していた孫登は、そのゆえか、謙虚でかつ人の言葉に耳を傾けるという美質を持って いました。呉の人々は、この太子であれば、と、呉の未来に希望を抱いていました。それが、崩壊したのです。 新たに、三男の孫和が太子に立てられましたが、彼は、二人の兄(孫登、孫慮)に比べれば、才徳ともに劣って いるのに加え、父に愛されなくなっていました。そんな中、弟達のうち、四男の孫覇が王に立てられました。 群臣達は、これを、孫覇が特別視されているからでは、と思うようになります。 孫和か、孫覇か。本人の意思とは関わりなく、呉に不穏な空気が…。 悲報は、こればかりではありません。先の敗戦の直後に、諸葛瑾が亡くなったのです。驢馬のエピソード(本作 では、「之驢」と書き足したのは、子の諸葛恪でなく諸葛瑾自身となっています)からも分かるように、彼は、 機知に富むばかりでなく、謙虚で、人を傷つけずに場をまとめるという、優れた調整能力の持ち主でした。 呉は、かけがえのない人物を、立て続けに喪ったのです。 さて、彼には、(弟の養子に出した一名の他に)二人の子がいました。諸葛恪と諸葛融です。才気煥発な諸葛恪 は、孫権に気に入られていましたが、軽忽なところがあり、叔父の諸葛亮にも心配される始末。 一方、諸葛融は遊び好き。もっとも、それゆえか人当たりは良く、任地が比較的平穏なこともあって、乱世らし からぬのんびりとした生活を愉しんでいました。 続きます。
309:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:28:38 ID:???0 [sage ] 続き。 そんな中、覇気のある諸葛恪は、魏との戦いを申し出ました。その戦略は、まずまず妥当なものであったため、 孫権も承認。再び、戦いとあいなります。 そして、またも司馬懿が…。 追記。 司馬懿の戦いぶりの見事さが際立っています。いかに策が少ないと評価されたとはいえ、朱然は歴戦の将です。 それをあっさりと打ち破るとは…。ついつい、書き込みにも熱が入りました。
310:左平(仮名) 2011/05/07(土) 03:45:54 ID:???0 [sage ] 三国志(2011年04月) 今回のタイトルは「駱谷」。司馬懿と曹爽。二人の力量差がこれ以上ない形で出ました。 孫権の承認を得た諸葛恪は、魏との国境付近に軍を動かします。ここでの彼の動きは、父や叔父に軽忽さを心配 されたとは思えないほど堅実なもの。入念な偵察を行い、重要拠点たる寿春への侵攻に手応えを感じます。 当然、こうなると、魏としても何らかの対応を考えねばなりません。曹羲は、兄の曹爽に出師を勧めますが、曹 爽はというと、どうも気乗り薄。父・曹真の影響もあり、騎馬での戦いには多少の自信のある彼ですが、呉との 戦いとなると水上戦が予想されるため、不得手な戦いをする気がしなかったのです。 「ここで兄上が行かないと、また大傅(司馬懿)が行きますぞ」 司馬懿と諸葛恪とでは、将器の差は明らか。またも司馬懿に名を成さしめたらどうなるか…。曹羲にはかなりの 危機感がありました。が、曹爽には届きません。 悪政を行っているわけではありませんが、浮華の徒を近付け華美に浸っている曹爽には、(特に軍事的な)名声 が欠けています。今回は、それを払拭する絶好の機会だったのですが…。 曹羲の予想通り、廟議において、司馬懿は出師すべきと主張します。策を好む孫権が一軍(諸葛恪)のみで魏を 攻めるとは考えにくい、と慎重論が多かったのですが、司馬懿は、魏の優位を列挙し、出師が決まりました。 その筋道立った説明を聞いた曹羲は、なおのこと、兄が行くべきであった、と悔やみます。 続きます。
311:左平(仮名) 2011/05/07(土) 03:47:04 ID:???0 [sage ] 続き。 彼我の兵力(高位にない諸葛恪が率いる一軍と最高位の司馬懿が率いる大軍)、時期(冬季は水位が下がるため 呉が得意とする水上戦になる可能性は低い)、将の力量…。司馬懿からすると、負ける要素がまるでない、楽な 戦いです。とはいえ、都にある曹爽の動きが気になる今の彼には、ささいな失策も許されません。それだけに、 慎重に軍を動かします。 一方、諸葛恪はというと、またとない機会を得たことにがぜん意気込みます。司馬懿が出てきたことで、魏との 一大決戦が見込まれるからです。 もちろん、自身の率いる一軍のみでは勝ち目はありません。それとなく、孫権自身の出陣を乞うたのですが… 結果は、柴桑に撤退せよ、との命令でした。 一時は出る気になった孫権ですが、今回の戦いは不利という占いが出ると、あっさりやる気をなくしたのです。 意外なところから、孫権の老いが顕現した形となりました。 武功を挙げる機会を逸したことを、諸葛恪は嘆きますが、皇帝の命とあってはどうにもなりません。 かくして、またも司馬懿は、鮮やかな勝利を収めました。諸葛恪に荒らされた南方を慰撫し、農政に気を配る 等、民政にも意を尽くした司馬懿の帰還は、まさに凱旋。魏の第一人者がたれであるか、これ以上ない形で、 示されたわけです。 続きます。
312:左平(仮名) 2011/05/07(土) 03:48:33 ID:???0 [sage ] 続き。 こうなると、曹爽としては面白くありません。そんな中、側近から、耳寄りな情報がもたらされました。蜀漢の 大司馬・蔣琬の病が篤く、軍を動かせない、というのです。 蔣琬の器量は郭淮より上とされています。それなのに、軍を動かさないのは何故か。動きたくとも動けないから ではないか。そう判断したのです。浮華の徒とはいえ才知はあります。その判断は、おおむね当たっていました。 父・曹真の無念を晴らすという意味でも、騎兵の使える西方で戦えるという意味でも、この情報は、曹爽には魅 力的なものでした。彼は、蜀漢への出師を考えます。 今回は、曹羲は反対しました。西方は、郭淮が大過なく治めており、急ぎ軍を動かさねばならない情勢ではない こと、蜀漢は未だ乱れていないことが、その理由です。しかし、曹爽は、またしても弟の助言を無視しました。 司馬懿も、この出師には反対しました。が、夏候玄が賛成したことにより、出師が決定しました。夏候玄は、曹 爽に近いとはいえ、浮華の徒とは異なり、人格・見識とも高く評価された人物。その彼が賛成するのであれば… というわけです。 不要不急の出師です。司馬孚、司馬師といった司馬懿に近い人々はこの出師を批判しますが、決まった以上は、 彼らにも止められません。 続きます。
313:左平(仮名) 2011/05/07(土) 03:50:04 ID:???0 [sage ] 続き。 曹爽達は、蜀漢への侵攻ルートを、これまで先人達(曹操、曹真、司馬懿)が通らなかったところに設定しました。 これまで使われなかったルートゆえ、備えも薄いであろうと判断したのです。 参謀の一人である楊偉はこれに反対します。そこは険しい道が続き、大軍の運用ができないからです。が、未知の ルートを使うという魅力に抗しきれなかったか、曹爽達は、楊偉の指摘を無視しました。 蔣琬が動けないのであれば、それより劣る者しかいない蜀漢の攻略など…と、曹爽達は敵を侮っていましたが、曹 羲が危惧した通り、蜀漢は、まだ崩れてはいませんでした。人材は、まだ尽きていなかったのです。 最初に魏軍を迎撃したのは王平でした。魏の大軍が予想外のルートから来襲したことにも慌てることなく、地の利 を生かして兵を巧みに動かし、兵力に勝る魏軍を翻弄。 そして費禕。超人的な記憶力と事務処理能力を持った彼は、魏軍の置かれている状況を的確に把握し、敵に全力を 出させないよう、完全包囲を避けつつ、みごと撃退に成功します。 王平の迎撃にあって軍を進められないことに苛立つ魏の軍中にあっては、口論がたびたび起こり、曹爽はそちらに 手を焼く有様。司馬懿からの書状によって危機的状況であることを理解した夏候玄が独断で撤退する等、統率も取 れないまま、いいところなく敗れました。 しかも、徴収された牛馬が多く死んだことで、西方の羌や氐の恨みも買うことになりました。曹爽は、名声を得る どころか、司馬懿に大きく後れを取ったわけです。さて、これからどうするのか…。
314:左平(仮名) 2011/06/01(水) 01:56:14 ID:???0 [sage ] 国志(2011年05月) 今回のタイトルは「悶死」。何と言うか…序盤の、腐敗した後漢王朝の醜態をみるような、救いのない回です。 二回前に、呉の太子・孫登が亡くなったこと(それをうけ、三男の孫和が新たに立太子されたこと)が書かれて いましたが、弟達のうち、孫覇一人を王に立て、のみならず、待遇を太子と同じくしたとなると…。 臣下達の間に動揺が生じないわけがありません。当然ながら、心ある人々が、諫言を試みます。 この頃、呉においては、名臣達が相次いで亡くなりました。優れた調整者であった諸葛瑾については先に語られ ましたが、優れた行政家であった顧雍も、この時期に亡くなっています(かつて呂壱の専横に激しく憤った潘濬 は、これよりやや先に逝去)。 そして、この時期の孫権に強烈な諫言をしたのは、その孫・顧譚でした。 謹厳実直を絵に書いたような、名臣中の名臣・顧雍。その孫として早くから嘱目されてきた顧譚は、優れた計算・ 記憶力を持った、頭脳明晰な能臣でした。 孫権に信任されている。そう自負する彼は、諫言する際、「陛下ならば、きっと分かってくださる…」と、そう 思ったことでしょう。 しかし…孫権の反応は、彼には、甚だ意外なものでした。 かつての孫権であれば、衷心からの、筋道立った諫言には、必ず耳を傾けたことでしょう。しかし、この時の孫 権には、かつての柔軟性が失われていました。顧譚の諫言に激怒したのです。 続きます。
315:左平(仮名) 2011/06/01(水) 01:57:32 ID:???0 [sage ] 続き。 孫和の何がいけないのか。一方で、孫覇の何が良いのか。ここでは、そのことには触れられていません。少なく とも、能力や言動など、具体的なものがあってのことではないようで、単に孫和への(あるいは、その母・王氏 への)愛情が薄れた。それゆえの…という書かれ方です。 しかし、それでは、臣下達はどうすれば良いのでしょうか。太子に具体的な問題点がない以上は、太子を尊ばね ばならないわけですが、孫権の本心はそれとは異なるようです。しかし、孫権は、太子・孫和と魯王・孫覇の待 遇については沈黙したままです。 顧譚からすれば、何故激怒されたのか、分からなかったでしょう。この現状はおかしい、というのは、外部から みれば明らかなわけですから。しかし、孫権には、それが見えません。 孫権は、顧譚のことを、疎ましく思い始めました。 さて、孫権には、息子の他に娘も数人いました。その一人・魯班が、ここで影響力を行使します。この時点での 彼女の夫は、全j(周瑜の子・周循に先立たれた後に再嫁したもの)。 詳しい理由は不明ですが、彼女が、孫和の母・王氏を嫌っていた(その流れで孫和をも嫌っていた)ことが、事 態をさらに悪化させていきます。 公主を娶っている以上、夫の全jも反太子派ということになります。全jの子も既に成人して出仕しており、全 氏の影響力はそこそこあります。それが太子を貶める方向に動いたら… 続きます。
316:左平(仮名) 2011/06/01(水) 01:58:51 ID:???0 [sage ] 続き。 事のおこりは、前々回の、王淩との戦いでした。敗走したとはいえ、こちらは朱然ほどの惨敗ではなかったようで、 かえって魏軍を退かせたりもしています。 勇戦して魏軍を退かせたのは全jの息子達でしたが、そのきっかけを作ったのは、張休(張昭の子)や顧承(顧譚 の弟)の奮戦でした。戦後の評価では、張休や顧承の方が高く評価されたのですが…全j達は、この評価に不満を 抱きます。 彼らは、孫権が病に臥して判断力が弱っているのをみて、張休や顧承への讒言を行います。それも数度にわたって 行われましたから、孫権は、すっかりその讒言を信じ込んでしまったのです。 そしてついに、張休や顧承が、罪なくして処罰されることになりました。先の諫言が容れられなかったことに憤って いた顧譚がさらに強諌すると、孫権は、彼をも処罰。 顧譚・顧承兄弟は辺境に流罪となり、ある小人に恨みを買っていた張休は、その讒言により処刑されます。 これだけでも大問題なのですが…この、王朝をずたずたに引き裂く裂け目に、丞相の陸遜までもが墜ちたのです。 名行政官たる顧雍が亡くなった後、陸遜は丞相に任ぜられました。とはいえ、魏との戦いが続く以上、任地を離れる わけにはいきません。かつての諸葛亮の如く、皇帝のおわす都から遠く離れた地で政務を行っていたわけですが… そんな陸遜に、都の変事が聞こえてきます。何と、吾粲までもが処刑されたというのです。 続きます。
317:左平(仮名) 2011/06/01(水) 02:00:23 ID:???0 [sage ] 続き。 吾粲は、低い身分から累進して太子大傅にまでなった、呉の偉材の一人です。行政・軍事ともに優れた手腕を発揮する 一方、嵐に遭って乗船が沈み、溺れている兵士を、(巻き添えを恐れて他の船が見殺しにする中)自船の危険を顧みず 救出するなど、思いやりの心を持った名臣でした。 彼もまた、この情勢を憂い、孫権にしばしば諫言を呈していたのですが、かえって讒言に遭い、落命したのです。 このままではいけない。陸遜は、何度も上洛(して諫言すること)を請いますが、孫権は、理由を明示することなく、 それを却下します。あるいは、我が心(弟と待遇を同じくされるという屈辱に耐えかねて太子が自ら位を辞するよう 仕向けている)を忖度せよ、という暗黙の意思表示ではなかったか、と書かれていますが… 陸遜がさらに請うと、孫権はこれに激怒。ついに、陸遜は悶死するに至りました。 …以前の江夏諸郡での所業もあり、個人的には陸遜には好感は持っていませんが、国を支える重臣がこのような形で 亡くなるというのは、さすがに…。 ここまでみると、(本来はおかしい言い方ですが)太子派が一方的に弾圧されている格好ですが、この混乱は、まだ 続きます。全jや、(陸遜の死後に丞相となったがほどなく他界した)歩騭も、自身は穏やかに死ねたようですが…。 呉の不幸は、一方で魏の幸福。陸遜までもがただならぬ死を遂げたとなれば、呉国内の混乱は相当なものとみた王淩 は、馬茂という人物を埋伏として送り込み、孫権の暗殺をもくろみますが、これは失敗。 暗殺計画に怒った孫権が、朱然の意見を容れてまたしても魏との戦いが…。
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