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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
314:左平(仮名)2011/06/01(水) 01:56:14 ID:???0 [sage ] AAS
国志(2011年05月)
今回のタイトルは「悶死」。何と言うか…序盤の、腐敗した後漢王朝の醜態をみるような、救いのない回です。
二回前に、呉の太子・孫登が亡くなったこと(それをうけ、三男の孫和が新たに立太子されたこと)が書かれて
いましたが、弟達のうち、孫覇一人を王に立て、のみならず、待遇を太子と同じくしたとなると…。
臣下達の間に動揺が生じないわけがありません。当然ながら、心ある人々が、諫言を試みます。
この頃、呉においては、名臣達が相次いで亡くなりました。優れた調整者であった諸葛瑾については先に語られ
ましたが、優れた行政家であった顧雍も、この時期に亡くなっています(かつて呂壱の専横に激しく憤った潘濬
は、これよりやや先に逝去)。
そして、この時期の孫権に強烈な諫言をしたのは、その孫・顧譚でした。
謹厳実直を絵に書いたような、名臣中の名臣・顧雍。その孫として早くから嘱目されてきた顧譚は、優れた計算・
記憶力を持った、頭脳明晰な能臣でした。
孫権に信任されている。そう自負する彼は、諫言する際、「陛下ならば、きっと分かってくださる…」と、そう
思ったことでしょう。
しかし…孫権の反応は、彼には、甚だ意外なものでした。
かつての孫権であれば、衷心からの、筋道立った諫言には、必ず耳を傾けたことでしょう。しかし、この時の孫
権には、かつての柔軟性が失われていました。顧譚の諫言に激怒したのです。
続きます。
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