★『宮城谷三国志』総合スレッド★
322:左平(仮名)2011/07/04(月) 01:36:27 ID:???0 [sage ] AAS
追記
1、
曹爽達は享楽に耽っているわけですが、ここで出てきたのが「地下室」。名前自体は出ませんでしたが、「春秋時代に
地下室をつくった貴族が〜」というと、鄭の伯有が思い浮かびます。鄭と魏の国力を思うと、曹爽がつくらせたそれは、
相当な規模のものだったのでしょうね。
ただ、伯有の最期を思うと、曹爽の行く末も良いものではない、という予感を持った人々もいたことでしょう。
省14
323:左平(仮名)2011/08/05(金) 00:55:06 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2011年07月)

今回のタイトルは「非常」。いよいよ、魏を揺るがす大事件が勃発します…!

まずは、前回の続きから。李勝が「荊州(けいしゅう)」刺史になる、というのを、司馬懿は「并州(へいしゅう)」
刺史になる、と勘違いします。何度も間違うため、ついには、「わたしは、本州たる荊州の刺史になるのです」と言わ
省22
324:左平(仮名)2011/08/05(金) 00:56:10 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

曹爽は、(この時点での)魏の最高実力者。当然ながら、現実の軍事・行政に関わります。その目でみると、司馬懿の
老衰は、蜀漢や呉に対抗できる人材が一人減ることをも意味するのです(李勝が哀しんでいるのも、実際に地方行政に
携わっているが故のもの、と考えると、また違った意味合いが見て取れます。ずっと中央にいたであろう何晏、ケ颺に
は、恐らく理解の外にあることでしょうが)。
省19
325:左平(仮名)2011/08/05(金) 00:57:21 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

一つ、手段がありました。永寧宮(→皇太后の郭氏)です。皇太后であれば、皇帝不在の折に、非常大権を発動する
ことも可能なのです。ただし、これはあくまで非常手段。
このクーデターは、司馬懿といえども、十分な勝算があって行うものではないのです(もし、曹羲が城内に留まって
いれば…その時は運が無かったと思うしかない、とも言っていますから、まともに対応されたら負けるのです)。
省22
326:左平(仮名)2011/08/05(金) 00:58:32 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

とはいえ、いまだ皇帝は曹爽派の中にいます(皇帝が、皇太后の詔を無効とすれば、一気に情勢はひっくり返る恐れが
あります)。司馬懿は、有力者の支持を取り付けるべく、動きます。

ここで名の挙がった有力者とは、高柔、王観、そして蒋済の三人です。高柔は、かつて曹操と敵対して倒された高幹の
省23
327:左平(仮名)2011/09/04(日) 02:33:56 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2011年08月)


今回のタイトルは「霹靂」。曹爽達にとっては、まさにそんな感じだったのでしょうね。しかし、それだけではおさまら
ないわけで…。

省21
328:左平(仮名)2011/09/04(日) 02:35:02 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

ありえない話ではありません。歴史をひも解けば、前例はあるのです。曹爽達の傀儡の如き天子への同情がある二人は、
天子を救うべく、動き始めました。
ともかく、曹爽達がどうなるか。それが分からないことにはどうにもなりません。二人は、司馬懿のもとに赴き、その
真意を確かめようとします。
省17
329:左平(仮名)2011/09/04(日) 02:35:30 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

桓範からみれば、余りにも愚かな決断でした。曹爽達は、自らを守るものを、自ら捨て去るというのです。必死に止め
ようとしますが、極度の緊張から解放されることにただただ安堵する曹爽達には届きませんでした。
「元候(曹真)はまことに立派なかたであった。…あなたがたは、犢(こうし)のようなものだ」

省18
330:左平(仮名)2011/09/04(日) 02:36:11 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

曹爽達は、というと、まずは自邸に戻ることを許されますが、謹慎を余儀なくされます。ただ謹慎するだけではなく、
近隣から動員された八百人の兵から監視されるのです。
庭に出るだけでも囃し立てられるのですからたまりません。おまけに、一切の人の出入りが禁じられているので、食材
さえ入手できないという有様。
省26
331:左平(仮名)2011/10/02(日) 01:53:48 ID:???0 [sage ] AAS
三国志(2011年09月)

今回のタイトルは「王淩」。先のクーデターは司馬懿の完全な勝利に終わったわけですが、魏の内部に、新たな異変の眼が
生じつつあります。

祖父は後漢の大将軍・何進。母は魏武帝・曹操の夫人。そして、自身の妻は公主(曹操の娘)。何晏は、魏王朝においては、
省25
1-AA