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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
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356:左平(仮名)@投稿 ★ 2011/12/03(土) 00:45:08 ID:bT4gIyLs0 三国志(2011年11月) 今回のタイトルは「交代」。いつの間にか世代交代の時期になっています。 司馬懿自らが兵を率いて南下中。それは、王淩を討伐する軍である。この知らせは、王淩を驚愕させました。挙兵しようにも、 完全に機を逸したのです。 そのせいでしょうか。司馬懿と、長子・王広からの書簡を読んだ王淩は、自ら出頭しました。自首すれば罪に問わない。その ようなことが書かれていたようです。しかし、司馬懿は、そんなに甘い人物ではありません。 かつて、孟達を討った時がそうでした。そして、曹爽を倒した時も。司馬懿にとっては、ことばもまた計略の一環。敵に対する 信義などというものは、端から存在しないのです。 小舟に乗った王淩は、司馬懿のいる旗艦に近付くことを拒まれました。ここに至って、初めて騙されたことに気付いた王淩は、 わたしを騙したのか、と叫びますが、「君を騙しはしても国家を騙しはしない」と言い返され、絶句します。 引き続き太尉の印綬を持たされましたが、都に着けば、楚王擁立計画の全容を暴かれ罪に問われることは確実。王淩は、毒を 仰ぎ自決しました。享年八十。 王淩自身は太尉として死にましたが、その息子達は、皇帝廃立を目論んだ者に連なるとして処刑されました。かつて令狐愚に 仕えていた単固という人物も、連座して処刑されました。 擁立されるはずだった楚王・曹彪は自決に追い込まれ、その属官達も処刑されました。 「謀叛」というものは、たとえ未遂に終わっても族滅に至る重罪。過酷とはいえ、ここまでは、仕方のないことではあったの でしょうが… 続きます。
357:左平(仮名)@投稿 ★ 2011/12/03(土) 00:49:44 ID:bT4gIyLs0 続き。 これほどの大量処刑があったにも関わらず、百官からは、なお処罰が甘いという声があがりました。司馬氏が魏の実権を掌握 しつつあることを認識し、それに媚を売ろうとしたのです。 太尉として死んだ王淩や刺史として死んだ令狐愚の墓が暴かれ、遺骸は晒し者とされました(その後、直に埋められている)。 そんな中、馬隆は、かつて令狐愚の客であったことから、晒されていた遺骸を引き取って埋葬し、さらに喪に服しました。 馬隆の行動は称賛されたことからみても、令狐愚達は、(先に司馬懿に欺かれて滅んだ)曹爽達とは異なり、為政者としては 優秀だった(民に慕われた)ことが分かります。 この直後、司馬懿の病は急速に悪化しました。老齢で無理をしたことが堪えたのでしょうが、王淩の祟りだという声があった のも無理からぬところ。結局、その年のうちに亡くなりました。 しかし、司馬氏の権力は弱まりません。伊尹の故事(伊尹が亡くなるとその子の伊陟が継いだ)に従い、長子の司馬師が引き 続き実権を掌握し続けたからです。 時に司馬師は四十四歳。しかし、その真意を知る者はいません。仕官して日が浅いというわけでもないのに、どこか謎めいた 存在感を放っています。ただし、この年は服喪期間につき、その実像が明らかになるのは翌年以降になります。 魏の方がひと段落ついたところで、話は呉に移ります。 続きます。
358:左平(仮名)@投稿 ★ 2011/12/03(土) 00:55:43 ID:bT4gIyLs0 続き。 この年、呉では災害が相次ぎました。当然、人々は不安に駆られるのですが、孫権がしたことといえば、大赦くらい。政務に 対する関心がすっかり失われていました。 そんな中、外出した孫権は発熱して寝込みます。孫権は高齢。万一のことがあれば…。ここでも、皇后となった潘氏や孫魯班 らが暗躍します。 寝込んでいる孫権ですが、ときどき意識を取り戻し、太子の廃立は誤りではなかったか、と問いかけます。もちろん、潘氏達 がこれを是とするわけはありませんから、何とか言いくるめるのですが。 いくらかは回復したものの、もはや孫権の余命は僅か。遠からず死ぬことを自覚した孫権は、孫和の復位が成らないとみると、 幼い孫亮を補佐する者を推挙するよう命じます。 群臣達は、こぞって諸葛恪を推挙しますが、孫権は難色を示します。彼が後事を託するに値しないとみたからです。ここまで 目立った失策はなかったはずですが、諸葛恪という人物に、どこか危ういものを感じたようです。すっかり衰えた孫権ですが、 時に、往年の冴えを取り戻すことがあります。もっとも、諸葛恪にまさる人物がいないこともまた事実。 秀長亡き後の豊臣家、とまではいかないまでも、陸遜がいれば…と思う呉人も多かったでしょうね。 諸葛恪に後事が託されることは、潘氏達としても望ましくありません。かつての呂氏の如く垂簾政治を行いたい、という野心を 抱く潘氏にとっては、諸葛恪が全権を担うなどというのは悪夢でしかないのです。 孫権との面会をさせない、ということには成功しましたが、さて…。 追記。 印象に残った人物が二人。 まず曹彪。皇帝の使者から「何の面目あって武帝にまみえるのか」と言われ、怒りの目を向けるあたりは、帝室の一員としての 矜持を感じさせます。 司馬懿は、皇帝の留守をついてクーデターを起こしたわけですが、これこそ、皇帝をないがしろにする叛逆ではないか。司馬懿 に言われるがままに帝室の一員たる曹爽達を滅ぼしたのは、おのが手足をもぎ取るが如き愚行。その心の声を形にしようとした のが、王淩ではなかったか。彼こそ、武帝の恩に報いようとした忠臣。ゆえに、われは王淩と共謀した…。 確かに、即位時は幼弱ではあったでしょうが、それから既に十年以上が経っています。それにもかかわらず、おのが意志を見せ ない曹芳は、愚かと言われてもしょうがないのかも知れません。一方で、王淩達が曹彪の擁立を考えたというのも分かります。 次に、孫峻。物事をはっきり言う性格を孫権に気に入られたということですが、潘氏や孫魯班、それに、潘氏に取り入る孫弘ら と比べると、善良な人物に見えてきます(非凡という風でもありませんが)。 司馬懿存命中の時点で、魏の群臣が司馬氏に媚び始めた、というのが気になります。司馬氏の王朝たる晋は中国史上最も脆弱な 統一王朝だったように思うのですが、このあたり、何か関係があるのでしょうか。
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