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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
357:左平(仮名)@投稿 ★ 2011/12/03(土) 00:49:44 ID:bT4gIyLs0 続き。 これほどの大量処刑があったにも関わらず、百官からは、なお処罰が甘いという声があがりました。司馬氏が魏の実権を掌握 しつつあることを認識し、それに媚を売ろうとしたのです。 太尉として死んだ王淩や刺史として死んだ令狐愚の墓が暴かれ、遺骸は晒し者とされました(その後、直に埋められている)。 そんな中、馬隆は、かつて令狐愚の客であったことから、晒されていた遺骸を引き取って埋葬し、さらに喪に服しました。 馬隆の行動は称賛されたことからみても、令狐愚達は、(先に司馬懿に欺かれて滅んだ)曹爽達とは異なり、為政者としては 優秀だった(民に慕われた)ことが分かります。 この直後、司馬懿の病は急速に悪化しました。老齢で無理をしたことが堪えたのでしょうが、王淩の祟りだという声があった のも無理からぬところ。結局、その年のうちに亡くなりました。 しかし、司馬氏の権力は弱まりません。伊尹の故事(伊尹が亡くなるとその子の伊陟が継いだ)に従い、長子の司馬師が引き 続き実権を掌握し続けたからです。 時に司馬師は四十四歳。しかし、その真意を知る者はいません。仕官して日が浅いというわけでもないのに、どこか謎めいた 存在感を放っています。ただし、この年は服喪期間につき、その実像が明らかになるのは翌年以降になります。 魏の方がひと段落ついたところで、話は呉に移ります。 続きます。
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