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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
385:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/07/01(日) 03:56:22 ID:???0 [sage ] おばらさん、お久しぶりです。 >もう10年経ったかw そういえばもうそんなになるのですね。早いものです。では、今回のレポ?を。
386:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/07/01(日) 03:58:45 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年06月) 今回のタイトルは「寿春」。王粛の予言通り、東南に兵乱が発生します。王淩の件からはまだ数年。この頃の司馬氏にとっては、 東南は不祥の地ですね。 かつて公孫淵と戦い、高句麗討伐を成功させて勇名を馳せた毌丘倹は、この頃、鎮東将軍にして都督揚州諸軍事という重責を担う、 魏を代表する将帥となっていました。 ともに戦場に立ったこともある司馬懿には多少の親近感がありましたが、司馬師とはいささか距離があります。そんな彼にとって、 司馬師がなした皇帝廃立の挙は、許せない出来事でした。 辺境で戦う将の器量と労苦をよく知る帝王であった曹叡を尊崇する彼にとっては、その遺詔を踏みにじる行為と映ったのです。 そんな彼の配下の一人が、文欽でした。父の代からの根っからの武人である彼は、一言でいえば問題児でした。なのですが、腫れ 物に触るような扱いを受け、この当時は揚州刺史。結構、出世しています。 扱いにくい文欽ですが、彼以上の武人である毌丘倹には、よく従っていました(同じ武人であることもあり、毌丘倹は、その扱い 方を心得ていたのです。一方、諸葛誕とは犬猿の仲)。 文欽は曹爽とは同郷で、その縁で出世したとも言えるのですが、曹爽が滅んだ後も、割と待遇は良かったようです。しかし、司馬 氏が力を持っている現状には、不安と不満を持っていました。 多少の相違はあるとはいえ、二人は皇帝廃立の挙に憤ります。また、毌丘倹のもとには、洛陽で仕官している子の甸から、父上は 決起すべき、との含みを持った文を受け取っていました。 王淩の轍は踏まぬよう、二人は計画を練ります。そして、年が明けると、すみやかに行動に移りました。 続きます。
387:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/07/01(日) 04:01:47 ID:???0 [sage ] 続き。 二人の決起には、皇帝をないがしろにする司馬師を除く、という大義名分がありました。また、そのために、偽造とはいえ皇太后の 詔を持ち出しました。それでも、決起する際に、人々を軟禁状態に置いたうえで誓いを立てさせる等の強行手段を取らざるを得ない あたり、この決起の危うさを物語っています。 とはいえ、数万の兵を擁した、大規模な内乱の発生です。この頃、司馬師は、目の上の瘤を切除したばかりで療養中だったのですが、 早速、対応に悩むこととなります。 叛乱の規模からすると、大将軍たる自分が行くべき案件ですが、病み上がりの身には堪えます。地位等でいえば、叔父の司馬孚でも 良いのですが、堅実とはいえ応変の才には欠ける司馬孚を遣わすことには、いささかの不安があります。 これについて、司馬師は二人の意見を聞くこととなります。 まず一人目は、王粛です。魏建国の元勲・王朗の子にして優れた学者でもある彼には、あえて直截的な聞き方はしませんでしたが、 その回答は、戦の本質を突いたものでした。 王粛は、かつての関羽の例を挙げ、こちらが敵方の家族を抑えている以上、彼らはやがて自壊する、と看破しました。それならば、 司馬孚がそつなくこなすであろう、と、療養に専念しようとします。 しかし、その後、二人目の傅嘏が来ます。彼は、司馬師自らが行かなければ敵に勢いを与えてしまうことになる、と強諫します。 大局的にみれば王粛の言う通りですが、確かに、「騎虎の勢い」ということもありますから、用心するに越したことはありません。 司馬師は、戦場に赴くことにしました。 となると、都・洛陽が空きます。曹髦がこのことをどうみるか。傅嘏の懸念は、そこにもありました。 続きます。
388:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/07/01(日) 04:03:40 ID:???0 [sage ] 続き。 傅嘏は、曹髦を「こざかしい」とみていました。司馬師に近い彼からすると、親政に意欲をみせる(必然的に、遠からず司馬師と 対立することになる)曹髦は、好ましい存在ではないのです。うかつなことをすると、司馬師不在の間にクーデターを仕掛けるの ではないか。そうなると…。 それゆえ、留守の役割は重大です。司馬師は、これに弟の司馬昭をあてることにしました。この頃、司馬昭は、蜀漢に備えるべく 西方に駐屯していたのですが、陳泰に任せてよいと見極めがついたので、呼び戻すことが可能になったのです。 司馬昭が洛陽に戻り、司馬師は戦地に向かいます。このとき、司馬昭はかすかな不安を感じますが…。 司馬師みずから行くことを強硬に主張した傅嘏ですが、その後は慎重な姿勢を示します。それは、王基がいうように、司馬師自ら が行く(敵に勢いを与えない)ことで、勝敗自体はすでに明らかになったからです。 短期決戦を望むのは、兵力面で劣勢の毌丘倹の方。司馬師は、諸方面に命を発し、じわじわと毌丘倹に対する包囲網を敷きます。 傅嘏と鍾会のコンビが、いかにも参謀、といった感じで、作戦計画を練っていきます。 ただし、戦場の情勢は刻一刻と変化するもの。戦局全体をみれば傅嘏の慎重姿勢は正しいのですが、それが全てではありません。 王基は、食糧庫のある南頓まで兵を進めるよう求めます。王基が突出すれば包囲網に乱れが生じる恐れがあるので、傅嘏達はそれ を却下するのですが、王基は、ついにそれを振り切って南頓まで兵を進めます。 そして、これによって情勢が動きます。毌丘倹も南頓の重要性に気付き、その確保を試みたのですが、王基に機先を制されたため、 そうもいかなくなりました。既に脱走する将兵も出始めており、早急に戦果を挙げる必要が生じたのです。 続きます。
389:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/07/01(日) 04:11:39 ID:???0 [sage ] 続き。 既に劣勢なのは明らかな毌丘倹。そんな彼に、悲報が舞い込みます。子の甸が、亡くなったのです。 父の決起に呼応し、洛陽から父のもとに向かおうとしたのですが、途中で捕捉され、戦った末に討死したのです。魏の行く末を 案じ、魏に殉じた彼の最期を知った毌丘倹は、その死を哀しむとともに、誇りに思いました。 不幸中の幸いというべきか、毌丘倹の子は甸一人ではありません。他の子は呉に逃しました。自分が死んでも、毌丘氏の血胤は 残ります。毌丘倹は、決意を新たに、戦いに臨みます。 一方、文欽は、包囲網の一角を担う兗州刺史・ケ艾の迎撃を命ぜられます。意気込む文欽と、それに何か意見のあるような、中 子の文鴦。さて、何をしようというのか。 また、呉も動いていました。孫峻も、魏の内乱という好機を逃すほど愚かではありません。寿春(を拠点とする毌丘倹)を救援 すると言いつつ、あわよくば…というのは、呉としては当然の判断でしょう。 ただし、この少し前に、陳泰らによって姜維は撤退しているわけですから、今回も、蜀漢との連携はとれていないのですが。 何というか…立場によって物の見方は変わるものですが、今回は、特に強く意識させられました。前回、群臣達にはおおむね 好意的に迎えられた、神秘性さえ感じさせる曹髦が、こざかしい、なんて言われているわけですからね。 ただ、そう言っている傅嘏も、賢者とはいえ万能ではありません。王基の、突出とも思われる行動も、十分に理に叶ったもの だったわけですが、それを理解していないように見えました。 また、毌丘倹父子の、魏(主に曹叡)への忠誠ぶりには、清々しさを感じます。一方で、人々の支持を得ているのは、司馬師 の方。このあたり、正義とは、政治とは、等と考えさせられます。
390:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/07/01(日) 04:13:38 ID:???0 [sage ] 追記。 今回の「オール讀物」に、宮城谷氏のインタビュー記事が載っていました。それによると、来年九月に出る十二巻をもって、 「三国志」は完結するとのことです。 ファンの人からは「呉の滅亡まで書いてほしい」との要望があったようですが、いつかの記事のように蜀漢の滅亡あたりで 終わりそうです。 (個人的には、さらにその後の、王衍の最期≒西晋の滅亡まで見たかったのですが…) 劉備は、全てを捨てることで蜀を得た、この時代の最大の非常識人である、という見方をされていました。本作では、曹操 を主人公とした(彼を描くために、養祖父・曹騰から書き始めた)わけですが、不思議なもので、劉備の方が独特の存在感 を持ったことになります。 本作の完結が見えてきたことにはいささかの寂しさを感じますが、この時期だからこそ、というべきか、新たに、「三国志 外伝」の連載が始まりました。 第一回の主人公は、許靖です。(上)となっているので、二回か、三回か。
391:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:06:01 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年07月) 今回のタイトルは「傅嘏」。毌丘倹の決起の結末はいかに。 前回の時点では、文欽達から最も近いところにいた敵は、南頓にいる王基でした。しかし、戦うよう命ぜられた相手はケ艾。 毌丘倹からすれば、王基ほどには実績がなく容易な敵だと思ったからですが、文鴦は少し違った視点を持っていました。 文俶(鴦は幼名)。未だ幼名が抜けきらない若年ながら、ケ艾が、まだ前線に着いて間もない(→戦う支度が不十分である) ことを看破し、直ちに攻撃すべきであると説きます。 文欽もこれに同意し、二人は直ちに支度を始めます。父であり、将としての格が高い文欽の方が多くの兵を率いるとはいえ、 文俶の支度は父よりも速やかで、かつ抜かりのないものでした。 二手に分かれて兵を進めたのですが、文俶は、(父の軍勢とケ艾を挟撃するべく)大きく北に回り込もうとします。そして、 これが(両軍にとって)思いもかけない事態を招くことになります。 この時、ケ艾が率いていたであろう軍勢は、一万程度といったところ。文俶が率いていたのは二、三千程度でした(文欽が 率いていた軍勢はこれより多いので、夜襲であれば十分挟撃が可能)。 しかし、文俶のもとにとんでもない報告がもたらされます。数万の大軍が近くにいるというのです。この確認に手間取った ため、夜襲というのはいささか微妙な時間となりましたが、夜が明けては元も子もありません。文俶は、攻撃を開始します。 この大軍の正体は大将軍・司馬師の本隊でした。王基が突出した形になっていたため、包囲網の形を整えるべく、前進して いたのです。 そんなところに、文俶は攻撃を仕掛けたのです。通常であれば、無謀そのものの行為ですが… 続きます。
392:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:07:17 ID:???0 [sage ] 続き。 文俶の戦いぶりは凄まじいものでした。圧倒的な大軍が相手とはいえ、夜が明けきらぬうちの急襲だったことが功を奏し、 司馬師の陣営は大混乱に陥ります。 それだけではありません。この混乱のため、司馬師の体調が一気に悪化したのです。 とはいえ、文俶の手勢は僅かです。夜が明けてケ艾達も合流すれば包囲殲滅される恐れがあります。文俶は、未練を残し つつも、撤退します。 撤退の途中、文欽の軍勢と合流しますが、(司馬師の叱咤で)混乱から立ち直った大軍が迫ります。報告を聞いた文欽は、 迷うことなく撤退しました。 文俶は、自らが殿を引き受け父を逃がします。この戦いぶりがまた凄まじく、その武威に恐れをなしたか、以降、追撃は ありませんでした。 物語では、文俶は趙雲に比せられていましたが、そう言われるのも無理からぬ戦いぶりです。人並外れた武勇に加えて 冷静な判断力。この二つを兼備した勇者は、なかなか得難い人材です。 また、文欽の逃げ足の速さもなかなかのものです。猛将とはいえ退くべき時が分かっているあたり、ただの猪武者では ありません。 文欽達は無事に撤退しました(そのまま呉に亡命)。しかし、その一部始終を聞いた毌丘倹は愕然とします。ただでさえ 兵力が漸減しているというのに、大将軍自らが率いる大軍が迫っているとなると、こちらの劣勢は明らかなのです。 毌丘倹は、体勢を立て直すべく、いったん本拠地の寿春まで退くこととしました。 続きます。
393:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:13:48 ID:???0 [sage ] 続き。 一刻も早く寿春に…と思ったのでしょうが、毌丘倹は、なぜか側近のみを従えて項城を後にしました。いかに漸減していた とはいえ、まだ相応の軍勢がいたはずなのに、です。 側近のみ、とはいっても、城を出た時点では多数いたのですが、櫛の歯が抜けるように欠けていき、ついには、弟と孫のみ になりました。いくら勇将とはいえ、これでは、追っ手に捕捉されたらひとたまりもありません。 項城の異変に気付いたのかどうかは分かりませんが、寿春への途上には、既に(近隣住民も駆り出した)捜索網が敷かれて いました。 捜索を避けるべく、毌丘倹は草むらに身を潜めます。そこに、捜索に当たっていた張属が矢を放ちます。矢は毌丘倹の首を 貫きました。…数万の大軍を率い、少なからぬ功業を挙げた勇将としては、あまりに呆気ない最期でした。首をみた司馬師 が慨嘆したのも無理からぬところです。 かくして、毌丘倹の決起は失敗に終わりました。しかし、ここで新たな問題が発生しました。司馬師の容態が悪化し、ついに 亡くなったのです。享年四十八。 死期を察した傅嘏・鍾会が、司馬昭を呼び、軍の引き継ぎを行ったため、ひとまず混乱は回避できました。とはいえ、これは あくまでも私的な引き継ぎ。皇帝・曹髦の承認を得たものではありません。 当然、洛陽からは、「司馬昭は引き続き本務にあたれ(毌丘倹討伐のために動員された軍は傅嘏が率いて洛陽に帰参せよ)」 という命令が届きます。兄の後を継いだばかりの司馬昭、いきなりの重大局面です。 続きます。
394:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/08/06(月) 02:18:02 ID:???0 [sage ] 続き。 このとき、傅嘏は、自分が司馬師に出師を強いたばかりに…と自責の念に駆られていました。また、前回も書かれていたよう に、曹髦の器量に不信感を抱いていました。 それゆえ、彼自身は司馬氏の家臣ではありませんでしたが、司馬昭のために何をすべきか…と思っていました。そんな彼の判 断は、皇帝の命令を無視し、司馬昭が軍を率いたまま洛陽に向かう(洛陽近郊で停止し威圧する)、というものでした。 いかに少年とはいえ、相手は皇帝。正面から命令を無視するのですから、大変な判断です。が、司馬昭も、ここが勝負どころ と分かっていましたから、この判断を善しとし、実行に移します。 既に皇帝を凌駕する実力の持ち主が、大軍を率いたまま、洛陽近郊で停止し沈黙したのですから、大変な威圧です。ついに、 この件は皇帝側が折れる(司馬昭を大将軍に任命し、公私ともに司馬師の後を継がせた)という形で決着しました。 この重い判断が心身に堪えたのか、ほどなく傅嘏は世を去ります。彼の最後の心配は、ともに司馬師を補佐した鍾会に驕りの 色が見えてきたことでした。もちろん、鍾会を戒めてはいますが、彼がそれをどう聞いたかは…。 追記。 毌丘倹も、傅嘏も、国を想う人物であったことは間違いないでしょう。しかし、毌丘倹にとっては国=曹氏(特に曹叡)なの に対し、傅嘏にとっては国≠曹氏であった点が異なります。 外伝でもあったように、いわゆる名士にとっては、曹操の出自(宦官の養孫)はどこまでいっても汚点扱いなのでしょうか。
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