★『宮城谷三国志』総合スレッド★
400:左平(仮名)@投稿 ★2012/10/08(月) 06:33:14 ID:???0 [sage ]
続き。

魏は、既に司馬昭が実権を掌握しており(特に軍事面においては、独断で兵を動かすことさえ可能)、高官達も、その
ことを概ねよしとしていました。孟子の教えによれば、曹氏<司馬氏なのであれば司馬氏の世になってもよい、という
わけですから、高官達が司馬昭に媚びへつらっているわけではないのです。
事実、当時の高官の多くは、人格識見とも世に優れた人達が任じられていました。しかし、それが全てではありません。
司馬氏の方が良い政治を行うとしても、いまだ帝王ではないのです。臣下が帝王を脅かすのはどうか。そう思う人達も
います。文欽も、その一人でした。

傲慢な文欽は、呉では嫌われていました。しかし孫峻は、彼の意気をみて、魏に隙ありと判断しました。蜀漢が段谷で
大敗したことを知ってか知らずか、魏への出師を決めたのです。
当然、呉内部では猛烈な反対にあいます。その一人が(孫権に後事を託されたうちの一人である)滕胤なのですが、孫
峻は、彼も連れて軍勢を見送ろうとしました。
その時、各将の陣を見て回ったのですが、その一人、呂拠の陣をみた際に、ただならぬものを感じます。…といっても、
異変があったわけではありません。将の威令がよく行きわたった、粛然とした陣があっただけです。
しかし、呂拠は、孫峻とともに孫権から後事を託された者の一人。もし、呂拠と滕胤が手を組んで自分に敵対したら…。
不意に胸騒ぎを覚えた孫峻は、送別の宴に出ることもなく、引き返しました。

続きます。
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