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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
408:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 22:57:43 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年11月) 今回のタイトルは「全氏」。呉の名門・全氏に、一体何が…。 寿春の城内では、諸葛誕の部将である蒋班・焦彝が、朱異の死と孫綝の撤退を知り、ある献策をしようとしました。 孫綝が撤退したとなると、寿春は孤立します。城内の兵がこのことを知って恐慌状態に陥る前に、城内の全兵力をもって 打って出よう、というのです。 しかし、タイミングが最悪でした。諸葛誕のそばに、文欽がいたのです。猛将とはいえ、魏の包囲網の堅さをいやという ほど味あわされた文欽は、当然ながらこれに猛反発。普段は文欽とは犬猿の仲の諸葛誕も、ここでは文欽に同調したため、 献策は容れられませんでした。 蒋班・焦彝は、諸葛誕の決起の大義を信じて、ここまで付き従ってきました。もちろん、ある程度の勝算もあってのこと です(魏の南部に属する寿春付近は長雨が降る時期があるため、長期にわたる包囲網の維持が困難。よって、長雨の時期 まで持ちこたえれば敵が撤退することが見込まれる)。 しかし、この年は、いつまで経っても雨が降りません。諸葛誕は、巫祝に降雨を祈願させましたが、それも効きません。 こうなると、この決起は、天に認められないものなのか、という疑問が生じてきます。 やがて、朱異の死と孫綝の撤退が城内の将兵に知れ渡ると、士気は目立って低下しました。他の将兵と同じく、意気消沈 していた蒋班・焦彝には、士気を高揚させる術もありません。 献策が容れられなかったこともあり、二人は、降ることを考えます。 降るとはいっても、ことは容易ではありません(ただ降っただけでは、不忠として斬られる恐れもある)。幸い、敵の軍 中につてを発見した二人は、内密に降る意向を伝えさせます。 続きます。
409:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 22:59:46 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛誕の部将、それも、副将ともいうべき二人が降る、という知らせを受けた司馬昭は、これを受諾。二人は機をうかがい、 降ることに成功しました。 司馬昭からすると、労せずして諸葛誕の戦力を削ぐことができたわけですが、さらに大きな知らせが舞い込んできました。 全輝・全儀の兄弟が、魏に亡命してきたというのです。 全氏は、全輝・全儀の祖父にあたる全jが父とともに孫氏に仕えて以来、呉の重臣として活躍してきました(全jは、孫権の 娘・孫魯班を娶っている)。 その全氏から、よもや敵国・魏に亡命する者が出ようとは。司馬昭ならずとも、驚くべき事態です。 訴訟がこじれたため、呉にいられなくなった、ということですが、ことは、全輝・全儀の二人に留まりません。なぜなら、寿 春の城内には、兄弟の叔父にあたる全懌が(他にも、全氏一門の者が多く)いたからです。 孫綝が撤退したことで、呉の援軍は縮小しています。しかし、呉帝室の連枝とも言える全氏がいる以上、呉は全軍撤退すると いうわけにもいきません。ですが、その前提が覆るとしたら…。 司馬昭は、彼らにも寛容をもって接します。敵国の者であった我らに対し、なんという厚情…。感じ入った二人は、全面的な 協力を約束しました。 司馬昭は、彼らに、あることを依頼します。 続きます。
410:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 23:01:50 ID:???0 [sage ] 続き。 城内の全懌達に、魏に降るよう説得してもらいたい、というのです。 全jの死後、家督を継いだ全懌が魏に降るとなれば、その影響は計り知れないものがあります。将兵の犠牲を減らすのに、 これほどの策はそうそうないでしょう。 とはいえ、寿春の城内には、全氏以外の将兵も多くいますから、ことは慎重を要します。 幸い、全輝・全儀に付き従ってきた従者の中には、全懌達と面識がある(そして、信頼されている)者が多くいました。 彼らを使って、慎重に、連絡を取り合います。 全輝・全儀が魏に亡命した。このことは、全懌達にとっても、大きな衝撃でした。鍾会の策で、呉国内の全氏が皆殺しに されるかも…という危機感を持たされたのも効きました。 そうでなくても、孫綝が撤退したことで、見殺しにされるのではないか、という疑念が生じているところです。これまで 呉において重きをなしてきた全氏の危機。全懌は、難しい判断に迫られます。 彼一人であれば、そんなに難しいことではないでしょうが、ここには、彼らが率いてきた数千の兵がいるのです。当然、 皆が皆、魏に降ることをよしとするとは限りません。 さて、どうするか。 続きます。
411:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 23:03:56 ID:???0 [sage ] 続き。 全懌は、ついに、魏に降ることを決意しました。息子達や、従兄弟の全端も、ともに亡命します。 しかし、自分たちだけが城外に出るのでは、置き去りにされた兵がどうなるかわかりません。全懌は、兵達と一緒に、 城外に出ました(もちろん、司馬昭に事前承認を得た上で、です)。 数千の兵が、堂々と城外に出て、包囲している魏軍からも、城内の諸葛誕・呉軍からも攻撃を受けることなく、戦場 から離脱したのです。 何とも不思議な光景ですが、これにより、全氏の兵は、無事に死地を脱しました。 城内から全氏の兵が消えた。ようやくことの重大さを理解した諸葛誕達は、これまでの防戦体制から一変、決死の総 攻撃を試みます。 その攻撃の凄まじさは、冷静な王基でさえあわや、というところでしたが、数か月の籠城を経た後で数倍の敵による 包囲網を突破するのは、やはり無理がありました。 再び城内に追いやられた諸葛誕は、疑心暗鬼が募り、ついに文欽を殺害。その子・文俶にも危険が迫ります。
412:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/12/02(日) 23:05:00 ID:???0 [sage ] 追記。 全j以外の全氏は、ゲーム等では、目も当てられないような低数値にされがちですが、今回の全懌は、父の全jや 兄の全緒にも見劣りしない人物として描かれていたように思います。 数千の兵の命を守るため、あえて難しい方法を選んだ全懌の行動は、見事なものでした。 寛容をもって接した司馬昭の勝利と言えるでしょう(それだけに、諸葛誕の決起の遠因となった曹爽派の処断には すっきりしないものを感じるのですが)。 また、孫綝の軍事的手腕のなさが、あらためて浮き彫りにされました。魏の内紛に介入したはいいが、ただ将兵を 失っただけでした。 それにしても、全氏が亡命せざるを得なくなるほどにこじれた訴訟とは、いったい…。
413:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/01/01(火) 00:22:54 ID:???0 [sage ] 今回は三国志は休載でした(文藝春秋の90周年特別号、ということです)。
414:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/02/08(金) 06:51:20 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年01月) 今回のタイトルは「孫亮」。諸葛誕の決起がついに決着します。とともに、呉に動きが…。 文俶達は、寿春城内の小城に起居していましたが、ここに諸葛誕の軍勢が迫ります。数百も手勢があれば、諸葛誕を 殺して父の仇を討てる、と思った文俶でしたが、兵達は恐慌を来たし、我先にと逃げ散る有様。 これをみた文俶は、何を思ったか、城壁を越えて脱出し、不倶戴天の敵であるはずの司馬昭の陣に駆け込みます。 司馬昭も驚いたでしょうが、彼は、何より政治家でありました。普通ならば即刻処刑しているところを、敢えて許した のです(戦いの序盤で降ったなら処刑していたであろうが、窮した今であれば、許す方がよい、と判断した)。 自身のみならず、兵達にも気遣いをみせる司馬昭に感じ入った文俶は、城内に投降を呼びかけます。 そろそろか。司馬昭は陣を進め、ついに、城内に兵が突入しました。いよいよ、諸葛誕に最期の時が迫ります。 この時、彼にはなお千を越える兵がつき従っていました。もはやこれまで。我が首を差し出せば…。しかし、ここまで ついてきた兵達は、たれ一人としてこの場を去ろうとはしませんでした。 決起は失敗し、謀叛人として死ぬ。甚だ不名誉なことではありますが、それでもなお、これほどの人々がついて来て くれることに、諸葛誕は感激します。そして、ついに…。 諸葛誕は、魏への忠義を唱えて決起しましたが、かつて浮華の徒として曹叡から遠ざけられたこと、(文欽と不仲 だったとはいえ)毌丘倹の決起に同調しなかったことを考えると、それにはいくらかの修辞があったのではないか、 とされています。 ただ、司馬昭の意を受けた賈充と面会した際のやりとりをみると、決起せざるを得なかったのか、とも思えます。 (司馬師には殺されないが司馬昭には殺されると思った、ということですが、これって、賈充のせいでは…) 続きます。
415:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/02/08(金) 06:52:48 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛誕は戦死し、決起は鎮定されました。彼に最期まで付き従った兵達は、たれ一人として助命を願うことなく、 処刑されました。哀しい場面ですが、ある種の美学があります。 城内に残された呉の将兵達は、司馬昭の寛弘に感じ入り、多くはそのまま降りました。年を越えて続いたこの戦いは、 司馬昭の完全勝利に終わったのです。 司馬昭は、この余勢をかって呉に侵攻しようか、とも思いましたが、ここは王基の諫言に従い、兵を引きました。 大勝の後、調子に乗ってさらに戦いを続けて惨敗を喫する、という例は、遠くない過去にも何例もあるだけに、この 判断は賢明でした。 魏においては、結果として、司馬昭の力がますます強くなる(相対的に皇帝・曹髦の力は弱くなる)こととなりました。 では、呉は、どうなのでしょうか。 普通、これほどの敗戦ともなれば、総司令官たる孫綝の責任が問われます。そうでなくても、自責の念にかられ、降格を 申し出るなりするものですが、孫綝は、自分には全く責任はないと言わんばかりのふてぶてしさを見せます。 これには、皇帝・孫亮も怒りを隠せません。そうでなくても、孫綝がのさばるこの現状は、呉にとって望ましからぬもの なのです。孫亮は、孫綝の勢力を削ることを考えます。 皇帝自らが兵を率いて孫綝を拘束する。臣下に任せず、自ら大事に当ろうというわけですが、それには、中軍を預かる全 尚(皇后の父)の協力が必要でした。ただ、彼の妻は孫綝の一族。それだけに、慎重に事を進める必要がありました。 続きます。
416:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/02/08(金) 06:54:14 ID:???0 [sage ] 続き。 いよいよ計画が固まった頃合いを見て、孫亮は、全尚にことを打ち明け、協力を求めました。もちろん、妻には極秘で あると念押しをして。 しかし、彼女に感付かれた全尚は、このことを話してしまいます。彼女は、直ちに急使を孫綝に派遣。孫綝は、間一髪の ところで命拾いをしました。 そして、逆に孫亮を包囲。皇帝が昏乱であるとして、廃位を宣言します。 追記。 今回は、人の美しさと醜さとが、かなり強烈に描かれていました。 前者は、諸葛誕に殉じた兵達です。彼らは、諸葛誕から何かしらの恩徳を受けたのではあるのでしょうが、最後は、そう いった利害を超えて、敬愛していました。 後者は、言うまでもなく、孫綝。あれほどの惨敗を喫しながら、恥じ入ることさえしないのは、厚顔無恥というほかあり ません。しかも、かような小人が、まっとうな皇帝を廃するというのですから、他人事ながら、腹立たしいことです。 …ちと感情的になりましたが、かような小人が得てしてのさばるのですから、人の世はままならぬものです。 それはそうと、ここまで、司馬昭はかなり好意的に書かれているように思えますが、そろそろ、あの事件が描かれるはず。 どう描かれるのでしょうか。
417:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/03/07(木) 23:01:31 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年02月) 今回のタイトルは「孫綝」。孫権の晩年から続いた呉の混乱が、ようやく終息します。 孫亮が気付いた時には、宮殿は包囲されていました。打って出ることもままならず、玉璽を差し出すことしかできません。 全尚の不甲斐なさを詰りますが、空しいことは分かっています。 全紀(全尚の子)は恥じて自害し、全皇后(全尚の娘)は、廃位後も孫亮と辛苦を共にしました。子供たちは全うだった のに、ひとえに、全尚が…。 聡明な皇帝を廃位するという、董卓以上の暴挙を為した孫綝ですが、さすがに、自分が皇帝に…とまではいかず、孫権の 他の皇子を擁立しようとします。とはいっても、孫権がもうけた男子七人のうち、上の四人は既に他界し、末子の孫亮は 廃位されたところ。残っているのは、五男の孫奮と六男の孫休の二人です。 結局、おとなしいとみられた孫休が選ばれました。 知らせを聞いた孫休は、当初、迷いました。弟が廃された後、兄の自分を立てようというのですから、正常な事態でない ことは火を見るより明らか。孫綝の傀儡になることは分かりきっているのです。 一地方王としての静かな日々を捨てるに相応しいものではない。そうなのですが…しかし、ここで断ると、思いやりの心に 欠ける孫奮が即位する…。 それはならぬ。このとき、孫亮は、私事よりも国事をとる決断を下しました。ただ、龍に乗ったが尾がないという夢は、 何を意味するのか。このことは気になります。 続きます。
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