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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
40: 2002/11/02(土) 16:05 ぐっこ 2002年08月15日木曜日 22時48分 わー、情報ありがとうございます! 私もひさびさに三國志熱が再発したので、史料引っ張り出して確認しました〜。 たぶん「後漢時代の政治と社会」だと思うんですが(コピー史料…)、「孝廉が何故もてはやされたか」みたいな考察がありました。 後漢時代の官吏は、基本200石以上から勅任官に数えられ、それ以下とは地位も権限も懸絶したモノだったらしいです。 さらに600石を越える段階で、こんどは高級官僚、今でいえばキャリアのような扱いを受けるようになり、免税やら徴兵免除やらの特権を与えられるようになったとか。 で、孝廉も茂才も、いきなり郎官(比300石)に任官できるのですが、基本的に茂才が郎官止まりであるのに対し、孝廉はその後も「辟召」の対象としてマークされる名誉に浴していたらしいと。 「辟召」は三公や大将軍クラスの大物が、目を付けた人物を自分の幕府の掾属に推薦し、一挙に昇進させるシステム。 辟召の基準は「孝にすぐれた廉吏」ですから、文字通り孝廉の中から選ばれるのが風習だったらしいです。 というわけで、茂才よりも孝廉が持て囃されたと言うことでした…(^_^;)
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