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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
419:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/03/07(木) 23:04:20 ID:???0 [sage ] 続き。 臘日。この日こそが、孫綝を除くことができる、唯一のときでした。 この日、参内を前にした孫綝は妙な不安を抱きますが、すみやかに退出できるよう図った上で、参内することとしました。 参内をせかす急使が何度も来たことにもう少し不審を抱いてもおかしくないところですが、これは、ここまで孫休が孫綝 の警戒心を削ぐことに成功していた、ということでもあります。 参内し、手筈通り、退出するはずだったその時…! 張布の手勢が孫綝を縛り上げました。孫綝は、してやられた、と苦笑 しつつ、孫休に助命を乞いますが、かつての呂拠・滕胤のことを持ち出されては、ぐうの音も出ません。 孫綝は首を打たれました。享年二十八。その一族は族滅され、呂拠・滕胤(及び諸葛恪)の名誉は回復されました。 かくして、呉は、一応皇帝の尊厳が取り戻されたわけですが…魏はそうはいきませんでした。次回は、その顛末が語られる のでしょうか。 追記。 孫綝は、軍事・政治共に無能でしたが、危機を察知することには長けていました。この時も、察知してはいたのです。それを 打ち破るあたり、孫休も無能ではありません。 行状芳しからぬ孫奮を除き、孫権の息子達は有能ですね。 ただ、(本人の意思の賜物でもあるとはいえ)運頼みになった感があります。このあたりは、どうなるのでしょうか。
420:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:20:32 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年03月) 今回のタイトルは「好戦」。魏と蜀漢の好戦的な人々の話、といったところでしょうか。 まず最初に、孫休が孫綝を滅ぼした(西暦258年)時点での、各国の皇帝の年齢について触れられています。魏は、曹髦18歳。 呉は、孫休24歳。蜀漢は、劉禅52歳です。 魏と呉は、若年の皇帝が廃されて新たに若年の皇帝が擁立された、という点では共通していますが、その後の情勢は異なるものと なりました。それは、ひとえに、皇帝を制する実力者の力量の違いによるものでしょう。呉の方は、前回までで語られた通りです が、魏の方は、というと…。 その頃、魏の若き皇帝・曹髦は、現状に苛立っていました。先代(斉王・曹芳)が廃された経緯は承知しているとはいえ、自分も また、司馬氏に実権を握られたまま、政務に関われないでいたからです。 曹髦は曹芳とは異なり、酒色に走ったりはしませんでしたが、「潜龍」の詩(龍が現れたが、天に昇らないため、瑞祥ではないと 皮肉った)などをみると、相当に不満が溜まっていたことは分かります。 「(曹髦は)理屈をよくこねる」などと書かれているところをみると、やや辛く評価されているのかな…と思えます。確かに、皇 帝という至尊の地位にいるとはいえ、ままならない現実に苛立つのは、人としての風格に欠けると言えるのではあるのですが…。 曹髦の側近に、三人の王氏がいました(といっても血縁関係にあるわけではない)。王沈、王業、そして王経です。王経は、前に、 姜維に大敗を喫した人物として登場していましたが、軍事的な能力には欠けたものの、他に才能があるとみられていたようです。 その三人に向かって、曹髦は、重大な決意を打ち明けます。今から兵を率いて、司馬昭を討つ、というのです。 既に魏の軍事力のかなりの部分は司馬氏に握られていますから、全くもって無謀なことではありました。三人は必死に止めました が、曹髦は効く耳を持ちません。 続きます。
421:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:29:19 ID:???0 [sage ] 続き。 この時、曹髦はかなり昂奮していました。普段は、学問を好む理知的な人物という感じですが、実のところは、かなりの激情家で あったのではないでしょうか(ただし、全く理性が吹っ飛ぶというわけではない)。 確かに、これは無謀なことです。しかし、これまで異常なほどに正当性にこだわってきた司馬氏が相手である以上、勝算がゼロと いうわけでもないのです(皇帝の尊厳が保たれているのであれば、皇帝自ら陣頭に立てば臣下は手出しができないはず。となれば、 司馬氏を倒すとまではいかなくとも、何らかの形での実権回復も見込まれる)。 諫言が聞き入れられないのをみた王沈・王業は、司馬昭に報告。王経は、この場に残ってなおも説得を試みたようですが…ついに 曹髦自らが出撃するという事態に至ります。 まずは、皇太后のもとに向かいます。一応、皇太后の同意も得られればそれに越したことはない、というところでしたが、既に、 曹髦と皇太后の関係は著しく悪化していましたから、これは、事実上の決別でした。 (武装した(不仲の)皇帝がいきなり現れたのですから、皇太后が恐怖したのも無理はないのですが) 当初は、曹髦が見込んだ通りでした。まず現れた司馬伷(司馬昭の異母弟)は、陛下に手出しは出来ぬ、というふうで、ほとんど 無抵抗でした。これに気を良くした曹髦はなおも進撃しますが、ここで、賈充が立ちはだかります。 賈充には、皇帝への敬意はありません。彼が敬意を持つのは、あくまで司馬昭。賈充は、皇帝を眼前にして戸惑う兵達を叱咤し、 攻撃を命じます。 本気で戦えば、司馬氏配下の将兵の方が圧倒的に強いので、曹髦率いる軍勢は押されます。そしてついに、成済が、曹髦を突き 殺しました。 続きます。
422:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:32:49 ID:???0 [sage ] 続き。 最悪の事態も覚悟していた司馬昭でしたが、さすがにこの結末に対する衝撃は大きいものがありました。叔父の司馬孚が直ちに 哭泣して(皇帝と司馬氏の間に深刻な対立があったわけではないと)アピールしたこと、皇太后が曹髦を悪逆であったと罵った ことで、ひとまず落ち着きを取り戻したのですが、何かすっきりしないものが残ったのも、また事実です。 実権がなかったということもありますが、曹髦は、決して悪しき皇帝ではありませんでした。傍目には生意気な若造と思えたと しても、見ようによっては、意欲ある(そして、十分な学識もある)青年だったわけですし、何より、これといった乱行もあり ません。 曹髦を止められなかったために、ほとんどとばっちりという感じで王経は処刑されましたが、母とともに従容と死についた彼は 多くの人々から敬われました。むしろ、彼を見殺しにした王沈・王業の方が、その薄情さを曝したとも言えます。 廃帝という扱いにされたとはいえ、曹髦は皇帝です。その葬列があまりに貧弱なのを見た人々は、魏の終わりが近いことを痛感 したことでしょう。 ともあれ、一応の事務処理は済んだと思われましたが…なおも問題がありました。陳泰が来ないのです。 父祖と同様、名臣として知られる彼に認めてもらえないことには、司馬昭としても不安なのです。陳泰にしても、表立って批判 的なことは言いませんでしたが、その発言をみれば、この件を是としているわけではないことは明らか。 陳泰は、皇帝弑逆を命じた賈充を処刑するよう求めますが、司馬昭はこれを拒否。結局、下手人の成済を、その一族もろともに 殺害することでごまかしました。 続きます。
423:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:38:50 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、次の皇帝を擁立する必要が生じたわけですが…。もう、我の強い人物はこりごりです。結局、おとなしいとみられた曹奐 (燕王・曹宇の子)が選ばれました。 一方、蜀漢の方は、というと…。姜維は、さして成果の上がらない出兵を繰り返していました。姜維の相手はケ艾ですが、彼は 魏の一刺史に過ぎません。一国の大将軍の相手が刺史で勤まるのですから、もはや、国力の差は如何ともしがたいものとなって いました。 そして、内政面においても、宦官やそれと癒着した者達が実権を握るようになっていました。魏や呉のような大規模な内紛こそ なかったものの、じり貧状態であったのです。 これをみた司馬昭達は、蜀漢を一気に滅ぼすべく、入念な準備に取り掛かります。蜀の地に入る複数のルートから一斉に侵攻 するのです。 追記。 今年出る単行本で完結という話がありました。ということは、あと1、2回。いよいよ、本作のラストが見えてきました。 曹髦の非業の最期は、多くの人々に暗い影を落としました。魏の帝室たる曹氏からみれば、いよいよその衰運が明らかになった ことを示すものでしたし、遠からず帝位に就くであろう司馬氏からみれば、その正当性を大きく傷つけるものであったからです。 また、臣下からみれば、高位にある人々の節義に疑いを抱いたことでしょう。 司馬昭が切り捨てられなかったことをみると、賈充が司馬氏にとって必要な人材であったのは確かでしょうが、なぜこのような 判断を下したのか、よく分かりません。 そこまで描かれることはなさそうですが、これこそが、司馬氏のたてた王朝があっけなく瓦解した一因であるように思えてなら ないのですが…。
424:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:17:31 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年04月) 今回のタイトルは「劉禅」。ついに、三国の一角が潰えるときがきました。 鍾会を総司令官とする蜀漢への侵攻作戦については、前線にいる姜維は薄々感付いていました。しかし、蜀漢の中央には厭戦 気分が横溢したこともあり、迎撃態勢の構築は不十分でした。 宦官の黄皓の影響はあったにせよ、皇帝たる劉禅に緩みがあったことは否めません(ただ、この時点で在位四十年。歴代皇帝 の中でも長い部類ですから、無理からぬところではある、という点も言及されています)。 そして、ついに侵攻作戦が開始されました。蜀漢領内への侵入自体は容易で、(粗漏のあった許儀を斬る等)軍紀にも厳しい 魏軍の進撃は、まずは順調に進みました。 面白いことに、鍾会には諸葛亮や蔣琬への敬意があり、侵攻作戦の一環とはいえ、蔣琬の子・蔣斌に丁重な書簡を送ったりも しています(返信も受けています)。姜維にも同様の書簡を送ったのですが…これは無視されました。 姜維は、優れた人材として、名指しで諸葛亮に絶賛されたことを終生の誇りとしていました。それゆえ、諸葛亮に敬意を抱く (という姿勢を見せる)とはいえ、彼が守り通した蜀漢を侵さんとする鍾会には、強烈な敵意を隠しません。 政治的な感覚はない(それゆえ成果に乏しい戦いを繰り返すことになった)とはいえ、優秀な武将です。領内への侵入を許し はしましたが、険阻な蜀の地の利を生かし、鍾会の大軍を巧みに食い止めます。 続きます。
425:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:20:12 ID:???0 [sage ] 続き。 鍾会率いる主力軍が姜維に足止めを食らっているのをみたケ艾は、自身に割り当てられた侵攻ルートを変更し、一気に蜀漢の 要所に攻め入ることを思いつきました。 もちろん独断ではなく、洛陽にいる司馬昭の許しは得たのですが、たとえ自身に無断ではなかったとしても、鍾会には面白く ないことです。成功すれば、ケ艾に大功を立てさせる(自身はその補助に過ぎなくなってしまう)のですから、無理もないの ではありますが。 とはいえ、この進軍は困難を極めました。数千の軍勢が(補給に気を遣いつつ)険阻な蜀の山岳地帯を短期間に踏破せねば ならないのです。滑落したら一巻の終わり。それは指揮官のケ艾とて例外ではありません。毛氈にくるまっての登攀という 場面も。 そして…ついに、進軍は成功しました。姜維の援軍として魏軍と戦うものとばかり思っていた後方の諸将は、不意を突かれた 格好になりました。 しかし、小国とはいえ、魏とは同等の正統性を有する蜀漢です。馬邈や蒋舒のように降伏する者もいましたが、劣勢を承知で なお戦う者達はいました。傅僉や諸葛瞻、張遵といった面々です。 続きます。
426:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:23:05 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛瞻は諸葛亮の子で、幼少の頃より、父の偉大さを聞かされて育ってきた人物です。彼への期待は大きかったのですが、 器量については父には及びませんでした(黄皓の専横を止められなかった、等)。 とはいえ、国への忠義は父の名に恥じません。その決死の戦いぶりは、明らかに劣勢であるにもかかわらず、一度はケ艾の 軍勢を退かせたのです。 しかし、時の勢いの差は如何ともしがたく、ついに戦死。ケ艾の軍勢は、成都近郊にまで至ります。 当然ながら、蜀漢の宮廷は大混乱に陥ります。魏に降るべきか、南方に逃れるべきか。籠城する、という選択肢が挙がら なかったのは確かに不思議ではありますが、首都近郊にまで敵軍が来た以上は、籠城しても勝ち目がない、と判断しても おかしくはないところです。 通常、自軍の軍勢が健在であれば、敵軍がここまで来るはずはない、と考えるでしょうからね。あと、呉に降っては… という声もありましたが、すぐさま却下されました。同盟関係にあるとはいえ、先帝の仇ともいえる呉は、信頼できる 相手ではないのです。 意見はいろいろありますが、猶予はありません。ここで議論の流れを決定づけたのは、譙周でした。 続きます。
427:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:25:06 ID:???0 [sage ] 続き。 譙周という人の評価は難しいところです。学者としては優秀です(三国志の著者・陳寿の師でもある)し、この時の意見も 正論です。しかし…国家への忠誠、という点では、どうも引っかかります。 とはいえ、彼の意見は、(この状況下では)十分過ぎるほど理に叶ったものでした。前線の状況が分からない以上、ケ艾と 戦っても勝てる見通しはありません。ここで戦えば、皇帝の身も危うくなります。 一方で、先の曹髦のことがあります(皇帝弑逆との批判をかわすため、司馬昭は、敵を作らないことに腐心せざるを得ない) から、ここで降れば皇帝の身の安全は保証される、という冷静な計算もありました。 もちろん、ここで戦って民にさらなる苦難を与えることは避けたい…という為政者としての責任、というのもあります。 劉禅としても、苦しい決断ではありましたが…ことここに至ってはやむなし。ついに、降伏を受諾しました。子の一人・劉 ェは、先帝に申し訳ないと父を批判したのち、自害して果てましたが、これは国民への弁解である、と書かれているように、 いろいろ難しい事情がある、ということを考えさせられます。 昨日まで至尊の存在であった皇帝が、今日は罪人として敵将の前に身を晒す。ケ艾は、国が滅びるとはこういうことか、と 感慨にふけります。 追記。 物語においては、劉禅の降伏は批判的に書かれることが多いと思いますが、本作では、割と肯定的に描かれていました。 状況を考えれば、賢明な判断であったのは確かですしね。 今回で、「三国時代は終わった」わけですが、まだ「完」ではありません。最低でももう一回はあるわけですが…どこまで 描かれるのでしょうか。
428:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/06/10(月) 07:47:00 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年05月) 今回のタイトルは「滅亡」。今回が、真の意味での蜀漢の最期、なのでしょうか。しかし、それだけでもないような。 ケ艾は、この戦いに臨む際に夢をみました。爰邵という人に問うたところ、成果はあがるが…という解釈。吉か不吉か 難しいところですが…ともあれ、成果はあがりました。ここからどうするか、が新たな問題です。 降伏を受け入れ、旧蜀漢の君臣に寛容の姿勢をみせると、続いて占領地行政を取り掛かりました。このあたりはそつ なくこなします(大功をあげただけに、いささか舞い上がった言動もありますが)。 そして、呉への侵攻をも企図します。先の夢占いのこともありますし、軍略家としての血が騒いだ、というのもある でしょう。これは司馬昭が早計であると却下しますが、ケ艾は諦めません。 しかし、ケ艾は、一つ忘れていました。この戦いの総司令官は、文才に恵まれ、策謀にも長けた(そして気位の高い) 鍾会なのです。ここまでのケ艾の働きぶりは大いに称賛されるべきものですが、それは一方で、人から妬まれる危険 をも孕んでいました。 そして、年明け早々、ケ艾の運命は暗転します。叛意ありとして都に送還させられるというのです。それは、鍾会の 讒言によるものでした。 続きます。
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