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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
422:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:32:49 ID:???0 [sage ] 続き。 最悪の事態も覚悟していた司馬昭でしたが、さすがにこの結末に対する衝撃は大きいものがありました。叔父の司馬孚が直ちに 哭泣して(皇帝と司馬氏の間に深刻な対立があったわけではないと)アピールしたこと、皇太后が曹髦を悪逆であったと罵った ことで、ひとまず落ち着きを取り戻したのですが、何かすっきりしないものが残ったのも、また事実です。 実権がなかったということもありますが、曹髦は、決して悪しき皇帝ではありませんでした。傍目には生意気な若造と思えたと しても、見ようによっては、意欲ある(そして、十分な学識もある)青年だったわけですし、何より、これといった乱行もあり ません。 曹髦を止められなかったために、ほとんどとばっちりという感じで王経は処刑されましたが、母とともに従容と死についた彼は 多くの人々から敬われました。むしろ、彼を見殺しにした王沈・王業の方が、その薄情さを曝したとも言えます。 廃帝という扱いにされたとはいえ、曹髦は皇帝です。その葬列があまりに貧弱なのを見た人々は、魏の終わりが近いことを痛感 したことでしょう。 ともあれ、一応の事務処理は済んだと思われましたが…なおも問題がありました。陳泰が来ないのです。 父祖と同様、名臣として知られる彼に認めてもらえないことには、司馬昭としても不安なのです。陳泰にしても、表立って批判 的なことは言いませんでしたが、その発言をみれば、この件を是としているわけではないことは明らか。 陳泰は、皇帝弑逆を命じた賈充を処刑するよう求めますが、司馬昭はこれを拒否。結局、下手人の成済を、その一族もろともに 殺害することでごまかしました。 続きます。
423:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/04/04(木) 03:38:50 ID:???0 [sage ] 続き。 さて、次の皇帝を擁立する必要が生じたわけですが…。もう、我の強い人物はこりごりです。結局、おとなしいとみられた曹奐 (燕王・曹宇の子)が選ばれました。 一方、蜀漢の方は、というと…。姜維は、さして成果の上がらない出兵を繰り返していました。姜維の相手はケ艾ですが、彼は 魏の一刺史に過ぎません。一国の大将軍の相手が刺史で勤まるのですから、もはや、国力の差は如何ともしがたいものとなって いました。 そして、内政面においても、宦官やそれと癒着した者達が実権を握るようになっていました。魏や呉のような大規模な内紛こそ なかったものの、じり貧状態であったのです。 これをみた司馬昭達は、蜀漢を一気に滅ぼすべく、入念な準備に取り掛かります。蜀の地に入る複数のルートから一斉に侵攻 するのです。 追記。 今年出る単行本で完結という話がありました。ということは、あと1、2回。いよいよ、本作のラストが見えてきました。 曹髦の非業の最期は、多くの人々に暗い影を落としました。魏の帝室たる曹氏からみれば、いよいよその衰運が明らかになった ことを示すものでしたし、遠からず帝位に就くであろう司馬氏からみれば、その正当性を大きく傷つけるものであったからです。 また、臣下からみれば、高位にある人々の節義に疑いを抱いたことでしょう。 司馬昭が切り捨てられなかったことをみると、賈充が司馬氏にとって必要な人材であったのは確かでしょうが、なぜこのような 判断を下したのか、よく分かりません。 そこまで描かれることはなさそうですが、これこそが、司馬氏のたてた王朝があっけなく瓦解した一因であるように思えてなら ないのですが…。
424:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:17:31 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年04月) 今回のタイトルは「劉禅」。ついに、三国の一角が潰えるときがきました。 鍾会を総司令官とする蜀漢への侵攻作戦については、前線にいる姜維は薄々感付いていました。しかし、蜀漢の中央には厭戦 気分が横溢したこともあり、迎撃態勢の構築は不十分でした。 宦官の黄皓の影響はあったにせよ、皇帝たる劉禅に緩みがあったことは否めません(ただ、この時点で在位四十年。歴代皇帝 の中でも長い部類ですから、無理からぬところではある、という点も言及されています)。 そして、ついに侵攻作戦が開始されました。蜀漢領内への侵入自体は容易で、(粗漏のあった許儀を斬る等)軍紀にも厳しい 魏軍の進撃は、まずは順調に進みました。 面白いことに、鍾会には諸葛亮や蔣琬への敬意があり、侵攻作戦の一環とはいえ、蔣琬の子・蔣斌に丁重な書簡を送ったりも しています(返信も受けています)。姜維にも同様の書簡を送ったのですが…これは無視されました。 姜維は、優れた人材として、名指しで諸葛亮に絶賛されたことを終生の誇りとしていました。それゆえ、諸葛亮に敬意を抱く (という姿勢を見せる)とはいえ、彼が守り通した蜀漢を侵さんとする鍾会には、強烈な敵意を隠しません。 政治的な感覚はない(それゆえ成果に乏しい戦いを繰り返すことになった)とはいえ、優秀な武将です。領内への侵入を許し はしましたが、険阻な蜀の地の利を生かし、鍾会の大軍を巧みに食い止めます。 続きます。
425:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:20:12 ID:???0 [sage ] 続き。 鍾会率いる主力軍が姜維に足止めを食らっているのをみたケ艾は、自身に割り当てられた侵攻ルートを変更し、一気に蜀漢の 要所に攻め入ることを思いつきました。 もちろん独断ではなく、洛陽にいる司馬昭の許しは得たのですが、たとえ自身に無断ではなかったとしても、鍾会には面白く ないことです。成功すれば、ケ艾に大功を立てさせる(自身はその補助に過ぎなくなってしまう)のですから、無理もないの ではありますが。 とはいえ、この進軍は困難を極めました。数千の軍勢が(補給に気を遣いつつ)険阻な蜀の山岳地帯を短期間に踏破せねば ならないのです。滑落したら一巻の終わり。それは指揮官のケ艾とて例外ではありません。毛氈にくるまっての登攀という 場面も。 そして…ついに、進軍は成功しました。姜維の援軍として魏軍と戦うものとばかり思っていた後方の諸将は、不意を突かれた 格好になりました。 しかし、小国とはいえ、魏とは同等の正統性を有する蜀漢です。馬邈や蒋舒のように降伏する者もいましたが、劣勢を承知で なお戦う者達はいました。傅僉や諸葛瞻、張遵といった面々です。 続きます。
426:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:23:05 ID:???0 [sage ] 続き。 諸葛瞻は諸葛亮の子で、幼少の頃より、父の偉大さを聞かされて育ってきた人物です。彼への期待は大きかったのですが、 器量については父には及びませんでした(黄皓の専横を止められなかった、等)。 とはいえ、国への忠義は父の名に恥じません。その決死の戦いぶりは、明らかに劣勢であるにもかかわらず、一度はケ艾の 軍勢を退かせたのです。 しかし、時の勢いの差は如何ともしがたく、ついに戦死。ケ艾の軍勢は、成都近郊にまで至ります。 当然ながら、蜀漢の宮廷は大混乱に陥ります。魏に降るべきか、南方に逃れるべきか。籠城する、という選択肢が挙がら なかったのは確かに不思議ではありますが、首都近郊にまで敵軍が来た以上は、籠城しても勝ち目がない、と判断しても おかしくはないところです。 通常、自軍の軍勢が健在であれば、敵軍がここまで来るはずはない、と考えるでしょうからね。あと、呉に降っては… という声もありましたが、すぐさま却下されました。同盟関係にあるとはいえ、先帝の仇ともいえる呉は、信頼できる 相手ではないのです。 意見はいろいろありますが、猶予はありません。ここで議論の流れを決定づけたのは、譙周でした。 続きます。
427:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/05/08(水) 00:25:06 ID:???0 [sage ] 続き。 譙周という人の評価は難しいところです。学者としては優秀です(三国志の著者・陳寿の師でもある)し、この時の意見も 正論です。しかし…国家への忠誠、という点では、どうも引っかかります。 とはいえ、彼の意見は、(この状況下では)十分過ぎるほど理に叶ったものでした。前線の状況が分からない以上、ケ艾と 戦っても勝てる見通しはありません。ここで戦えば、皇帝の身も危うくなります。 一方で、先の曹髦のことがあります(皇帝弑逆との批判をかわすため、司馬昭は、敵を作らないことに腐心せざるを得ない) から、ここで降れば皇帝の身の安全は保証される、という冷静な計算もありました。 もちろん、ここで戦って民にさらなる苦難を与えることは避けたい…という為政者としての責任、というのもあります。 劉禅としても、苦しい決断ではありましたが…ことここに至ってはやむなし。ついに、降伏を受諾しました。子の一人・劉 ェは、先帝に申し訳ないと父を批判したのち、自害して果てましたが、これは国民への弁解である、と書かれているように、 いろいろ難しい事情がある、ということを考えさせられます。 昨日まで至尊の存在であった皇帝が、今日は罪人として敵将の前に身を晒す。ケ艾は、国が滅びるとはこういうことか、と 感慨にふけります。 追記。 物語においては、劉禅の降伏は批判的に書かれることが多いと思いますが、本作では、割と肯定的に描かれていました。 状況を考えれば、賢明な判断であったのは確かですしね。 今回で、「三国時代は終わった」わけですが、まだ「完」ではありません。最低でももう一回はあるわけですが…どこまで 描かれるのでしょうか。
428:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/06/10(月) 07:47:00 ID:???0 [sage ] 三国志(2013年05月) 今回のタイトルは「滅亡」。今回が、真の意味での蜀漢の最期、なのでしょうか。しかし、それだけでもないような。 ケ艾は、この戦いに臨む際に夢をみました。爰邵という人に問うたところ、成果はあがるが…という解釈。吉か不吉か 難しいところですが…ともあれ、成果はあがりました。ここからどうするか、が新たな問題です。 降伏を受け入れ、旧蜀漢の君臣に寛容の姿勢をみせると、続いて占領地行政を取り掛かりました。このあたりはそつ なくこなします(大功をあげただけに、いささか舞い上がった言動もありますが)。 そして、呉への侵攻をも企図します。先の夢占いのこともありますし、軍略家としての血が騒いだ、というのもある でしょう。これは司馬昭が早計であると却下しますが、ケ艾は諦めません。 しかし、ケ艾は、一つ忘れていました。この戦いの総司令官は、文才に恵まれ、策謀にも長けた(そして気位の高い) 鍾会なのです。ここまでのケ艾の働きぶりは大いに称賛されるべきものですが、それは一方で、人から妬まれる危険 をも孕んでいました。 そして、年明け早々、ケ艾の運命は暗転します。叛意ありとして都に送還させられるというのです。それは、鍾会の 讒言によるものでした。 続きます。
429:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/06/10(月) 07:48:18 ID:???0 [sage ] 続き。 さすがのケ艾も、これには為すすべもありません。三公にまで登りつめた直後のこの仕打ちなのです。しかし、本当の 「滅亡」は、これからでした。 さて、鍾会と激戦を繰り広げていた姜維は、成都付近に敵が現れたとの知らせを受け、急行しましたが…途中で皇帝が 降ったと知らされます。 何のために戦ってきたのか。こちらも呆然としますが、何か思いついたのか、「蜀漢はまだ滅んでおらぬ」と立ち直り、 成都にいるケ艾にではなく、鍾会に降ることにしました。腐れ縁の張翼も一緒です。 蜀漢の柱石たる姜維が自分に降った。この意味の大きさを、鍾会はよく理解していました。これによって一応の面目は 立ったからですが、それだけではない含みがありました。 鍾会は、降った姜維を厚遇し、彼の名によって武装解除された蜀漢の将兵を集めようとします。これは、一体…。 続きます。
430:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/06/10(月) 07:51:37 ID:???0 [sage ] 続き。 かつて傅嘏が危惧していたように、鍾会は、己の才智に驕っていました。姜維が降ったことで、自身が率いる大軍に 加えて蜀漢の精鋭も手に入れられる、となると…結構な兵力になるわけでして、要害の蜀の地に拠れば、あるいは… と思ったようです。 ケ艾への讒言も、彼の暴走を危惧して、というようなことではなく、嫉妬と、邪魔者は…というものでした。 もっとも、司馬昭(及び王夫人)も、鍾会の野望の大きさには気付いていました。その上で蜀漢征討の総司令官に 任じたわけですから、やはりこちらの方が上手でしたが。 鍾会は、蜀漢の歴戦の将兵を使って野望の実現を目論み、姜維は、お膳立てが整ったところで鍾会達を消して蜀漢の 再興を目論む…。互いに互いを利用しているわけですが… 思わぬところで破綻が訪れました。鍾会が、旧蜀漢内の兵力の完全掌握のため、非協力的な将兵の殺害を図っている、 ということで、内紛が勃発したのです。 なにしろ、旧敵国内ですから、彼らは孤立しています。殺される、という恐怖は相当なものであったはずで、これに よって、鍾会も、姜維も斃れます。 檻車に収容されて洛陽に送られているケ艾は、この時点ではまだ生きていますが…
431:左平(仮名)@投稿 ★ 2013/07/21(日) 00:24:28 ID:f69prmJ00 三国志(2013年06月) 最終回 今回のタイトルは「晋王」。約十二年にわたって続いた本作も、ついに完結の時を迎えました。呉の滅亡等、まだまだ 書いていただきたいことはあったのですが…最後は正直、「そうきますか」という思いでした。 鍾会・姜維が斃れたことで、蜀の混乱は、ひとまず収拾がつきました。監軍の衛瓘は、蜀の天地をみて、しばし感慨に 耽ります。 かつて公孫述は、この地で自立して天子と称しましたが、光武帝によって滅ぼされました。劉備もまた、この地に割拠 して皇帝を名乗りましたが、子の代で滅びました。そして鍾会も、あらぬ野心を抱きましたが、果たせず、斃れました。 この天地には、人の気宇を広げるものがあるようです。では、衛瓘は、どうなのでしょうか。 彼には、そのような野心はありません。ここでの彼は、あくまで監軍。司馬昭の名代に過ぎないのです。その程度の 冷静さは持っています。そんな中、驚くべき知らせが届きます。混乱の中を抜け出した兵達の一部が、ケ艾を奪還し、 こちらに向かってくるというのです。 ようやく事態の収拾がついたばかりのところに、(罪状未確定とはいえ)罪人のケ艾に来られては困る。衛瓘は、決して ケ艾に同調しないであろう将の田続(蜀漢征討戦の途中、進軍を停止したとして処断されそうになった)に命じ、これを 迎撃させます。 …時に利あらず。さすがの名将・ケ艾も、衆寡敵せず、ついに落命しました。 衛瓘のとった措置を、杜預は批判しました。後に衛瓘は、杜預が予言したように無残な最期を遂げるわけですが、それは ともかくとして、ケ艾の死によって、名実ともに三国時代が終わった、とされています。 (本心はともかくとして、実力的に、蜀漢に代わって第三勢力になる可能性を持ったケ艾が消えたことで、天下三分は なくなった、ということ) 続きます。
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